2月 05

今年、私が社会人・大学生たちと行っているゼミで、
「階級」「階級意識」についての学習会を開くつもりです。

そのことでのご相談です。

今の関心は2点あります。

(1)今では、「階層格差」など、「階層」という用語が使用されることが多いですが、
なぜ、「階級」という言葉を使用しないのでしょうか。

この「階級」という用語を使用すると、その著者がマルクス主義の立場にあると表明することになり、
それを避けているのでしょうか。

 そもそも「階層」とは何のことでしょうか。年収での格差のことでしょうか。
マルクスにあるような「社会関係」をも含めて考えていないように思うのですが、どうなのでしょう。

 マルクス、エンゲルス、レーニンに「階層」という観点はあるのでしょうか。

(2)子供が自分の価値観を相対化するためには、自分を育てた親の価値観を相対化する必要があると思います。
それには、親の階級(社会関係)、その階級から生まれる価値観、物の見方や考え方、趣味などを考えることが必要だと思います。

マルクス、エンゲルス、レーニンの著書で「階級」を、その階級ゆえに生まれる価値観、意識から詳しく平明に説明した文献があるでしょうか。

 以上、アドバイスいただければ、幸いです。

12月 06

◆読者へのお願い

 ヘーゲルがスピノザ著『エチカ』について、
「『規定態は否定である』はスピノザの哲学の絶対的原理である」と、
『大論理学』の「本質論」、第3編「現実性」の第1章「絶対的なもの」の
注解や、『哲学史』のスピノザの項で、繰り返し述べています。

 この「規定態は否定である」はスピノザ著『エチカ』からの引用だと
思うのですが、見つかりません。

ご存知の方がいたら教えてください。

事務局メールアドレス sogo-m@mx5.nisiq.net
 

9月 03

 今年の夏を、読者のみなさんはどうすごされましたか。
 自分の課題へのとりくみは進みましたか。

大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
 もう5年目になります。

 合宿でのヘーゲル哲学の学習のメニューは、
 原書購読は、大論理学の本質論の第3部「現実性論」の前半を丁寧に読みました。
 翻訳では、ヘーゲル『小論理学』(牧野紀之訳 鶏鳴出版)で下巻「本質論」を通読しました。
ともに、ヘーゲル論理学の本質論を、特に、現実性論をきちんと理解しておきたいと考えての挑戦でした。「現実性論」にはこの5年間、何度も何度も繰り返して挑戦し、その都度弾き飛ばされてきた、というくやしい思いがあります。
今回は、少し、理解できたという実感を持ちました。
くわしいことは別に報告します。

 2日目と3日目の晩には「報告会」を行い、各自の課題について話し合いました。

 4日間の参加者は延べ6人。
 他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。

 

1月 18

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

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人が行動することは、自分が何者かを明らかにする 

     — 「概念の生成史」と「概念の展開史」 — 

 「意識(人)が行動しなければならないのは、自分の潜在的な姿を
意識の対象にするためでしかない。意識は自分の行動の結果としての現実から
自分の潜在的な姿を知るのである。したがって個人が行為を通して
現実にもたらされるまでは、個人は自分の何たるかを知ることはできないのである」

(『精神現象学』第5章理性論、第3節「絶対的に実在的だと自覚している個人」。
  牧野紀之訳、未知谷版574ページより)。

 これはヘーゲルの発展観そのものの表現だと思う。そしてヘーゲルの発展観を
理解するには、「概念の生成史」と「概念の展開史」の関係を考えねばならない。
ヘーゲルは、そのものが何なのか(その本質、すなわちその生成史)は、
そのものの生成後の自己展開で明らかになると言う。つまり、その展開史で
その生成史の意味が明らかになるのだ(『精神現象学』の序論にある。
鶏鳴会通信107号を参照されたし)。これは「類」の進化において言われるが、
それはそのまま類の中の個別における成長過程でも言えることだ
(これが『精神現象学』の大きな枠組み)。

