3月 20

人間の平等の根拠は何だろうか。

西洋では、キリスト教の「神の前での平等」が根拠となっていると聞いたことがある。
本当だろうか。

加藤周一の「近代日本の文明史的位置」ではそうして前提での議論が行われた。
こうした議論がずっと気になっていた。
読者のみなさんはどうお考えだろうか。

私も、この問いを抱えて、考えてきた。
やっと自分なりの考えがまとまってきた。それを公表しておきたい。

■ 目次 ■

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等
2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」? 
3 失楽園の物語
4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある
5 加藤周一とは何者か

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人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等

 人間は相互に平等であるということは、今では当たり前になっている。
これに正面から反対することは難しいだろう。それは差別主義者として批判される。
しかし、多くの人が本音では、その反対のことを意識している。「女はしょせん?」とか
「田舎者は?」とか「家柄や育ちが大切」とかは普通の意識であり、したがってそうした見解は
しばしば表現され、外化される。出自や階層、地域や民族間の差別意識なども一般的だろう。
ヘイトスピーチはそれが露骨に外化したものだが、もともと内にあるから外に出てくるだけだろう。
普段は抑圧しているだけなのだ。
歴史的には、人間が対等であったことはなかった。常に奴隷が存在したし、今でも人身売買が
公然と行われている。人間の普遍的な権利として政治上の平等が主張されたのは、フランス革命、
アメリカの独立宣言が始めである。その後、それがどこの国の憲法でも保障されるに至っているが、
それは建前であることが多い。政治上の平等だけではなく、経済上の平等も求めるのが社会主義運動
だったが、それは破綻し、資本主義内で格差が広がらないようにという程度に、その欲求は押さえられている。
さて、人間の平等、政治上の平等、経済上の平等を基本的な人権とする考えは、
一体どこに根拠を持つのだろうか。ただの理想で、実現は無理なのだろうか。
しかし、それが理想とされるには、それなりの根拠がなければならないはずだ。それは何か。

2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」?
 
人間の平等の根拠としてキリスト教を挙げる人たちがいる。神の前の平等、神との関係における平等は
キリスト教で確かに謳われてきたことであり、それが社会的に一般化した権利として平等を考えるのだ。
たとえば、加藤周一の「近代日本の文明史的位置」である。加藤は人間の平等の根拠を問題にし、
それを日本と西洋との比較から考えている。
加藤によれば、西洋での民主主義(人間が平等であるという意識)は、個人主義を前提とし、
「その個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である」。「人間が平等であるという
考え方は、自明の事実に基づくものではない。社会的経験は、むしろその反対を暗示している」。
そして「神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない」と言う。
つまりキリスト教の「神のもとでの平等」、「神と個々人の関係の絶対性」に、平等の根拠を見ているらしい。
その上で、日本人の意識を問題にする。「日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、
明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で
演じてきたのは、感覚的な『自然』である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、
思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された」。
平等の根拠が、日常生活の直接の経験のレベルには存在しない以上、それを超える価値を生み出せなかった
日本人に、平等の意識は生まれないのではないか。それが加藤が問う問題である。
加藤はその困難さを受け止めつつも、「われわれの側に主体的な要求のあること自体が、半ば、その可能性を
証明しているのだ」としてこの文章は終わっている。平等を求めるのは人間の根源的な欲求だとしているのだろう。
しかし、その根拠は示されない。
このテキストは60年以上も前の1954年の文章である。しかし、こうした議論は、今も続いているのではないか。

3 失楽園の物語

加藤周一は、キリスト教が人間の平等の考えを生んだと推測する。しかし本当は逆なのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等の根拠が事実として存在していたのではないか。
そして、それを自覚していく過程の中から、ユダヤ教が生まれ、キリスト教も生まれてきたのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という根拠が存在していたとは、どういうことか。
人間が人間として現れた時、つまり他の動物の1つ上のレベルの存在として新たな種として人類が生まれた時に、
すでに人間は潜在的に平等であり、それ以外にありえなかったのである。それは人間を他と区別する
人間の本質とは意識の内的二分にあったからだ。
意識の内的二分とは、意識が分裂し、自己意識と他者(対象)意識が生まれたことを意味する。
それは外の自己と他者(対象)とを区別することであり、同時に内的に意識内が分裂し、
意識内に自己と他者(対象)への分裂が起こることである。
もちろんこの分裂は分裂に止まるものではなく、その統合への活動を引き起こし、それが人間社会を
発展させてきたのである。これが思考、善と悪との始まりであり、目的意識と労働、社会意識の始まりである。

