7月 28

週刊「教育資料」2010年7月26日号で以下を書きました。

進む親子の一体化/鶏鳴学園代表 中井浩一/

裏テーマ(親からの自立)
毎年梅雨のこの季節になると、私の塾では受験生の親たちの保護者会を開催する。テーマはもちろん「進路・進学」の問題である。
 今、学校や大学では「キャリア教育」が盛んになっている。進路・進学指導に力が入れられ、職場訪問や職業人への取材なども行われるようになってきた。しかし、この問題には実は、「裏テーマ」があると思う。その隠されたテーマとは「親からの自立」である。現代は、親の過干渉、子どもの依存がますます深刻になっている。弊塾でも、高三生にもなって、遅刻や欠席の連絡を母親がしてくるケースが多い。これをどう考えたらよいのだろうか。

親子の一体化
現代は離婚率が増え、格差も広がり、エリート社会に所属はしても「うつ病」で引きこもっている父親など、複雑な事情を抱えた家庭が増えている。しかし「親子の一体化」は、一部の家庭ではなく、すべての家庭に広がっている問題だと思う。
 例えば、急増するモンスターペアレンツの背景には、明らかにこの問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
 昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。「他者」が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
 これは児童虐待とは正反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、本来は「他者(社会)」を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには「他者」がいなくなってしまう。
 
「自分探し」から「自分作り」へ
 若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。
学校では「個性」の教育を強め、「自分探し」をさせることが流行っているようだ。しかし「自分『探し』」とは不適切な言葉だ。それは自己理解を内化によって成し遂げられるというメッセージになってしまう。本来は「自分『作り』」が正しい。つまり、人は社会で自分を外化し、それによって初めて内化も可能になる。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
 「自分探し」しかできない子どもと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのではないか。

「他者」としての父親の役割
 弊塾の保護者会では、私はこうした私の危機感をお話しする。私自身が「他者」代表として、閉じた家庭に社会の風を送り込みたいからだ。そして次のプリントを配布する。

(1)高校三年生の課題
子どもの親離れ=親からの自立=親のではなく自分自身の夢・テーマを持って生きること
(2)親の課題
 親の子離れ=子どもを生き甲斐にすることを止め、自分の人生を生き始めること。
 特に母親と子どもの関係が問題。母子一体の関係を断ち切る役割は、父親に求められる。
(3)親子で進路・進学についての十分な意見交換をする。
 親は、子どもに望むことを率直に伝えてよい。しかし、一番肝心なことは、親が自分自身の進路・進学。仕事の経験を語ること。
(4)最終決定は本人に委ねる。

 子どもの自立をうながすためには、親が正面から子どもと向き合うべきだ。親には、自分の「本音」を、自分自身の経験に即して語ってもらいたい。特に父親には、職場で何が問題になっているのか。その職場から見える日本の問題とは何か。それを語ってほしい。現代は激動の時代なのだから、それを肌で感じている親が、それを語るべきだ。時代はすでに、両親の育ったような社会ではない。そして、「母子一体化」に切れ目を入れるのは、何よりも父親の役割だという自覚をもってほしいのだ。 
もちろん複雑な家庭も多い。だからこそ、学校や塾、地域の大人たちが、「他者」としてできることを引き受けていきたいと思う。 (2010年7月13日)

7月 15

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

8月号の 第5回 言語教育を育成する教育
         木下是雄氏と「学習院言語技術の会」から学ぶ 

1.温故知新 過去から学べ
新しい学習指導要領では、全教科での「言語活動」の充実がうたわれた。これによって、「言語活動」が教育の中心に取り上げられ、あわせて国語科の意味が正面から問われることになった。これは画期的なことである。
「言語活動」に関しては、さまざまな実践が行われてきたが、従来の国語科への批判から生まれたものとしては、木下是雄氏の『理科系の作文技術』と彼を中心とする「学習院言語技術の会」の活動が挙げられよう。
教育の歴史をながめると、過去の歴史が生かされていないことを痛感する。詰め込み教育から「ゆとり教育」への転換と「総合的な学習の時間」の導入、学力低下論争以降の揺れ戻し。一体この騒ぎは何だったのだろうか。同じような事は戦後すぐに導入された「新教育」をめぐる対応でも起こり、その後も何回か同じ事が繰り返されてきた。しかし、いっこうにそうしたことから学習していないように思われる。
今回も、「言語活動」の充実を言うのなら、まずは、木下是雄氏と「学習院言語技術の会」(「言語技術の会」の表記する)が残した仕事を学ぶことから始めたい。