 私たち人間は、いつもそれまでの人生を背負って生きている。
ある年齢に達して、今、新たなことに挑戦するときに、
過去がそれに大きな影響を与えていることは明らかだ。
その過去は当然意識されており、その振り返りの上で、
未来への決断・選択が行われると考えられている。
過去は記憶されており、自分史として把握できる。
しかし、そうだろうか。記憶から消された過去も多い。
否、大切な過去ほど、意識の奥深くにしまい込まれているのではないのか。

 ゼミ生に、以下のようなことが起こった

 ある人Aは、私との師弟契約をすることを真剣に考え始めていた。
そのきっかけとしては、それまでの生き方の反省がある。
他人任せで、世間の基準を無自覚に自分の基準としてきたこと。
そして、私と師弟契約をする決断をする際に、忘れていた記憶が
呼び戻されてきた。

 それは、その人には以前にも先生というべき人がいたことだった。
本人はすっかり忘れていたが、整体の指導者を事実上の師としていた。
その師のまわりには弟子の集団があって、その中の一員だった。
そして、その師との辛い別れがあった。その師に、あることから
厳しい叱責を受け、不本意ながらも関係は終わった。
その師弟関係が失われたことは大きなショックであり、とても辛いことだった。
当時、その師は、悩みの相談相手であり、いつも親身にこたえてくれた。
その人は、人生の行き先を照らしてくれる大きな燈明だった。
そうしたことがすっかり思い出されてきた。

 それらの記憶は大切なことだったはずだが、すっかり忘れていたのだった。
そして、その記憶が浮かび上がってきたときには、それはただ辛く
受け止めがたい記憶ではなくなっていた。その師や弟子集団の問題が
おぼろげに見えていたのだ。そうした相対化の視点は、
私を師とすることで与えられたのではないだろうか。
そして、そうした視点がない限り、その記憶は、
心の奥深くにしまい込まれたままだっただろう。

 また、別の人Bには、それまで仕事上の先輩で信頼し尊敬している人がいた。
その人の考え方、仕事の進め方などを、必死で学んできた。
そして、確実にその成果も出て、仕事上でも順調に進んだ。
しかし、次第に、その先輩の不十分な点にも気づくようになり、
生き方や考え方に大きな欠落があることにも気づくようになっていた。
しかし、そうした不満や疑問を口にすることはなかった。

 私は、そうした関係は、その大切な先輩に対して誠実な態度とは
言えないのではないか、と注意をした。そこから、改めて、その先輩を
きちんと批判することを決意するようになる。その時に、
すっかり忘れていた親友とのことが思い出されてきたのだ。

 大学生の時にその親友とは同じクラブを運営する立場として、
互いに批判しあい、支え合っていた。最初は相手が上だった、
しかし、いつしか相手との関係が逆転し、就職後は、相手を
見下すようになっていた。それでも「親友」としての
いつわりの関係は続けてきていた。

 そのことが急に思い出されてくる。そして、そのいつわりの関係を
清算しないではいられない、強い思いがこみ上げてくる。

 こうしたことを見ていると、ヘーゲルの言っていたことの意味が
わかるように思うのだ。

 「行動」「行為」とは、それまでの生き方に一線を画するだけの
ものでなければならない。

 そうした決断の際に、その時点では潜在的だった自分の正体が
はっきりと現れてくる。自分とはもちろん過去の人生によって
作り上げられてきたものだから、現れてきた潜在的本質にも、
それに対応する過去があるのだ。

 Bさんについて、ゼミでは「なぜ精算する必要があるのか」
「親友ではなかったとか、いつわりの関係だったとか、
わざわざ言う必要はないのではないか」といった意見も出た。
しかし、そうした過去を清算しないと、私たちは前には
進めないのではないだろうか。過去が私たちをとらえ、
前に進めなくしているのではないか。

 精算とは、その親友を切り捨てたり、過去の自分を切り捨てる
ということではないと思う。その失われていた過去を呼び戻し、
その意味づけを変えることなのではないだろうか。
私たちは過去を切り捨てることはできない。
すべてを背負って生きるしかない。
できることは、その個々の経験の全体における位置づけをかえ、
より高いレベルで生き直すための、一歩を進めることだけだろう。