旧約聖書の創世記の失楽園の物語を思い出していただきたい。神は土くれで人(アダムとイブ)をつくり、
エデンの園においた。アダムとイブは裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。神はエデンの園に
あらゆる木を、園の中央には生命の木と善悪を知る木を生えさせた。神はアダムに命ずる。
「園にある木の実は何を食べても良いが、善悪を知る木の実は食べてはならぬ。それを食べたら死んでしまうから」。
 ところが、ヘビに誘惑されたイブは善悪を知る木(の実)を食べてしまい、
ともにいたアダムにも与えたので、アダムも食べた。すると2人の目があき、自分たちが裸であることを知った。
2人は恥じらいを知り、いちじくの葉を腰に巻いた。
神は、2人が善悪の木の実を食べたことを知る。神はイブに呪いをかけ、出産と生活に苦しむようになると言い、
神はアダムに呪いをかけ、土地を耕すことに苦しむようになると言った上に、「おまえは土くれだから土に帰る」
と言う。そして神は「人がわれらのようになった。今にも人は生命の木の実も食べて永遠に生きるかもしれないと言い、
人をエデンの園から追放した。
これが人間が善悪を知り、呪いを受けるとともに、神のようになったという物語である。
これがユダヤ教の人間観なのだ。
この神話では、善悪の知識によって、人間がまず最初に恥を知ったことが強調される。
この恥こそが、人間の意識の内的二分によって生まれたものなのだ。
恥とは自己意識の分裂が生みだしたものだ。それは他者の視線を意識し、他者から見られる自分を意識する。
それは外界に自分と他者の区別が生じたことであり、それは同時に自己内に見る自分(他者)と見られる自分
との分裂が起きていることである。ここに人間の平等の根拠があると、私は考える。

4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある

意識が自己意識と他者(対象)意識に分裂し、意識内に自己と他者の両者が意識される時、
この両者は意識内では対等に並ぶことになる。これが「特殊」であり、特殊は特殊に対して、同格であり、
対等である。これは同時に、外の他者と自己とが対等に並ぶことでもある。
その分裂は、もちろん分裂のままにはとどまらない。見る自分(他者)と見られる自分との分裂が正しく
統合されると、自己相対化が起こり、自己理解が深まっていく。
特殊が特殊として同格でただ並ぶだけの段階から、この特殊性を超えて、全体をとらえた時に、
普遍、類がとらえられ、それが人類である。
そこには特殊と普遍の分裂があるのだが、この分裂から、人間の本質と、自分の特殊性とをともに意識して、
自分は人としてどう生きるかが問われ、その答えを出した時に、それが個別である。
これがヘーゲルが普遍、特殊、個別、の発展として考えていることだろう。

こうした全体の過程の中で、特殊の段階としては自己と他者のそれぞれが、特殊として相互に同格であり、
対等である。ここに、人格の平等の根拠があるのではないか。
そしてここから対等な関係である「契約」という意識が生まれ、人間と神との関係すらも、
この「契約」としてとらえるユダヤ教が生まれ、神と人との契約関係から、すべての人間同士の平等の自覚が
明確になっていったのではないか。こうした前提の上に、キリスト教は成立している。
以上を考えてくると、人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という論理が存在していたと、
私には思われるのである。それはキリスト教から生まれたのではなく、逆にキリスト教の基本の原理を生みだした。
そして人間の平等は、西欧とか、キリスト教とかに関係なく、すべての人類に共通する普遍的な関係性
なのではないだろうか。どのような歴史的背景や精神的背景があったかには関係なく、
人がある自覚の段階に達すれば、必ず意識され、自覚されていく原則なのだ。
それは人間の本質である自己内二分から必然的に生まれてくるからだ。

