1月 23

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その5

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

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 (4)概念の判断

 実然判断 この家は良い この人の行為は正しい

 蓋然判断 この家は良いかも知れない
      この家が○○ならば、この家は良い
      この人の行為が○○ならば、この行為は正しい

 確然判断 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い
      この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい
     
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 1)カントまでの理解

  実然判断    → 蓋然判断   → 確然判断
(?かも知れない) (?だよ(断定)) (?に違いない)

 2)概念の内容は示されない → それは自然哲学、精神哲学の内容そのものだから

 3)全体に

【1】いよいよ「概念」が現れてくる
 「真理」 対象とその概念との一致

 
【2】実然判断 → 蓋然判断 → 確然判断
 実然判断の中に、その根拠が内在していて、それが概念。
 それを表に出し始めたのが蓋然判断。
 

 その対象と概念が一致するか否かが問われ、
 その結果が述語で示される(概念のナカミそのものではない)
 述語が価値そのもの
 この前段が、表に現されると、文が2つになり、蓋然判断、確然判断
 概念の内容が現れている。

【3】個別は普遍

【4】確然判断
 個別と特殊と普遍の3項で、推理に
 確然判断の後段はそのまま、実然判断

【5】蓋然判断、確然判断
 これは、本当に判断なのか。すでに推理ではないのか。

 4)実然判断 (この家は良い。 この人の行為は正しい。)

 家の概念、人の概念 が問われている
 根拠=概念 潜在的に概念が問われている。
 なぜなら良い、正しいは、存在と概念の一致だから
 この家、この人、は個別で、根拠は特殊か?

 5)蓋然判断
  (この家が○○ならば、この家は良い。この人の行為が○○ならば、この行為は正しい)

 「○○ならば」は特殊か?

 6)確然判断

 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い 
 この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい

 前文は判断の根拠。後半は蓋然判断

 四.その他

 (1)ヘーゲル「大論理学」の判断論で、例文をほとんど出さない理由

 1つの文で、4つの判断の2つにまたがって例を出すことは無理。
レベルが違うから。
それぞれの判断の内部でも、その達意眼目において違う例文が必要になる。
だから、ヘーゲルは大論理学では、あえて、例文を出さないのではないか。

 (2)「生活のなかの哲学」 

 日常用語を哲学のカテゴリーとして使用する理由
 哲学の使命は、日常の人々の経験の意味を、
言葉にすることで、人々に気づきをうながすこと。
(『大論理学』3 寺沢恒信訳 以文社 193、194ページ)
これが牧野紀之「生活のなかの哲学」になる。 

 (3)大論理学と小論理学

 大論理学について誤解していたと思った。以前は、小論理学に対して、
大論理学の方が「詳しい」と思っていたのだが、不正確だった。

 大論理学は必要十分なことを、簡潔に述べている。
だから具体例も少ない。「詳しく」はない。むしろ小論理学の方が饒舌。
一部は小論理学の方が「詳しい」。(「補遺(付録)」部分に限らない)。

 小論理学は、大論理学を書いたあとで、一般学生にわかりやすく説明しなおしたもの。
大切な論理の説明も、一部ははしょっている。受け狙いの個所もある。
これをヘーゲルの真意だと思うと失敗する。
小論理学で具体例が多いのはありがたいが、その例として的確かどうかは考慮の余地がある。

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1月 22

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その4

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 (3)必然性の判断 (種と類)

 定言判断  金は金属である バラは植物である

 仮言判断  もしAが存在すれば、Bも存在する
       カントの例:太陽が石を照らすと、石は暖かくなる
       もし山田氏が未婚ならば、彼は妻を持たない
       もし下痢をすれば、身体が衰弱する
       もし横綱が負ければ、この首をやるよ

 選言判断  AはBであるかCであるかDであるかである
       AはBかつCかつDである
       詩は叙事詩か抒情詩か劇詩である

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 1)全体として

【1】[主語]が類(普遍)になる(選言判断)ことの意味。

 [主語]と[述語]関係の逆転。※これは、いわゆる「判断」の止揚である。
 類=普遍そのものが、意識の中心に置かれた。
 [全体]が意識されるに至った。→必然性の判断。
 その全体の内実が具体的に検討され、
 その中身の関係が、具体的に考察されるに至る。→選言判断