 そうした過去の清算ができない限り、それまでの延長線上の生き方、
同レベルの生き方しかできず、発展は不可能なのだろう。
逆に言えば、それまでのレベルを乗り越えて生きていく中で、
過去の一つ一つの経験の意味が、より深いレベルで明らかになる。
一歩前に進むたびに、1つ上のレベルで経験の意味を捉え返し続ける。
それを繰り返していくことで、過去の全体が構造化され、
その意味が透明なすがたとして現れてくる。

 これがヘーゲルの「展開史でその生成史が明らかになる」の
 意味なのではないか。

 これを世間で言われていることを比較してみよう。
世間でも「過去を反省せよ」とか「過去の振り返りをせよ」とか言われる。
それによって、今の選択についてどうしたら良いかわかるし、
未来の方向付けもできる、と言うのだ。

 ここにないのは、「生成史」とは別の「展開史」という考えであり、
この両者を統一的にとらえる観点なのだ。だから「反省しなさい」や
「過去の総括文」には無意味なことも多い。
むしろ、嘘を書かせるだけなので、有害なことの方が圧倒的に多いのだ。

 また、過去に執着して前に進めない人が多数存在していることを
どう考えるか。実際には、過去にこだわり、生い立ちにこだわっている人で、
前に進めないでいる人が多い。「過去の反省」は、
こうした人に対しては無力なのではないか。

 人が前に進むときにだけ、意識の奥底に隠してきた過去の記憶が
浮かび上がってくる。前に進むことなく、過去をとらえようとしても
無理なのではないか。

 「大切なことほど意識の奥底に隠されている」と言えば、
すぐに「精神分析」を思い出す人もいるだろう。
そこでは様々な手法によって記憶を探り出し、新たな視点から
過去の人生の全体を捉え直そうとする。しかし、この「新たな視点」は誰が、
どのように与えるのだろうか。そうした曖昧さや危険性に反対する立場からは、
他の手法がさまざまに提案されている。

 しかし、いずれにしても、大切なのは「生成史」と「展開史」の
両方の視点であり、この両者を統一的にとらえる観点なのだと思う。
そして、人が先に進むためには、これらについての認識の深まりが必要である。
そしてそのためには認識能力の高まりが必要であり、その能力を高める過程と
その保障が必要になるだろう。その回答が「先生を選べ」であることは、
すでに繰り返し述べてきた。

5月 14

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その4

 ■ 本日掲載分の目次 ■

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

 本稿の(1)では、アリストテレスの核心を次のように述べた

 「【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
  【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
  この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていること
  もすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。

  この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
  並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
  【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
  その結果、【3】を説明することができたのだ」。

 本稿の(2)では、アリストテレスの課題はプラトンから
イデア論を学んだ一方で、プラトンのイデア論では
運動の説明ができない点を克服することだったと述べた。
言い換えれば、イデア論の限界を、イデア論を発展させることで、
乗り越えること。

 それはどのように行われたのか。
それこそが、『形而上学』の核心部分であり、
【1】?【3】の3つの問題を統一的に解く回答がそこに示される。

 アリストテレスの回答は、端的に言うと次のようになる。

 プラトンは、現実の個物にそのイデアを対置し、イデア研究を目的とした。
アリストテレスは現実の個物にこだわり、その運動を説明したかったので、
個物には、形相と質料のセットを対置した。プラトンのイデアの代わりに、
この形相と質料のセットを置き、この両者が現実性と可能性として
運動すると説明した。その運動の結果が個物である。
形相とはイデアと言い換えても良いので、質料こそがアリストテレスの
創案と言えると思うが、質料の設定は、イデア論への反駁のためであり、
運動を説明するためなのだ。そして、質量から形相への運動によって、
全世界は初めて構造的に体系化された。