5 加藤周一とは何者か

加藤周一を例として取り上げたので、最後に加藤の評価について触れておく。日本では加藤の評価は
大きく二つに分かれるようだ。一方には加藤を「知の巨人」として持ちあげる人々がいる。
他方で、ただのデイレッタントとして低く見る人々もいる。
 加藤にはその視野の広さと認識の深さがある。西洋と東洋の対立、そのキリスト教理解、宗教的理解の的確さ、
日本文化への見識。この幅と深さのレベルに達している日本人は少ないのではないか。したがって、
こうした意味で、加藤は評価されるべきなのだ。しかし、それ以上に持ち上げるのもおかしい。
 加藤周一の真価は、その問題提起、問題の把握の仕方にあると思う。どうでもよい問題ではなく、
根本的で根源的な問題をつかめたこと、そのつかみ方でも明確な対立・矛盾を示すことができたことが
その優れた点だ。今回取り上げた問題提起がまさにそれだと思う。
加藤の限界は、自分が提起した問題の本当の解決、本当の答えには到達できない点ではないか。
対立、矛盾を示すまでで、それを超えることができない。ヘーゲル的に言えば、彼は悟性のレベルにとどまり、
彼ができることは対立と矛盾の提示に止まる。その解決は彼の役割ではない。
加藤のこの両面をしっかりと理解していれば、加藤周一を有効に活用できる。その問題提起は大いに参考になる。
その答えは不十分だから、自分で代案を出せばよい。

(2016年7月11日)

10月 17

「ちょっと違う」

よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。それがとても気になる。

注意してみると、その人はどこでも何に対しても「ちょっと違う」と言っていて、その「ちょっと違う」ナカミに迫ろうとはしない。
その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と言い続けるだけなのだ。

確かに「違う」のだけれども、それは「ちょっと」だけだ。たいしたことではない。

しかし、実際は、何がどう違うのだろうか。その「問い」が本気で問われることはない。
本当は、どんなに小さな違いでも、その意味を深めるならば、絶対的な対立にまで至る。

これについては、以前に「『自分の意見』の作り方」として書いた(鶏鳴会通信233号)ので、
それを以下に再度掲載する。

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◇◆ 「自分の意見」の作り方 中井浩一 ◆◇

 よくマスコミなどでは、有権者の意向調査などを行い、その動向を報道する。
それが政治を大きく動かすこともある。また、テレビなどで、何か事件があると
街の人々にインタビューをして「どう思いますか」「どうお考えですか」
「賛成ですか、反対ですか」などを問う。

 問われた方は、真剣に、または笑いながら、または怒りながら、
何かを発言する。それぞれ、もっともな意見に思えるし、ある立場を
代弁していると思う。しかし「言わされている」「番組で求められている答えに、
合わせている」とも感じる。

 そこで語られる「意見」とは何なのだろう。
意向調査で出される「意向」とは何なのだろうか。
それは本当に、その人の「意見」「意向」なのだろうか。
否。それらの多くは、テレビで誰かがしゃべっていたことを
オウム返しで言っているだけのことだ。社会全体としての気分、雰囲気、
世間の多くの考え方を代弁するだけのことだ。もちろん、それにも意味がある。
それを否定しているのではない。ただ、それは「意見」「考え」と言えるような
ものではない、と言いたいだけだ。

 もともと「自分の意見」などを持っている人はほとんどいない。
「他人の意見」「親の意見」「世間の意見」でしかない。なぜか。

 「自分の意見」とは次のようにして生まれる。

 【1】「自分の問い」が立つ。
 【2】その「問い」の「答え」を自分で出す。
 【3】その「答え」を実際に実行し、それを生きる
 【4】その中から、次の「問い」が立つ
 
 以下、繰り返し。

 この繰り返しの中で、自分独自の「問い」と「答え」が生まれ、
それが次第に領域を広げ、深さをましていく。そうして、
「自分の考え」が生まれ、それがあるレベルにまで到達した時、
その「自分の考え」を「思想」と言うのだ。
「思想」というとずいぶん偉そうだが、ただ、それだけのことなのだ。

 多くの人には、「自分の考え」がない。「他人の考え」「親の考え」
「世間の考え」を持っているだけのことだ。
それはこの【1】から【3】ができないからだ。

 まず、「自分の問い」が立たない。
何となく問題を感じる。何となく疑問を思う。
親や恋人に、上司や先生にいろいろ言われ、問い詰められる。
これはすべての人に起こる。

 しかし、そこから、真剣に自分の答えを出そうとしない。
なぜなら、親や世間一般の考えを自分の考えとしていても、
とりあえず困らないからだ。または疑問を感じても、
それに代わる意見を出すだけの気力も覚悟もないからだ。
つまり、自分自身の「問い」を立てようとしないのだ。

 よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。
しかし、その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と
言い続けるだけで、その「ちょっと」のナカミに迫ろうとはしない。

 もし、本気で「問い」を出したとしよう。すべてはそこから
始まるのだが、世間一般の考えのレベルを超えて、「自分の答え」を
出すのは簡単ではない(だから「先生を選べ」が必要になるのだが、
多くの人にはその覚悟はない)。そこで、世間レベルにもどって
それに屈服するか、答えが出ないままに保留し続けて、結局は問いを流してしまう。
そして言うのだ。「ちょっと違う」。けれど、「ちょっと違う」だけだ。