【2】本質論の「現実性」に対応する
 「必然性の判断」は、本質論の「現実性」をさらに一歩進めたもの。
 ここでは発展の論理、生物進化の原理までが問われている(特に選言判断)。
 cf)精神現象学の「自己意識」の「生命」では、食物連鎖から「類」を出す。

【3】 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断
 論理学の本質論の 実体性 → 因果関係 → 概念 へとの展開との対応

 2)定言判断

 「この金は」金属である
 「このバラは」植物である
 これが「金は」、「バラは」になる

 個別 )種 )類 )

【1】主語と述語は反省関係になっている
 自己と自己との同一性
 自己内反省=[肯定的統一]

【2】必然性は内的(実体関係)、偶然性、可能性の立場 → 必然性の外化、否定的統一(仮言判断)

【3】
 主語は述語である
 個別は普遍である → 種は類である(特殊は普遍である、という段階)

 ┏[主語](種)の内部の普遍性が引き出された
 ┗ 一方、[述語]の普遍性から、それを分割する形で、それ自体も普遍性の種を[主語]とする

 3)仮言判断 もしAが存在すれば、Bも存在する

 ※これは前段が個別、特殊(種)で、後段が普遍(類)なのか、
  それとも逆か。
  前だと、次の選言判断につながらないように思う

【1】他者との同一性の定立(定言判断は、自己と自己との同一性の定立)
 自己と他者との同一。同一の深化 →[否定的統一]

 同一だが、概念の同一ではなく、普遍、特殊、個別の3契機がない
 契機一般はある。主語と述語関係ではない。
 普遍→特殊までで、概念がまだない

【2】必然性の外化(因果関係)
 しかし、2つの存在は外的で偶然。その存在の必然性は定立できない。
 定立できたのは、2つの関係の必然性のみ。

【3】大論理学で、ここに 「可能性」という言葉が出てくるのは、
 「現実性」の可能性から必然性との流れがここで意識されているから。

【4】仮言判断は、すでに2つの主語(文)が出ており、
 自己と他者の両者が1つの文で直接示される(2つの文が内在している)
 初めての例。これは推理ではないのか。

 4)選言判断

【1】[否定的統一]の原理とは、概念の原理だが、つまり発展の原理のこと
 これが経験主義を超える可能性

【2】類=A,B,C,D 類の種別化、分類の原則、進化の原理 →「概念」

【3】普遍、特殊から個別(概念)が現れる。→ 概念の判断

【4】選言判断で、主語と述語の逆転が起こる

 主語は述語である
 個別は普遍である
  ↓
 特殊は普遍である
 が
 主語と述語が逆転する
 類が述語だったのが、主語が類になっている
 普遍は普遍である

 普遍は特殊の総体である
 コプラの両方が、普遍でまったく一致する
 この全くの一致に、コプラの充実(一応の一致)=潜在的な概念が現れている

【5】大論理学「主語は述語に対する自分の規定を失う」
 (『ヘーゲル大論理学 3』寺沢恒信訳注 以文社 195ページ,
  ズールカンプ社版全集6巻 407ページ)とある。

 寺沢はここで、コプラの充実と説明し(『ヘーゲル大論理学 3』432ページの注17)、
「必然判断」では性状が判断の根拠になっているとする
(『ヘーゲル大論理学 3』433ページの注18)。
私は、ただの「根拠」ではなく「概念」になっているのだと思う。

【6】2つの文が現れる必然性
 主語と述語が逆転することと関係するのでは

5)「反対概念」(AもBも が可能)と、「矛盾概念」(AかBか)

 (選言判断から)

 ┏同じ類の中で区別されるものが反対概念
 ┗相互に締め出す関係が矛盾概念

これはヘーゲル用語辞典に入れるべき。

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1月 21

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その3

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)

       バラ自身の判断の運動

 このバラは  赤である
        赤ではない
 あのバラは  青である
        青ではない →→→「色」を持つ
 そのバラは  黄色である
        黄色ではない
        紫である  
         ↓
         ↓ 悪無限(述語の運動)

 これは述語の運動。
そうして示されたのが、質の判断のレべル(存在論)。
しかし、それは同時に主語の運動でもある。
この側面を展開したのが反省の判断のレべル(本質論)。