2.木下是雄氏と「学習院言語技術の会」
物理学者で学習院大学教授だった木下是雄氏が当時の学習院大学院長に言語技術教育の必要性を答申したのが一九七七年。彼は学会での研究発表や論文の作成で、諸外国の研究者に比べて、日本の若手の能力不足を痛感していた。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
木下は、その問題意識を共有する学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・国文学、文系だけではなく教科横断)と「学習院言語技術の会」を組織し、小学校から高校までの一貫した言語教育の教科書を作った。学習院内の各学校のすべての教科でそのテキストが使用され、一貫した言語技術教育が行われることを希望したのだ。
このテキストは小学校用が二冊、中学、高校用に各一冊。この計四冊が一九八〇年から八八年までに刊行されている。この間に、木下氏は八一年には『理科系の作文技術』(中公新書)を、九〇年には『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)を刊行している。

3.言語技術の教科書
 この教科書の目次を見てみよう。木下氏が強調している「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」「レポートの書き方」などはすべてに含まれている。中学用ではさらに「人前で話す(スピーチ)」「話を聞き取る」「説得をする」「討論をする」「図書館で調べる」「速読に慣れる」などの項目が並ぶ。高校用では「新聞を読む」「ノートをとる」「資料の使い方」「ディベート」「会議運営の原則」などが並ぶ。
 これらを通読して、私は強い感動を覚えた。ここには、中学生、高校生に必要なあらゆる言語活動が網羅されているのではないか。これにネット社会に必要な技術を追加すれば、現代でも十分に通用する。否、今もこれを越えるレベルの教科書は生まれていないのではないか。
 私が一番感心するのは、これらのテキストが、多様な言語活動を一つの原則で貫いていることだ。それは木下氏の根本原則である、「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」であり、「レポートの書き方」で強調される文章作成法である。他にも言語活動に打ち込んでいるところはあっても、個々の活動がバラバラに指導されているのが普通ではないか。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、一貫した教育が行われることの意味は大きいはずだ。
本誌の読者の方々が、これから言語活動を導入するにあたって、または従来の活動を反省する際に、これらのテキストは大いに役立つだろう。実は、私自身がこのテキストで自己反省を行ったのだ。私の塾では「生きる力」の習得を看板に掲げ、そのために必要なあらゆる言語活動を学習することを組織してきた。その方法を、これらテキストから、もう一度再点検をすることになった。
学ぶことは多かった。一部不十分な点があると考えて、この連載でもそれを指摘し代案を提示したが、それは木下氏の方法をさらに発展させるためであることに、留意していただきたい。
しかし、学ぶのは、直接的なことだけではない。木下氏たちが取り組もうとした課題の大きさ、その困難さをも、しっかりと受け止めたいものだ。これだけの教科書を用意した学習院で、このテキストは実際にはどう扱われてきたのか。経過を省き、現状だけを述べれば、それは全教科での一貫した言語教育にはほど遠い。テキストは小学校、中学、高校で全生徒に配布されてはいるものの、高校ではその授業は行われておらず、中学でも一部の生成方が使用するだけだ。これだけの努力を傾注した学習院ですらそうなのだ。そこにそびえる壁の大きさが推測できよう。しかし、それに取り組めなければ、今回の学習指導要領も、ただのかけ声だけに終わるだろう。
教科書編纂に関わったある先生は、「このテキストを使用した教育は、学習院よりも、他で行われ、そこで深化されているのかも知れません」という。

4.学ぶこと
さて、私が『理科系の作文技術』や「言語技術の会」の教科書から学んだこと、改めて再確認したことを以下にまとめておく。またいくつかの点については小さな問題提起をしておいた。少しでも参考にしていただければ幸いだ。