 さて、頑張って「答え」らしきものを出せたとしよう。
しかし、「答え」らしきものを出しても、多くの人には、
それは「遊び」であり、その答えを生きようとはしない。
「答え」を出すのを、ゲームのように楽しんでいるだけなのだ。
頭の良い人に多いが、その「答え」は軽やかで「知」と戯れたり、
「奇矯」だったりする。

 その人は、深まることはなく、バラバラの知識が増えるだけのことで、
「自分の意見」にはならない。

 もし、「答え」を出したら、それを「実行」し、そのままを
「生き」なければならないなら、それはしんどいし、
他者との対立が予測されるので怖くなるだろう。

 それが何となくわかるので、答えを出さなかったり、
そもそもの問いを出さないようにする人も多い。それが普通なのだ。

 もし、「答え」を生きなければならないなら、答えを出すときは
真剣になるだろう。そこから、本当の思考が始まるのだ。
それはぶかっこうだったり、不細工だったりするが、
圧倒的な力を持って迫ってくる。

 「答え」を生きるなら、必ず問題が起きてくる。
最初の「答え」はまだまだ狭く、浅いものでしかないからだ。
「生きる」ことは全体的で、すべてが密接にからまっている。
「生き」る限り、次から次へと問題にぶつかる。その問題から
逃げることなく、真正面から次の「問い」を立てるなら、
そこから1つ上の段階に進む。そして、その段階で次の
「答え」を出していく。

 先に述べたように、このサイクルをどれだけ、先に進められるか。
それだけが問題なのだ。
どうだろうか。あなたの意見とは「ちょっと違う」だろうか。

(2011年12月24日)

10月 10

二股人間の二股語 「バランス」と「ペース」

「バランスを取りたい、バランスが重要」。
「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」。
そう求める人が、中井ゼミにいる。

こうしたフレーズは、世間ではよく聞くものである。ごく普通の言葉だろう。
しかし中井ゼミの内部では、ほとんど聞かない。私がこうした言葉を使うことはない(と思う)。

「バランスをとりたい」
これは、中井の基準と、自分や世間の基準との間で揺れ、二股を許してほしいとの願望の表明なのだ。
どちらか1つを選択することを求めないでほしい。
2つの世界の両方がほしいから、否、実際は自分や世間の基準で生きているし、生きていきたいが、
中井との関係も切りたくはない。中井もスペアとして保持しておきたい。
それを何とか、可能な道を模索している。二股状態でいることを許してほしいと願っている。

「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」
これも、事実上、二股を許してほしいとの表明だ。
1つだけを選択する時期の決定は、自分に任せて欲しい。
そしてその選択・決断の時期をずっとずっと先に延ばしていく。
つまり、選択する覚悟はない。これは、選択しないという生き方、二股の承認を求めることだ。

以上から、「バランス」と「ペース」という言葉は、
二股人間の二股性を表す言葉であることがわかる。

2016年9月13日

4月 08

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日掲載分の目次 ■

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情

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4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割

さて、今回牧野が、そして私が「現実性」の改訂案を出したということは、ヘーゲルの「本質論」
(特に第3編「現実性」)の初版が不十分なものであると両者が考えていることを意味する。
それはヘーゲルの意図や目的を十分に達成していないのではないか。

ヘーゲル論理学全体において「現実性」は核心部分であり、その理解はヘーゲル論理学全体の理解に大きく
影響する。私がヘーゲルの何に不満なのか、何がわからないのか、実際のヘーゲルの論理学(初版)の展開
に即して説明してみたい。

ヘーゲルの論理学は、客観的論理学(存在論、本質論)から主体的論理学(概念論)と展開されている。
存在論、本質論、概念論はそれぞれ3編からなる構成になっている。「現実性」は本質論の第3編に位置している。
その位置からわかることは、「現実性」は客観的論理学(存在論、本質論)の総括をし、そこから主体的
論理学(概念論)を導出する役割を持つということだ。
つまり、客観的論理学と主体的論理学は、概念の生成史と概念の展開史の関係だ。広い意味では客観的
論理学(存在論、本質論)全体、狭い意味では「現実性」が、概念の生成史であり、そこで生まれた概念が
自らその意味を展開するのが主体的論理学(概念論)なのである。
そしてこの生成史から展開史という順番は、ヘーゲルの発展の論理から生まれている。
ヘーゲルは、存在論は「移行」(外化)の論理、本質論は「反省」(内化)の論理、概念論は「発展の論理」だと言う。
それは存在論の「移行」の論理と本質論の「反省」(内化)の論理の統一が発展の論理だということだ。