 主語の運動とは、主語が他と関係し自己の本質を示していくこと。
 他者とは、他のバラ、他の種、類(バラ科、植物)、事柄(人間や病気→薬草)
 これを展開したのが反省の判断 → 「反省の判断」を「量の判断」としては
ならない理由がここにある。量も質の反省だが、自己内反省。

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(1)質の判断

 肯定判断 このバラは赤い     青である
 否定判断 このバラは赤ではない  青ではない
      色を持つ
 無限判断 

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【1】論理学の存在論の段階に対応する

【2】[述語]が感覚的規定
 すべての感覚や認識が、先ずは、この段階の判断として現れる

【3】この段階では「個別は普遍」
[主語]は個別。他の存在から切り離され、認識主体の感覚との関係だけで存在する
[述語]内容は特殊 色の中の赤とか、青とか

【4】[主語]の持つ多様な規定から1つが感覚でとらえられ、
 それが[述語]として引き出される
 [述語]から見れば、「赤い」対象は、「このバラ」以外に無数にある

【5】【3】と【4】から、[主語]と[述語]が、
 コプラで(同一)とされながら、わずか1点でしか接点をもたない
 この[矛盾]が、否定判断へと展開し、無限判断を生み出す。
 認識主体との関係も、感覚の1点(例えば視覚の中の色彩)
 でしかふれあわない(牧野より)

【6】無限判断の過程で、[述語]が、感覚から思考による規定へと移行する
 感覚の規定から、思考による規定に。
 このバラが赤い、 このバラは青い。
 といったバラの判断の運動(最初は個別のバラの運動)で、それが展開する。
 それによって、このバラは他のバラとも関係する。
 個々の色(特殊)から、色という普遍に。

【7】なぜ「定存在」の判断なのか、なぜ「定存在」から始まるのか

 ○(純粋)存在=自己関係、自己同一の意味だが、それはコプラに他ならない
 『ヘーゲル大論理学 3』(寺沢恒信訳注 以文社)、12ページ
 ズールカンプ社版全集6巻、14ページ
 das Sein als Kopula des Urteils 判断のコプラとしての存在

 ○定存在と存在の関係
 論理的な順番と歴史的な順番が反対になっている。

 ○牧野も『関口ドイツ語学の研究』(133ページ)で、
 独立存在が「?が存在する」、定存在が「?である」、
 この定存在の「?である」がさらに抽象化し、
 一切の規定なしになっているのが存在としている。
 これがコプラそのものなのだろう。

【8】「正しい」か否かが、問われる段階。 対象と表象の一致。
 「真理」が問われるのは、概念の判断以降。

【9】今日の言語学では、次のように考える。

 「このバラは赤い」は現実に話されることはない。不自然。
 文脈で、白いバラを注文した時に、赤いバラが来たときにのみ発言される。
 だから、こうした文例を使わない。

 これは、判断が対象の運動であるという側面を無視し切り捨て、
 認識の運動とのみとらえていることから生じる意見ではないか。

———————————————————–

(2)反省の判断

 単称判断 この植物は薬草である
 特称判断 いくつかの植物は薬草である
      ※単称判断に内在化されていたのを外化しただけ
 全称判断 すべての人間は死するものだ
      すべての金属は伝導体だ

———————————————————–

【1】論理学の本質論(仮象と現象)の段階に対応する

【2】[述語]は思考でとらえられた(自己内反省した)規定

【3】[主語]が、他の対象(病気や病人、医者、医療)との関係で捉え直されている
 同じ植物でも他の植物とも関係させてとらえられている

[主語]が他と関係する中で現した本質規定を[述語]としている
[主語]の潜在的な本質規定が[述語]として出されている

【4】単称→特称→全称 への展開は
[主語]が、個別→特殊→普遍(類)へと進展
[述語]は普遍のまま

 個別は普遍 → 普遍は普遍 に

 「すべての人間」→「人間そのもの」→「人類」=類

【5】「特称」の意味

   このバラは植物である
     ↓
  ┏いくつかのバラはAである。
 ┏┫
 ┃┗いくつかのバラはAではない。   反省 → 悪無限
 ┃   ↓
 ┗すべてのバラは?である。
 (Aの自己内反省)。
    