(1)文章のまとめかた
木下氏は、最初にイイタイコト(結論)を「目標規定文」にまとめ、「その目標に収束するように文章全体の構想を練ること」を求める。これは、文章の基本中の基本であり、すぐれた書き手の多くが同じ事を述べている。例えば、哲学者の牧野紀之氏は「結論がすべてを支配する文」と定式化しているが、全く同じ事を言っていると思う。ただし、この基本の正しさだけではない。「言語技術の会」のすばらしさは、この方法をあらゆる言語活動で貫こうとした点にある。弊塾でも、この原則を文章、口頭発表、スピーチ、取材などのすべてで求めている。
ここで、一つ注をつけたい。この方法は基本中の基本だが、前提があることに注意すべきだ。それは対象を十分に捉えきっており、結論が出せる段階になっていることだ。そうでなければ、こうした方法で生まれる文章の多くは表面的なものになりやすい。対象と深く切り結んでいない場合には、まずは実際に対象にぶつかるように求めるしかない。つまり現場に行き、取材させることである。
「『主観的感想』を入れるな」という指示についても同じで、自分の考えがまだ漠然としているような段階では、「主観的感想」こそが、意見を作り出すためのヒントになる。
なお、木下氏はこの「目標規定文」を「主題(文)」と名付けるが、「結論(イイタイコト)」の方がわかりやすいと思う。

(2)テーマ設定、テーマの絞り込み
 レポート作成で、木下氏が力を入れているのは、作業の一番最初の段階であるテーマ設定である。これは本連載で取り上げた海城学園の社会科でも、川北氏の総合学習「環境学」でも同じだ。高校生は大きなテーマを選びたがるが、小さく具体的で、できれば身近な経験から検証可能なテーマに絞りたい。すでに述べたように、対象にどのテーマを選択するかと同時に、なぜそのテーマを選ぶのかの、自己理解が重要である。テーマ設定に成功した場合は、半ばは終わったようなものだ。教師の力量は、ここで試される。
 なお、このテーマ設定で、木下氏は「課題」からのテーマの絞り込みを「話題」と表現するが、「テーマ(問題)」の方が良いと思う。

(3)事実と意見の区別
木下氏たちは、事実と意見の区別の学習をすべての基礎としている。これは正しいと思う。なぜなら、私たちが目にするすべての記述には、事実と意見の両面があり、その多くでは両者が渾然一体となっているからだ。
だから、まずはこの二つを切り離すことが必要になる。事実だけのように見えて、秘かに主張が忍び込まされている場合もある。反対に、根拠のある意見のように見えても、実際は根拠が弱い場合もある。テキストには、誰のどのような意見があるのか、その意見はどのような事実にどれだけの必然性で支えられているか。
与えられたテキストで、事実と意見を区別するのは、書き手が事実のどの面を取り上げ、それをどの立場から考えているかを分析するためだ。その作業をする中で、事実の他の面は何か、他の立場とは何かを意識的に考えていく。これが「批判的に読む」ことになる。
事実と意見を切り離すのは、両者を再度、自分自身の視点から結び合わせるためなのだ。それが自分の「思想」になっていくから。
「言語技術の会」の教科書では、新聞記事を取り上げ、「新聞を批判的に読む」ことを実践させている。
ここで、注意したいのは、事実と意見を区別する作業は、実際は果てのない作業になると言うことだ。どんな事実も、それを取り上げた書き手の視点から切り取られたものだ。事実を追いつめようとすると、事実は限りなく消えて行く。そうしたことまでをわきまえながらも、やはり事実と意見の区別の練習をすることが重要だ。これはテレビやネットでの報道などにまで広げて練習させたい。
なお、この事実と意見の「意見」とは「主観的感想」を入れないのだろうか。これは当然含まれているだろう。事実を書き手がどう意識したか、それが「事実」と切り離した側に残されるものになる。

(4)パラグラフ理論
これは有名だし、私もこうした考え方を以前から使って読解の授業をしている。注としては、文系の評論では、段落内部に傍流や逆説があることも多いという事実をあげておきたい。また、木下氏も段落相互の関係を問題にするが、その「立体的」関係を意識していないことを挙げておく。私は各段落の冒頭の一文、冒頭の言葉(特に接続詞)、ラストの一文を意識すれば、各段落のトピックセンテンスだけではなく、全体の立体的構成がわかる、と指導している。この点については拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の第八章を参照していただきたい。 