 以上は、『形而上学』においてどのように展開されるか。

 まずアリストテレスは、第1巻の3章で、『形而上学』の目的は
始源的な原因の認識だとする。そしてその原因として4つを提示する。

 a)実体であり、「なにであるか」、
 b)質量であり、基体(主語)である、
 c)「物事の運動がそれから始まるその始まり」(始動因)、
 d)「物事の生成や運動のすべてが目指すところの終わり」(目的因)。

 このa)とb)を、7巻の3章でまず取り上げ、それ以降の章でそれに答える。
これが、【1】の個別と普遍、現象と本質の関係の問題である。
その上で、8巻でそれを捉え直して、個別の運動についての
c)始動因と、e)目的因の説明をする。
それを展開するのが8巻と9巻であり、以上が【2】の変化・発展の問題である。

 この個別の運動の説明を踏まえて、アリストテレスは進化の全体像、
生物などの分類の全体像を示すのだが、7巻の12章で分類の原理が示され、
実際の展開、特に神や天体の運動までの広がりは、9巻の8章で描かれる。
以上が【3】の全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題である。

 以上がアリストテレスの回答であるから、『形而上学』の核心部分とは、
7,8,9巻であることがわかる。
これを実際のアリストテレスの叙述に即して、見ていく。

 まず、始元的な原因を考える上で、判断の形式、「定義」「説明方式」が
前提であり、判断論(定義)の主語・述語関係からすべてを考えていく。

 アリストテレスは、事物を実体と属性にわけた時に、
判断の主語に来るのが実体で、述語にはその属性が来ると考える。
主語の位置に来る言葉、つまり基体=主語で、決して述語にならないもの、
つまり「実体」としては、結局は、以下の3つが導出される(7巻3章から6章)。

  【1】 質料
  【2】 形相
  【3】 個別(質料と形相の2つから成る)

 もちろん3つは、それぞれで、その「述語にならない」と言う意味は違う。

 「個別」はすべての個別が相互に異なっているのだから、
ある個別が主語の文の述語に他の個別はおけない。
「質料」は、それ自らは不可認識的で、規定することができないと、
アリストテレスは言う。
「形相」は、規定そのものだが、それはすべての述語を含んだものなので、
述語にはならない(とアリストテレスは考えているようだ)。

 この3つの関係を、判断の形式における部分と全体の関係で分析しながら、
アリストテレスは結局、形相を質料に内在化するものとしてとらえ、
質料と形相の結合体が個別であり、この個別においてしか
生成・消滅の運動はないとした。(7巻10章から12章)

 そして、個別におけるこの3者の関係が、運動の観点から捉え直されるのが8巻である。

 8巻の第2章で、個別を形成する質料と形相の内の質料を「可能的存在」とし、
形相を「現実的存在」と捉える。ここで運動とは、可能性から現実化への
転化としてとらえられ、その質料と形相の結合によって、個別の運動が説明される。

 ここで、質料=可能的存在、形相=現実的存在とする理解には、
驚くのではないか。世間の常識とは一見反対に見えるからだ。
質料は物質のような材料として、直接に存在するもので、
形相は最初は目に見えない。だから、質料が現実的で、
形相は可能性でしかないというのが普通の理解だ。
それが逆転しているところに、アリストテレスの独創がある。

 質量は確かに存在しているが、実現するものの材料でしかないから、
その面からは可能性でしかないのだ。
一方、形相とは、その材料によって実現されるもので、
可能性(材料)を現実化するものこそを現実的なものだと、
アリストテレスはとらえる。

 これは「始まり」「終わり」の理解に関わる。
「終わり」は、もし「始まり」に内在化していなければ、出てこないはずだ。
逆に言えば、「始まり」に何が内在化されていたかは、
「終わり」で明らかになる。つまり「始まり」は「終わり」であり、
「終わり」は「始まり」である。
ここに、ヘーゲルの発展観の芽がすでにあることがわかるだろう。