概念の必然的な導出は、発展の論理の必然的な導出でもあるはずだ。つまり、「現実性」では概念の生成と同時に、
発展の論理の生成が示されねばならないのだ。ではその概念とは何か。
概念とは、地球の全歴史を貫いて、そこに実現していくもののことであり、その実現にはどうしても人間の主体的
な働きかけが必要である。だからこそ地球から人間は生まれてきたのだ。その意味では人間を概念と呼んでよい。
地球の歴史と人類の歴史を世界の始源(概念)が自己実現していく「発展的」過程としてとらえ、それを認識し
実現していく主体として人間(自我)を導出する。その導出が「現実性」で展開されなければならないはずだ。
そして、人間が実際にその使命を実現するために概念を理解し実現する過程は概念論で展開されるはずだ。

以上の意味で、概念(人間)を導出する本質論の「現実性」こそが、ヘーゲル論理学の核心であり、概念論は
ある意味では、その概念の実際上の展開でしかないと言える。
だからこそ、本質論が一番難しいという言明がされ(エンゲルスは「本質論が一番難しい」と言っていた。
ヘーゲル自身も『小論理学』の本質論冒頭の第114節の注釈で「論理学で最も困難なのは本質論だ」と言って
いる)、さらに「必然性から自由への、あるいは現実性から概念への移行が最も困難だ」と『小論理学』の
第159節の注釈で述べている。

5.ヘーゲルの意図について

(1)ヘーゲルの意図
ではそうした重要な役割を担う「現実性」をヘーゲルはどのように書いたのか。その意図は何だったか、
それは十分に実現できたのか。また、ヘーゲルの意図とは離れて、そもそも、論理必然性からして、
本来はどう展開すべきだったのだろうか。

ヘーゲルの大論理学の「現実性」(初版)の実際の内容は、以下のようになっている。
第1章はスピノザ哲学を紹介し、実体→属性→様態と展開される。
第2章は、可能性と現実性の関係を分析し、偶然性と必然性を論じる。
第3章は、実体性、因果関係、相互関係が展開されている。

この中で、ヘーゲル自身は第3章こそが核心で、それが概念の導出の役割をはたすと考えていたようだ。
小論理学の叙述(大論理学の第1章は省略、第2章「現実性」は序説扱い、第3章のみ本論)もそれを示す
だろうし、大論理学の概念論冒頭の「概念一般」では「実体性論(第3章)が概念の生成過程」と述べ、
その要約をしていることも、それを裏付けるだろう。なお「概念一般」では、その要約の直後にスピノザ哲学
とカント哲学への言及がある。ヘーゲルはスピノザ哲学を概念の直前の実体の立場として評価し、一方の概念
の立場(それはスピノザに欠落する個別の立場でもある)を切り開いた先駆者としてカント哲学を評価するのだ。

(2)代案の根拠
さて、ヘーゲルの意図は上記のようなのだが、それは確かなのだが、私には第3章が概念の導出となっている
ことが理解できない。この第2章と第3章の順番がわからないのである。第3章と第2章は入れ替えるべきではないか。
なぜなら、主体=人間=概念の導出を担っているのは、第3章ではなく第2章だと考えるからだ。
第3章の内容は、因果関係はもちろん、相互関係ですら、必然性全体の中では低いものだと私は考える。
動的な歴史的な発展過程を捉えるのは第2章である。第3章は、せいぜい第2章の内容を、分析的に捉え
直したものにしか見えない。

私の考えを支えると思う根拠をいくつか挙げておく。
この第2章と第3章は、それぞれ、カントの判断の4類型に対応する。関係性の判断(実体、因果、相互)が
第3章、様態の判断(偶然性、可能性、現実性、必然性)が第2章である。
 このカントの判断の4類型は、ヘーゲルが自らの論理学の体系を考える際の土台としているのだが、
質の判断と量の判断は、存在論の大枠をなし、関係性の判断と様態の判断を本質論の核心の「現実性」に
置いたのだ。ヘーゲルにはそれはすでに決まっていたことだろう。したがって、問題はその順番にあったはずだ。
ヘーゲルの概念論の主観的概念の判断論の展開を見てみる。これはカントの4つの判断を土台に、
その4つを発展的に位置づけたものになっている。それは質の判断、量の判断(反省の判断)と続くが、
最後に持ってくる概念の判断はカントの様態の判断であり、その前の必然性の判断がカントの関係の判断
に対応する。関係の判断では二つの項が全体の契機となり、ここに全体が類や種として示される。
そして様態の判断においてその全体(概念)との一致、不一致が問われる。つまり関係の判断よりも、
様態の判断の方が上であり、それを概念の判断としているのだ。