7月 01

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

7月号の第4回 社会科のレポート
インタビューを生かす構成と文体

1 理科と社会科の違い
前回までは、『理科系の作文技術』で有名な木下是雄氏の方法論を紹介し、理科のレポートを検討した。木下氏の方法の基本的枠組みには賛成した上で、そこでは切り捨てられた「主観的な感想」の意味と、それを生かしたレポートの書き方を論じた。今回は社会科のレポートを取り上げる。
私は、レポートでは、対象理解だけではなく、自己理解(なぜその対象を取り上げるのか、それが書き手自身にどんな意味があるのか)も必要だと考える。それが高校生の進路・進学の動機づけになるからだ。そこで「主観的な感想」が重要になるのは、それが対象理解を深める上で基礎となるだけではなく、自己理解の第一歩でもあるからだ。
この点では理科も社会も同じである。しかし、理科と比較して、社会科では、「主観的な感想」は一層重要になるだろう。それはそもそもの対象が違うからである。理科系では自然が対象だが、社会科では人間やその社会が対象である。自然が相手であれば、対象と自分を一応切り離すことができる。しかし社会科では対象も書き手も、同じ人間なのである。対象と自己との相互関係はいっそう緊密になり、自己理解と対象理解は切り離せない。
これは文献や統計だけからの調査でもそうなのだが、フィールドワークやインタビューや取材ではさらに重要だ。現場そのものが強烈なインパクトを持つのだが、それ以上にインタビューの持つ教育力は大きいからだ。

2 海城学園社会科の総合学習
今回取り上げるのは、私が高く評価している海城学園の社会科の実践だ。海城学園は東京都にある私学で併設型中高一貫の「進学校」。海城の社会科では約二〇年前から問題解決型の総合学習科目を導入した。それが、中学全学年における「社会?・?・?」と高校1年次の「総合社会」(いすれも週2時間)だ。
 個々の生徒が関心のある社会的な問題でテーマ設定し、文献・取材調査やフィールドワークを通じて、問題解決策の提言を含めたレポートを作成する。文献だけではなく、必ず現場でインタビューをしている点がすばらしい。それも毎学期1本ずつのレポート作成だ。二〇年近くにわたり、大学生顔負けのすぐれた作品が多数生まれている。
高校1年「総合社会」の学期毎のテーマは「自分探し」「世界探し」「地域探し」。「自分探し」では、将来像を模索・構築するために、仕事の聞き書きをする。例えば、ある年度では弁護士志望の者はインターネットで企業批判・告発を行う「見えない相手」と戦う弁護士を取材した。また、職業選択とは別に、中古パソコンの学校などへの寄贈活動を行っているNPO代表を取材した生徒もいた。
 三学期の「地域探し」では、自分たちの生活圏の調査が中心。海城のある東京都新宿区大久保地域は外国人の多い街だが、そこを生徒たちが巡検する。足立区に暮らすある生徒は、巡検で見聞したことから、自分の地元にも在日韓国人・朝鮮人が多いことに気づき、その聞き書きに挑戦した。
調査結果はいずれも、最終的にはレポート(400字の原稿用紙15枚程度)にまとめるが、構成は取材の目的(テーマ)、取材先の人物紹介と活動報告、自分が取材で得たものの総括(答え)からなっている。
  