 ┏いくつかのバラはAである。
 ┗いくつかのバラはAではない。
 後者は前者に内在されている。

 牧野のコメント、「認識に知られた限りでは?」の意味もある、は間違い。
認識主体がどうとらえたか、とらえられたか。
こういった認識の運動と、事実(対象)そのものの運動とを区別すべき。
判断論はまずは、対象の運動である。そして、それゆえに認識の運動でもある。

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1月 20

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その2

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

=====================================
 二.「判断論」全体の問題点

(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか

【1】主観性と客観性の対立(分裂)の関係は、本質論の現実性(労働)で
 すでに触れられ(『小論理学』148節)、概念論の概念でそれは止揚されている。

【2】「概念論」が主観性、客観性、理念との3分される以上、
 主観性の段階は、主客の対立の未分化の状態としてとらえられている。

【3】主観性と客観性が対立(分裂)するのは、
  客観性の目的論であって、ここではない。

【4】判断は存在世界の運動であり、それゆえにそれを反映する
 人間の認識の運動でもある。
 認識主体と対象(客観性)は、一体のものとして扱うのがこの主観性の段階。

 以上は、ヘーゲルの論理学の上での説明だが、これは現実には何を意味するのか?
 牧野もこれを問題にし、その答えは出していない。

(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。

【1】判断を発展させる原動力は、
 [コプラ](である)が主語と述語の「同一」を示すのに、
 実際の主語と述語が全面的に一致していないという[矛盾]にある。
 その一致をめざして運動がおこり、それが判断論の進展である。

【2】コプラは概念そのもの。
 概念の契機である、普遍、特殊、個別の3要素はコプラに内在する。

【3】コプラの充実とは、主語と述語の両者が全的に一致すること。

【4】関口は、コプラを軽視するが、
 これはそこに矛盾の運動を見られないことと関係する。

【5】普通の言語学では、コプラは「主語と述語を『つなぐ』」と言うが、
 「同一」だとはいわない。これは問題を矛盾にまで突き詰められない悟性の限界。

(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
   判断から推理への進展は何を意味するのか

【1】判断から推理へ 2項から3項へ。
 普遍、特殊、個別の区別が潜在的だったものから顕在化する。

【2】判断論では、個別は普遍、特殊は普遍、個別は特殊と進展する
 主語は、[個別]→ 特殊 →[普遍]と
 述語は、[普遍]→ 特殊 →[個別]と進展する。
 そして、これは最後(必然性の判断の選言判断)には
 主語と述語との位置が逆転することを意味する。

【3】判断の有限性。推理は無限。人類は男女から子どもを介して無限。

(4)文(命題)と判断とはどう違うのか

【1】論理学では、判断の述語となる言葉(概念)だけを対象としている。
 つまり、文(命題)一般が対象ではなく、
 判断の形になっているレベルを 問題にしている。
 判断とは、問いの形に意識されたものに答える形になったものだ。
 したがって、単なる描写は、最初から問題にならない。

【2】では、ヘーゲルでは文(命題)一般はどうとらえられ、分類され、
 それがどう発展したのが判断になると、理解されているのだろうか。
 それが書かれていない。

【3】判断が前提されるが、それはカントの影響も大きいだろう。

(5)仮言判断の問題

 ヘーゲルの判断論では、仮言判断は、必然性の判断の中に、
定言判断→仮言判断→選言判断として出てくる。

 しかし、仮言判断は、ヘーゲルにあっては、定言判断と選言判断の
媒介としての意味しか示されていないように思う。これでは仮言判断の持つ、
大きな意味のほんの一部しか明らかにされていないのではないか。

 この仮言判断で、初めて主語が2つ、したがって文が2つ現れるのだが、
その意味が十分にとらえられていないと思う。

 関口の「不定冠詞論」で第10章の「不定冠詞の仮構性の含み」では、
不定冠詞をつけた名詞が、一語で一文の意味(つまり「含み」)を
持つことを説明している。

 この「仮構性」で「約束話法」とは、仮言判断のことだろう。
また、「普遍妥当命題の主題目」の名詞に不定冠詞がつくのも、同じで、
例証的個別、架空的個別を出すと説明している。
1語の中に、条件文は「含み」として含まれるのだ。
「もし○○(名詞)が存在するならば」「もし○○が?ならば」。