概念論の客観的概念が機械論と目的論の順番に展開されていることもそうだ。機械論は因果関係や相互関係
で把握される世界、つまり外的必然性の世界だし、目的論は内的必然性とそこから生まれる概念の段階に
対応するだろう。因果関係や相互関係は、ヘーゲル論理学の中では外的必然性という低い段階であり、
それを止揚したのが内的必然性だという理解が正しいと思う。

ヘーゲルがこの論理学の第2書「本質論」の第編全体のタイトルを「実体」とせず「現実性」としたことも、
現実性を直接扱う第2章(タイトルも「現実性」)こそが重要であることを示しているのではないか。
また、これまでヘーゲルの本質論研究でほぼ唯一の大きな成果である許万元著『ヘーゲルの現実性と概念的
把握の論理』が第2章の研究であり、第3章ではないことも考えたい。

(3)ヘーゲルの側の事情
ではなぜ、「現実性」の内部の展開が、様態から関係性へとなったのだろうか。
牧野は「ヘーゲルは因果等の必然的関係をどうしたら証明できるかと考えた」からだと説明するのだが、
私は違うと思う。

以下は、推測でしかないが、ヘーゲルは自分の立場を実体の真理として示したかったのではないか。
ヘーゲル哲学をスピノザ哲学の真理として示したかったのだろう。
ヘーゲルにとって、哲学史上ではアリストテレスが別格であり、近代の哲学者では直接にはカントが、
ついでスピノザが先達なのだ。そこで自らがその2人の正当の継承者であることを示したかったのではないか。
だからスピノザ哲学自体の展開が、自ずからヘーゲル哲学が導出される形を示したかった。
つまり実体論の展開がそのまま主体の導出になるようにしたかった。

しかもカントの判断の4分類をそのままに取り込むことで、それを止揚したものとして概念の立場を導出
したかった。そこでラストにカントのカテゴリーから関係性の3カテゴリーをもってきた。
実体→因果関係→相互関係である。
また、第1章にスピノザ哲学を置くと決めた場合、それは実体→属性→様態と展開されるので、
第1章最後に置かれた「様態」を受けてカントの「様態の判断」を2章に置き、最後に「実体」から始まる
カントの関係性の判断を置いたのが初版の構成なのではないか。

 または、実体の生成史とその展開史として、第2章と第3章を置いたとも考えられる。
偶然性から必然性への展開が実体(必然性)の生成史の意味を持ち、その成果である現実性=必然性=実体
の展開過程をその後に置いたつもりなのだろう。第2章で必然性の発展を外的必然性(B 実在的必然性)
から内的必然性(C 絶対的必然性)へと展開していたが、それを再度、実体→因果関係→相互関係で捉え直し、
そうした必然性の展開の結果、すべての存在、現実が全体の契機となることを示した。必然性の運動の結果、
その姿を現したその全体を概念とし、その概念の働きとして必然性を止揚した自由を出す。
これがヘーゲルが実際に行なったことのようだ。
そのように考える限り、牧野のように第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に三分し、
最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くという考えは、
ヘーゲルの真意を分かりやすく整理したものと言えるだろう。

 しかし、それがヘーゲルの意図だったとしても、それは論理的には無理筋だと思う。
ヘーゲルが実際に因果関係を出すことで示したかったのは、「自己原因」(一つの全体が形成され、
すべてがその全体の契機となる)という考えだったと思う。そこから概念の導出をするためだろう。
 しかし、因果関係→相互関係は、必然性の段階としては高いものではない。日常で普通に使う考えであり、
それが厳密に操作されれば自然科学や社会科学の基礎をなすものにもなる。しかし、それは必然性の段階
としては外的必然性であり、悟性段階のものである。確かに、それも必然性の展開に従って高まれば
自己原因という段階になるが、それを一緒にくくることはできないのではないか。