3 インタビューの持つ力
 こうしたレポートを読んでみて、何よりも驚かされるのは、インタビューが持つ教育力の巨大さである。高校生たちは、相手の回答に驚いたり、逆に問い返されることから、自分の考えや生き方を見つめ直していく。「主観的な感想」が激しく揺れ動く心を伝える。
 弁護士志望の高校生が行った弁護士への取材では、当初の「弁護士=正義の味方」というイメージが壊される。「自分(弁護士)と検察官の主張は必ずしも正義とは限らず、いわゆる綺麗事のようなものよりも、ドロドロとしている」。この弁護士からの回答は、「僕にとってとても驚くべきものであった」。
 また、「弁護士は、もっと真面目そうで、堅い人だというイメージを持っていた僕にとっては、優しそうな弁護士は少々意外だと思った」。「でも、弁護士という仕事は、人の話を親身になって聞くことも大切であるから、人が話しやすい雰囲気を持っている事は、もしかしたら弁護士をしている人が持つ独特の雰囲気なのかも知れないと思った」。
 その弁護士は、弁護士としての悩みとして「(裁判での)自分の判断が本当に適切なものかどうか不安になること」を挙げる。そこで高校生は「確かに僕も日常生活で自分の判断が正しいものなのか、ふと考える事もあった」と考え始める。
 また、パソコンの寄贈活動をしているNPOへの取材では、その代表は用意した質問にはほとんど「即答」する。しかしそうした中で、「なぜNPOを続けてきたのか」という問いには「今までの即答とは違って、『何でだろう』と自分でもはっきりとはわからないようだった。お金の問題について答える時のように笑いを交えながら即答しなかったのも、それだけ深刻に悩んだからではないかと思う」と、高校生はレポートする。
 また、インタビューに応じてくれた代表以下三人が「自分の存在意義」を熱弁する姿に
「おそらくは、三人とも過去に、一般の会社と呼ばれる枠組みの中で自分の価値を見いだせずに苦しんでいたのではないだろうか」と自問する。
 そして、最後にNPOの代表に逆に質問される。「将来何になりたいの」。しかし、彼は答えられない。「自分には今、趣味はあっても、『絶対にやりたい』ということが見あたらない。そのことに気づきはずかしくなった」。インタビューの間、高校生が自分の内面でずっと問答をしていることがよくわかる。
面白いのは、こうした自分の思いや相手の語りや表情をたくさん書き込むのは、高校からの入学者に多いことだ。中学の三年間で鍛えられた生徒は、客観的に対象を捉えることに慣れていて、自分を語ることには慎重だ。これは、海城の指導が大学でのレポート(つまり木下氏の方式だ)を模範とし、全体としては「客観的な対象理解」に大きく傾斜している結果ではないだろうか。

4 インタビューの「要約」
 「総合社会」で配布される「レポート執筆要項」中の「引用箇所の扱い」では「参考文献から引用する箇所、取材先の意見を載せる箇所では、できるだけ自分の言葉で要約して、最小限度の分量に限る」とある。文献の要約は当然だが、インタビューもそれで良いだろうか。
 社会科の林敬教諭は「放っておくと一問一答形式になってしまうし、インタビューはラストに書く自説に持っていくための根拠として使うのだから、ある程度まとめなければならない。だから『できるだけ自分の言葉で要約』するのだ」と説明した。もちろん、「最小限度の分量に限る」ことは、制限枚数におさめるためにはしかたがない面がある。インタビューが、例証・根拠なのも当然だ。しかし、中学・高校段階では、最終結論よりも、インタビューそれ自体の方に大きな意味がある場合も多いのではないか。ここは考えたいところだ。
 例えば、地元の在日朝鮮人四世の方に取材したレポートでは、「外国籍を持った人の本当の気持ち」を三つほどに整理して挙げている。その一つは「民族的な差別」だが、その内実は「例えば、就職するとき朝鮮人の名前だと、ほとんど断られるし、アパートを借りるときも日本人の証人がいないと断られる事もあった。また、政治的な側面から見ても、発言権がなく、ただただ税金を取られているだけ」とあるだけだ。インタビューを要約すれば、こうなるのもしかたがないだろう。
しかし、ここは、是非、「差別」の詳しい中身を知りたいし、その語り口を生かしたり、その表情などを描写することで、高校生がその内容を追体験し、自分の問題として考えるようにしたいと思う。