 以上は、個別の運動の説明方式だが、それを全体として展開すれば
この世界の構造が示されるはずだ。

 生物や、物質などの自然界は、アリストテレスによって、
徹底的に分類され、秩序化された。それは類と種の関係性による。

 類は種差によって種に分化されていく。その種も次のレベルにおける類として、
次のレベルの種差によってまた種に分化されていく。

 ここで、類が質量であり、種差が形相であり、それによって分類される種が
個別なのである、この種は新たな類であり、新たな質料としてとらえられる。
その類(質料)は、次のレベルの形相による種差によって、
次の個別=さらに新たな質料=新たな類へと展開する。

 こうして質量から形相への運動が、ここでは類とその種別化になり、
この自然界と全世界の構造をあらわすことになる。

 ある類の後には同じ原理で分化が繰り返され、
種別化が展開し、それが無限に続く。
その類の前にも同じ原理で、前のレベルの類へと無限にさかのぼれる。
そうしたときに、類を遡れば、一番最初の類が想定され、
それは質量だけの存在になるはずだ。

 他方、最後まで展開し終わった時に、形相のすべてが現れるはずだが、
その形相は実は、真の始まりであるから、この世界の始まりには
形相だけの存在が想定され、それが「神」「不動の動者」になる。
これがアリストテレスの世界観である。

 以上で、当初の問題のアリストテレスの回答が示された。
ここに初めて、【1】個別と普遍(本質)の問題、【2】変化・発展の問題、
【3】全世界の構造の問題、この3つのレベルを統一して、
1つの原理で貫く思想が生まれた。これがヘーゲルに決定的な影響を与えている。
ヘーゲルの「概念」は、アリストテレスの純粋形相(神)を捉え直したものだろう。

 しかし、アリストテレスとヘーゲルの決定的な違いがある。
それは人間の捉え方だ。
アリストテレスは、人間をどこにどう位置づけられたか。
『形而上学』の9巻の最初に、人間の特殊性が述べられている。

 9巻の第2章では、無生物と生物と人間の3者が比較され、
人間の本質は「思考」だとされる。つまり、人間の認識の運動だけは、
他の運動と全く違うとされる。人間だけが、1つの条件から、
2つの相対立する結果を導くことが可能で、それが選択(31ページ)になる。
そこに人間の、必然性からの自由の可能性を見ている。

 しかし、アリストテレスが到達できたのは、ここまでだった。
全世界の発展の中で人間が果たす役割の意味を明らかにできなかった。

 この人間の本質を、全発展の中に、全自然史の中に位置づけ、
その核心部分として捉え直したのが、ヘーゲルなのだ。
ヘーゲルは概念(神であり純粋形相)から始まった全自然の外化の運動が、
その外化の中に人間が生まれることで、その運動自らが、
外化の一方で内化の運動を始め、外化と内化との統一の運動が始まるとした。
そこが大きな転換点であり、それが人間の意味なのだが、
こうした往還運動が可能になったことで、概念の運動が
真に外化と内化の統一になる。

 アリストテレスにはこうした理解がなかったために、
外化の運動と内化の運動が統一できず、神を不動の動者として
設定するしかなかった。世界全体が運動する中に、運動しない固定点を
設けるという決定的な矛盾が起こるのは、人間という転換点を
理解できなかったからだと思う。

 ヘーゲルはその矛盾を解決することで、アリストテレスの世界観を
完成させたと言えるのだろう。それは近代社会を切り開くことにもなった。

 ちなみに、ヘーゲルの論理学全体では、アリストテレスの
自然研究の実証的側面は存在論の中で取り上げ、
アリストテレスが批判した「1」や数学は、存在の中の
量の箇所で取り上げている。それらは本質論以降に止揚されていく。

 アリストテレスが問題にした【1】【2】【3】の観点については、
【1】は本質論の前半、【2】は本質論の現実性で展開され、
その終わりに【3】が出ている。それらが概念論の主観的概念で、
再度判断論の中で展開される。ヘーゲルの判断論では、
質の判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断と
4つの段階に発展するが、これが【1】【2】【3】の展開
そのものになっている。さらにそれが推理論で、展開されている。
もちろん、こうした主観的概念から客観性が生まれ、理念が生まれて終わるのだが、
それによって、アリストテレスの全世界を完成させたつもりだったろう。