 なお、私は相互関係一般を外的必然性の段階と考えるが、その重要性を否定するのではない。
内的必然性はそれを止揚したものとしてしか現れないし、内的必然性の必須の契機として外的必然性は
存在している。例えば概念論の客観性の核心である目的論で、人間が自然を完成させるという人間自身
の使命を自覚し、その使命の実現のために、人間自身の個人的社会的な変革を引き受けるようになる論理は、
作用と反作用、相互関係の論理である。労働によって自らに都合がよいように自然を変革しようとする人間は、
その欲求実現のために、逆に自らの変革に取り組み、自らの能力を高め、社会を変革しなければならなくなる。
その過程の中から人間の使命、つまり人間の概念が自覚されるはずだ。そこから理念が生まれるのだが、
そこでの論理が相互関係であることは重要だ。しかし、それが内的必然性より上なのではなく、
そうした外的必然性を止揚して内的必然性と概念が現れてくるという意味で重要なのである。

                  (2016年4月1日 3・11から5年目の春)

4月 07

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日の掲載分の目次 ■

3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
(1)外的必然性
(2)内的必然性
(3)概念(自由)の生成
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す

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3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性

 ヘーゲルの外的必然性と内的必然性とはどういう関係であり、内的必然性とは何のことなのか。
 外的必然性と内的必然性とは、単に横並びの対立項ではないだろう。外的必然性が発展した段階が
内的必然性である。つまり、外的必然性の真理が内的必然性であり、外的必然性の中からのみ内的必然性は
現れる。内的必然性とは外的必然性の中にしかない。

(1)外的必然性
A→B、AからBが出てきた(ように見える)、AがBに変化した(ように見える)時に、そうした変化を変化と
してだけとらえている段階、つまりAとBがただ他者として、相互に無関係に並ぶだけの相互外在的な関係で
しか考えられない段階が、ヘーゲルの存在論の段階である。この段階の変化の運動をヘーゲルは「移行」と呼ぶ。

そうした変化に対して、なぜ、どのようにその変化が起こるのか、つまり変化の根拠、その必然性を検討する
段階になると、本質論の段階となる。
A→B、AからBに変化した時に、AとBはただの他者ではなく、BはAから生まれたのだから、Bの根拠がAである。
この時に、AをBの原因、BをAの結果と呼ぶ。これが因果関係である。
この根拠という考えをさらに深めると、Bは初めからAに内在していたのであり、Aの中にすでに潜在的に存在
していたBが外化したものであると考えられる。この立場からは、AをBの可能性とも言い、BをAという可能性
の実現、現実化とも言う。
このように変化の運動を、その根拠から説明するような2項の関係でとらえる時に、ヘーゲルは「反省」「反照」
の運動と呼ぶ。

この因果関係や、可能性から現実性への反照の運動を、ヘーゲルはさらに深めて相互関係の芽を見抜いていく。
AがBの原因であることは、 A→B によって確認され、Bが Aの結果であることも、 A→Bによって確認される。
つまり、A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)Bを見出したことをも意味する。かくしてAからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ここにAとBを契機とした全体が現れている。これが変化一般の本質的な姿なのだ。

しかし、これではどこまでいっても偶然性の関係である。なぜなら、確かにA→Bもあるのだが、B以外の場合もある。
A からは、C、D、E、F…も出てくるからである。
B以外のC、D、E、F…の可能性は排除されない。Bもあるし、Cもあるし、Dもあるし、Eもあるし、Fもある、…
こともある。Bでないし、Cでもないし、Dもないし、Eもないし、Fもない、…こともある。
さらに、B、C、D、E、F…は、Aからしか生まれないのではなく、A以外のP、Q、R、S、T…などからも生まれること
がある。
ヘーゲルはこのAとB(B以外でも同じ)にとってのこうした状態を「自らの根拠を他者の中に持っている」として
偶然性の段階とした。この段階がヘーゲルの外的必然性である。こうした場合は、A、B、C、D、E、F…は、相互に
内的と外的との区別はあるものの、存在論の相互外在的なありかたに止まっているのだ。

こうした偶然性の段階にあって、より必然性を追求しようとすれば、A→BのBだけが可能で、それ以外のC、D、E、F…
の出現の可能性が排除されればよい(B以外のC、D、E、F…でも同じ)。そこで、そのために必要な条件が問題になる。
そこで、A→B の条件、つまりAからBだけが生まれ、それ以外のC、D、E、F…が現れないための条件の検討が始まる
(それはB以外の、C、D、E、F…についても検討できる)。それにはAの内部の条件はもちろんだが、同時にAの外部
(A以外のP、Q、R、S、T…)の条件も必要になる。
ここでは、そもそも最初に置かれるAとは何か、AとA以外の区別とその関係が問われる。一方ではAとA以外の2つを
「部分」(契機)とする「全体」が意識され、他方でAを全体とした時のAの部分(諸要素)の相互関係、またAも
入れた全体の相互関係が問われるようになる。そしてさらにA→B の条件では、A に含まれる可能性としてのB、C、
D、E、F…の相互関係、Aも入れたそれらの可能性群全体の相互関係が問われるようになる。相互関係の諸要素は
全体の契機となっており、ここでは全体とその契機としてとらえられることになる。これが実体と偶有性の関係の
段階である。