5 インタビューを生かす構成と文体
ではインタビューにふさわしい構成や文体はどのようなものだろうか。
構成だが、海城のレポートは、ほとんどが冒頭に「テーマ設定の動機」が書かれ、最後に「結論」や「総括」がある。「テーマ設定」は丁寧に指導されているし、自己との関わりもよく書かれている。しかし、ラストが不十分なものが散見される。最後にも、その対象の調査を通しての「自己理解」について書かせたいと思う。それでこそ、インタビューや、そこでの「主観的な感想」が生かされるだろう。
また、文体としては、説明文だけではなく、描写文が必要に応じて使われなければならないだろう。文体は大きく言うと、描写文と説明文とに分かれる。意見文も論文も説明文の発展形である。一方、物語や小説が描写文の発展形だ。もちろん、説明文の中に、描写が入るし、描写文の中に説明も入る。
インタビュー前の、問題の背景や取材相手の経歴などは説明文になる。問題はインタビューそのものをどう書くかだ。海城のレポートを読むと、説明文の中に描写を挟むものが多く、その逆も見られる。例えば、先に挙げた弁護士への取材では、インタビューの様子がリアルに再現されるような描写が中心で、そこに説明風の文体がはさまる。
相手の語り口や表情などを再現する描写の文体は、相手の思いや自分の思いを書くためには不可欠だ。相手や自分の主張や意見をまとめるには説明の文体が必要で、それは要約が可能だ。長くなる場合は、描写は肝心な場面にしぼるべきで、それは「主観的な感想」が激しく呼び起された場面になるだろう。
こうした文体の使い分け、適宜、必要なところに必要な文体を入れる能力、それが今後は教育されねばならないだろう。

 さて、私見の当否はともかく、こうした考察ができ、その指導ができることが、表現における国語科の役割だと思う。しかし無い物ねだりをしていてもしかたない。今後、各教科との連携によって進めていくしかないだろう(以前学習院の「言語技術の会」がそうしたように)。
しかし、これまでは、こうした検討はほとんど行われてこなかったのではないか。私が関わっている表現指導の研究会では、この問題に二年ほどかけて検討を重ねてきた。その成果は月刊『国語教育』誌に「聞き書きの魅力と指導法」のタイトルのもとで長期連載中だ。ぜひ参考にしてほしい。

6月 02

週刊「教育資料」2010年5月24日号で以下を書きました。

新学習指導要領で国語科が問われる/鶏鳴学園塾長 中井浩一/

問われる国語科の意味
新たな学習指導要領には画期的な点がある。?全教科での言語活動を求め、?その中心に国語科を位置付け、?高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視した――ことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回の「総合的な学習の時間」の導入以上のものになるはずだ。なぜならここで、「国語科とは何か」が初めて真正面から問われたからだ。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。
例えば、理科や社会のリポートと国語科の表現とは、どう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるだろうか。
ある公立高校の国語科の先生は、祖父母の戦争体験の聞き書きを、叙事詩の形式で書かせた。「調査結果のリポートが目的なら、調査の方法や、調査内容の客観性・資料的価値が重要になるが、それでは社会科になってしまう。だが、詩という文学の形式なら、その人がこう語ったということがあればいい。事実でなくとも思いが表現されていればいい。生徒の主観的な思いを書き込むことも許される」。
つまり、事実や客観性を重視するのが社会科で、思いや生徒の主体性を重視するのが国語科、という棲み分けの主張なのだ。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
国語科の問題点
私は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた身にとって、今回の学習指導要領には深く頷けるものがある。
私の国語教育への疑問とは、それが事実上、文学教育、道徳教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないか、ということだ。
内容を教えようとするあまり、「型」を重視した形式の指導が弱すぎるのではないか。答えを重視するあまり、問いを立てることが軽視されていないか。共同体の空気を読むという感性や感情を学習させられ、集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深めるという論理(=思考)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係付けられていないのではないだろうか。

論理の能力が国語科の領域である
それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。それに対する私の考えは、学習のナカミを内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」が中心で、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科だととらえることである。  
内容中心ということは、つまり知識の獲得に重点が置かれることだ。国語科だけが形式を学ぶ教科だということは、国語科は思考・論理のトレーニングや表現の型の学習をする場であり、知識と型の運用能力を獲得する場だということである。
 しかし、世間では形式を学ぶことは極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、装飾的なものでしかない――。そうした理解が一般的だ。だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理=能力 → 国語科