 そもそも「否定」の文とは、「○○が?する」のを否定するのだが、
そのためには、先ず、○○を存在させ、その上で否定しなければならない。
この二重の手順なしに、否定はできない。
つまりある主語(名詞)の存在(または他の動詞)を否定するには、
まずはその存在(または他の動詞)が条件として含まれていると言える。
これは存在→否定とのヘーゲル論理学の展開とも関係するだろう。

 一般論を述べるにも、ある個別の主語(名詞)の存在
(または他の動詞)が前提とされる。
これらは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の二重性となっている。

 この「肯定と否定」の二重性は、ヘーゲルでは肯定判断と否定判断の
悪無限として質の判断ですでに説明されていた。
したがって、それは反省の判断でも、必然性の判断でも前提だ。
しかし、それまではその二重性が表に出て見えることはなかった。
こうした二重性が仮言判断では、はっきりと表に現れている。
仮言判断とは、潜在的な二重性が顕在化する段階なのではないか。
これが、文が2つ現れて来るという意味ではないか。

 その上で、主語が2つ現れるという、
仮言判断の特殊な側面が問われることになるのではないか。
ヘーゲルには、後者の説明はあっても、前者がない。
これはヘーゲルがカントに依存し、その範囲で考えていることから
生じているのではないか。

(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか

【1】[仮言判断]では、主語が2つ現れる。
 したがって、文も2つあることになる。

【2】複文 主文と従属文。条件文(副文)は、[概念の判断]で現れる。
 この意味が説明されなければならない。私見は(5)に書いた。
 また、仮言判断は、論理的には推理ではないか。
 概念の判断もそうではないか。

(7)概念のナカミはどこで問われるのか

 人間とは?(人間の概念)である という判断は、この判断論では現れない。
 先の規定で、[精神哲学]における内容だから。

(8)カントとの関係

【1】ヘーゲルが行ったのは、カントが示したカテゴリー表、判断の分類の意味を深めただけ
 カントが考えていたことの潜在的な意味を、顕在化させただけ
 逆に言えば、この「?しただけ」(深めた)が重要。それが継承(発展)させること。
 これが私たちができるベスト。

【2】二人の違い
 すぐにわかるのは、カントの量から質の順を、ヘーゲルは質(定存在)から始めて、
 反省(量ではないが、全称や特称を扱う)へと展開したこと。
 他も、全体にそれぞれの判断の意味を変えている。
 しかし、ヘーゲルがカントに引きずられている部分もあるのではないか。
 判断の4種類など。

【3】仮言判断におけるヘーゲルとカント
 ヘーゲルとカントでは、仮言判断と因果関係との関係が正反対。
 カントは、仮言判断の存在から原因結果の関係を導出する。
 ヘーゲルは、逆である。
 これはカントがカテゴリーを人間の悟性の行う判断の形式から導出しようとし、
 ヘーゲルにとっては、概念の運動から判断を導出しようとしているのだから当然。

 それよりも、仮言判断と原因結果の関係を結び、
 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断としているカントに、
 どれだけ強くヘーゲルが依存しているか、その側面こそが問題なのだ。

(9)アリストテレスとの関係

【1】アリストテレス以来の形式論理学の批判になっている

【2】アリストテレスでは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の対立が
 絶対的な基準になっているが、ヘーゲルはその相互転化を示すので、
 その対立は止揚される。

【3】ヘーゲルの論理学では、肯定判断と否定判断の相互転化は質の判断で示される。
 反省の判断以降では、この肯定と否定は契機として止揚されているから、
 その後の判断において繰り返し出てくるが、表には肯定の形しか示さない。
 それは止揚しているので、一々示す必要がない。

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1月 19

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として

(1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか

 「神(絶対者)は?である」。
 この「?」のところに述語として入る言葉を、1つ1つ取り上げている。

【1】人間の認識は、実際はすべて判断の形をとっている。
 それを悟性の能力とし、そこから基本カテゴリーを導出したのはカント。
 ヘーゲルもその考えを継承している。

【2】その上で、主語は名前でしかなく、実質上はその述語が認識の内実だから、
 その述語だけを取り上げて展開していったのが、ヘーゲルの論理学。
 実は、これは関口ドイツ語学の考えと一致する。
 関口も判断では「述語が達意の中心」だという。

【3】ただし、ヘーゲルは、思考と存在は一致すると考えるから、
 述語の展開は、認識だけではなく、存在の運動でもある。
 つまり、対象は自ら判断するのであり、人間はそれゆえに、
 その対象の認識の運動としてその判断が可能になるのだ。

【4】また、ヘーゲルの論理学では、存在論、本質論までは判断の形式だが、
 概念論の中では推理の形式に移行し、高まっている。
 ただし、論理学では最後まで形式としては判断の形で貫いている。

(2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか

【1】そこまでは、主語は名前でしかなく、その内実は述語だから。
 (潜在的には推理の論理があるが、表面には出てこない)

【2】それが概念論から変わる
 特に、判断論の必然性の判断(選言判断)で主語と述語関係が逆転する。
 主語が普遍になる(類)ところで、判断論として考えることは無理になっている。
 もはや主語は名前でしかないものではない。
 述語と完全に一致した名前とは概念である。
 判断が推理に止揚された段階で、判断の後ろに、常に推理があったことが示される。

(3)概念論の主観性の[判断論]

【1】これは存在論、本質論で展開してきた概念の全体を、
 それが判断の述語の展開であったことから、判断として捉え直し、
 判断としての価値、意義と限界を捉え直したものになっているのではないか。

 つまり、

 1)質の判断は、存在論の捉え直し
 2)反省の判断は、本質論の仮象論と現象論
 3)必然性の判断は、本質論の現実性論の捉え直し。
 4)概念の判断は、3つの判断を止揚して、概念論のレベルで現れたもの。

(存在論、本質論と、判断との対応については『小論理学』171節の付録に詳しい。
4つになる理由を、本質論では反省関係になって2つになると説明している。
しかし、これはカントに引きずられているのではないか。
最後の概念の判断が余計だと思う。その理由は後述。

 『ヘーゲル大論理学 概念論の研究』(大月書店)でも
70ページにそうした叙述がある。ただし、反省の判断と必然性の判断が、
本質論のどこに対応するかは書かれない。概念の判断については、

「現実の事物の真の発展とはどういうものか、それをとらえる真の判断、
真の認識とはどういうものか、をあきらかにします」とある。

これでは推理との違いがわからないだろう。
また、ヘーゲルの論理学が、判断の述語を展開したものであり、
そのこと自体の意味は何かといったところまでの深まりはない。)

(4)概念論の主観性の[推理論]

 推理は、(3)で説明した4つの判断を、
推理の立場から価値づけ、意義と限界を捉え直したもの。

 これは、判断を発展の論理(普遍、特殊、個別の関係)として
捉え直したものになっているのではないか?

 そうすると、

 1)質の推理が、質の判断の捉え直し
 2)反省の推理が、反省の判断
 3)必然性の推理が、必然性の判断の捉え直し

 となる。

 しかし、こうだとすると概念の判断に対応する推理が
出ていないことになる。必然性の推理が、概念の判断の捉え直しなら、
選言推理がそれにならないとおかしい。

※もともと、概念の判断がおかしい。
 これは推理論で出すべきではなかったのか。
 これはカントに引きずられたのではないか。

※この傍証として、『ヘーゲル大論理学 3』
 (寺沢恒信訳注 以文社)、195ページを指摘できる。

 「客観性」の2つの意味を「主観性」の2重の意味から説明するが、
主観性論の推理からではなく、「判断の完成としての必然判断」から出している。

(5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という大きな括りの中で示される。

【1】[本質論]の現実性、必然性、実体で、すでに発展の論理の芽は出ているが、
 表面的には内化と外化の統一とされているだけだ。

【2】[主観性]では
 まず[概念そのもの]の段階で、
 普遍、特殊、個別の3契機としてとらえ、後の推理で発展の論理を示せるようにする。

【3】[判断論]で、コプラ(概念そのもの)を媒介として、
 この3契機の内の2つが媒介されるとし

【4】それを受けて、[推理論]で、普遍、特殊、個別の3契機を
 発展の論理としてとらえた。
 ここに、普遍、特殊、個別の3契機による発展の論理は示された。
 これは発展の論理が自覚された段階になる。

【5】次の[客観性]では、この世界は発展の論理を内在化して持っている存在である。

【6】[理念]は主観性と客観性の統一だから、
 世界の発展(客観性)が、その概念(主観性)に一致する。

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