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えば、読解では、テキストの内容(イイタイコト)は、その形式をつかむことで、初めて的確に理解することができる。
逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ。つまり、形式の学習とは考える力そのものの習得であり、それが全教科の基礎となる。詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照にしてほしい。
先に例に挙げた「表現」でも同じである。内容とは一応別に、その表現の形式を徹底的に指導するのが国語科の役割だ。表現の目的別に、それに相応しい文体と構成の選択をする能力の習得である。それが理科や社会科などでの表現の基礎となるはずだ。詳しくは月刊『高校教育』で連載中の拙稿を読まれたし。

PISA型の学力不足
PISA型の学力不足が問題になっている。どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。日本では答えを教え込む内容主義がはびこり、問いを出す力を育てる形式の学習が弱いからである。 
今回は国語科におけるその問題を取り上げたが、これは全教科に共通する。どの教科にも、内容と形式の両面があり、いずれも内容に大きく偏っているのではないだろうか。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科の内部の形式面を重視することにつながるはずだ。今回の新しい学習指導要領が、私と問題意識を共有してくださる先生方を増やすことを期待している。

6月 02

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
生徒のレポートは紙面をご覧ください。

6月号の第3回 理科系のレポートと「主観的な感想」

1 自分のテーマを持つ
前回は、木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)で説明されている理科系のレポートや論文の書き方を紹介した。そこでは「原則として『感想』を混入させてはいけない」。これは文科系のレポートでも同じだとされている。
しかし、「主観的な感想」を排除して、本当に良いのだろうか。そもそも「主観的な感想」とは、学習に対してどういう意味を持つのだろうか。この問題を高校生段階で、具体的に考えてみたい。

例に取り上げるのは千葉県立小金高校の総合学習「環境学」。「総合的学習の時間」が導入される五年前から実施された。生物の川北裕之氏と彼を支える教師集団が中心になり、三年生の自由選択科目「生物?」の約半分、一単位分を使い、年間を通した取り組みである。事前学習の後、班ごとに研究テーマを設定して、フィールドワークを含む調査研究をしたうえでレポートをまとめ、発表する。

目を引くのは、事前指導の期間が三ヶ月と長く、そこでも体験学習が中心になっていることだ。休日を利用して、三番瀬を観察し(ついでに潮干狩りも)、近くの里山では竹の間伐を体験する。それらの体験をもとにディベートもする。これは探求学習の「方法」を教えると同時に、予行演習にもなっていたのだろう。
これだけ豊かな事前学習を用意したのは、生徒一人一人が自分にとって意味あるテーマを設定するためだ。「探求学習では、一番難しいのは、生徒自身が興味のある課題(テーマ)をきちんとした形で課題化できるかである」。川北氏は、広すぎるテーマ、一般的なテーマではなく、自分にとって本当に知りたいと思うこと、身近なことで興味があるものを選ぶように指導している。

総合学習は、従来の一方的な知識詰め込み型に対する、問題解決型学習であるが、川北氏はその総合学習にも二種類あると言う。ひとつは教科的(模倣的)研究で、初めから正解が用意されている。これは研究の手法を学ぶには良いが、生徒にとってのテーマの切実さに問題がある。もうひとつは、生活的(変容的)研究で、個々の生徒にとって切実で身近なテーマを取り上げるが、すっきりとした解答が出せるとは限らない。

もちろん両者が必要なのだが、川北氏が追求するのは後者だ。総合学習の目的を、各自が自分の問題意識を深め、自分の進路を切り開くことに設定しているからだ。
この二種の総合学習を比較すると、前者が「答え」と「対象理解」を重視するのに対して、後者は「問い」の深まりと「自己理解」を重視すると言える。木下氏の方法論を考えれば、それがそのまま通用するのは前者の場合であることがわかるだろう。
では後者の場合に有効な方法とは何か。そのレポートはどのようなものになるのか。構成と文体での違いはあるのか。

2 くつがえされる予測
 川北氏の生徒たちのレポートも、構成としては木下方式と大きな違いはない。多くのものが、一テーマの設定理由、二研究の方法、三調査の報告、四まとめ(結論)となっている。最後に「感想」の項目を置いている班があることが違うぐらいだ。

「PETボトルは何処へ?リサイクルの現状と対策?」というユニークなレポートを見てみよう。
1の「テーマ設定理由」を読むと、高校生の身近に溢れている五〇〇mlのPETボトルに目をとめ、それがリサイクルされているのだろうか、という素朴な疑問から出発していることがわかる。
最初は文献で調べ、PETボトル推進協議会で説明を聞く。それが3で紹介される。この段階では、リサイクルはうまくいっていると納得した。リサイクルの意識を高めれば問題は解決できる。
しかし、次に訪れたリサイクル工場で彼らは大きなショックを受ける。工場は悪臭と騒音がひどく、そこで働いているのは知的障害者だった。彼らはリサイクルのクリーンなイメージはうそであること、何か根本が違っていることに気づき始める(4の「いざ、工場へ」)。
そして出会った新聞記事が、彼らの考えを大きく飛躍させることになる。その記事には容器包装リサイクル法の矛盾が告発されていた。PETボトルが予想を上回って回収されたために各地の自治体がその保管に苦労していること、つまり企業が作り出したPETボトルを、自治体が税金を使って分別回収し保管しているという事実(5から)。
こうして彼らは、初めの仮説に変えて、よりよい社会にするためには、義務教育に環境学を取り入れること、再生できないものは売ってはいけないこと、消費者はそれを拒否すべきであること、容器包装リサイクル法は見直すべきであること等を考えるに至る(6の「理想社会」)。

3 成功した学習とは何か
もし調査が最初のPETボトル推進協議会で終わっていれば、それは予定調和の世界のママだった。当初のクリーンなイメージのままのリサイクル観が維持できただろう。しかし、彼らは実際のリサイクル工場を見学し、その甘い幻想を打ち砕かれた。この時初めて、彼らの体を通った問題意識が生まれたのではないか。そしてそれゆえに、普段なら見過ごしたかも知れない新聞記事に飛びつくことができ、一応の結論を出す。しかし、それが当座の結論でしかないことも彼らはわかっている。

この調査全体を通して、彼らの心が激しく揺れ動き、それが彼らの認識を深めるための大きな力になっていることがわかる。こうした調査報告は、「主観的な感想」をきちんと反映したものでなければならないだろう。

図はそのレポート4の部分だが、イラストが彼らの思いを生き生きと伝える。また、傍線1や傍線2が、彼らの主観的思いを率直に語っている。

6の「理想社会」では、遠大な理想を言う事への突っ込みも入る。「ちょっとすぐに手を出せる領域ではないから、ずるいと言えばずるいけれど、考えるのは勝手でしょう」。7の小見出し「ひとまず、本当に今できることは」からは、これが当座のものでしかないとの自覚がうかがえる。

8の「まとめ」は以下だ。「私たちはリサイクル=いいことという関係しか見ておらず、PETボトルをリサイクルに出したという満足感だけでその後のことを考えていなかったようです。それではリサイクルしたとはいえないでしょう。つまり、これからの地球環境のためには何かしたいという意識だけではだめです。そのためのちゃんとした知識とその知識や意識を使う行動力、そして使う場、いわゆる法律が必要なのです。そうしなければいつまでたっても何も変わらないでしょう」。

ここには対象理解だけではなく、自己理解(自己反省)の深まりが確かにある。
最後の9の「感想」から、あるメンバーのコメントを紹介する。「ずっとめんどくさかったけど、やっているうちに手放せなくなってしまった。特に、自分の手の届かない領域の話をするのは、無責任な気がしてもどかしかった。でも私もそのうち社会に出るはずなので、そうしたときに、ここで感じた無責任をそのままにしないで行動しよう」。

しかし、これで終わりではない。川北氏は、このレポートとは別に、さらに「学びのストーリー」を書かせている。一年間にわたる学習の中で、どう行動し、何を学んだのかを書かせるもので、対象理解と自己理解を更に深めていく試みだ。

高校生にとって成功した問題解決学習とは、当初の自分の理解の浅さを思い知り、学んでいく強い意欲が持てた場合を言うのではないか。