この時に、A→B の条件が示され、その条件が満たされていればBが現れ、 B以外のC、D、E、F…は現れない。
しかし、Aから何が生まれるかは、Aの内的条件と外的条件に依存しており、そうした条件に依存しているという意味
では、「自らの根拠を他者の中に持っている」ことは変わらない。したがって、その意味ではこの段階も依然として
偶然性の段階であり、外的必然性の段階なのである。

(2)内的必然性
A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省して
(内化して)Bを見出したのである。AからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ただし、Aの中に潜在的に存在していたものはBだけではなく、B以外のC、D、E、Fもあり、だからこそ、
それらも外化してくるのである。これが偶然性の段階であった。
そのAが「全体」とされ、B、C、D、E、F…がその「諸要素」として区別され、それらの相互関係が明らかになっても、
それらの関係には偶然性がまだ残されている。
しかし、そうした諸要素の中に、Aにとっての中心的(本質的)なものとそうでないものとの区別が明らかになる段階
が来る。そうした区別は、変化の中には中心的変化があるということがわかってくる段階に対応する。

Aの多様な変化の中に、その全体を貫く運動があることがわかり、それこそがAの本質の実現の運動であることがわかる。
その時、Aの中に潜在的に存在していたB、C、D、E、F…は、Aの中心的なもの(本質)の現れであるものと、
そうでないものとに明確にわかれていく。
つまり、全体を形成する諸要素には明確な本質(中心)があり、その本質の外化を中心とした運動がある。

A→BのBがAの本質(中心的なもの)であった場合は、変化一般とは全く異なる運動が現れてくる。
その運動とは、A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aという運動である。これは、Aの中に潜在的に存在
していた本質が、B からB’、B”、B”’、B””、B””’…と外化していく過程で、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)B からB’、B”、B”’、B””、B””’…へと深まっていき、最後はAにもどることになる。
このB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの全体を本質の外化、本質の全体ととらえ、その本質にとってB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aはその必然的な過程であり、その契機なのである。
ヘーゲルは発展の例によく植物の成長過程を出す。植物の種(胚)から芽が出て、成長するにつれて根や茎や枝が
伸び、葉が茂り、花が咲き、果実が実り、種ができる。植物の種(胚)には後に現れる根、茎、枝、葉、花、果実、
種(胚)などが潜在的に、可能性として含まれており、植物の成長とはそうした可能性が外化し、実現していく
過程なのだ。こうして終わりが始まりに戻ることになる。これが、ヘーゲルの発展であり、
A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの具体例なのだ。

ヘーゲルはこの運動を「自らの根拠を自己の中に持っている」として必然性の段階とした。
この段階がヘーゲルの内的必然性である。
またこの運動をヘーゲルは発展とし、「発展は本質に帰るような変化のこと」とした。
これは存在論の移行(=変化、外化)の運動と、本質論の反省(=本質に帰ること、内化)の運動を統一した
運動が発展であることを意味する。

しかし、これでは同一種の内部の、つまり同じレベルの繰り返しでしかない。本当の発展は、新たな種が生まれ、
そのレベルが高まることでなければならないだろう。それは植物の胚を例にした発展と何が違うのだろうか。
そうした発展のどこがどう深まったものなのだろうか。
それはA→BのBがAの現象的な否定ではなく、Aの本質そのものの否定である場合だ。つまりその時BはAの本質の
止揚となっており、これこそヘーゲルがBはAの真理だという本当の意味なのであり、それがAの概念なのである。

(3)概念(自由)の生成
これを理解するには、「自らの根拠を自己の中に持っている」として内的必然性とされた発展の運動が、
実は自己否定の運動であることを理解する必要がある。そしてヘーゲルの本当の凄味は、本質実現の発展の運動が、
自己否定の運動であると看破したことにある。

ヘーゲルは発展の運動(A→B)、つまり内的必然性において、BをAの真理と呼ぶ。それは、Aの現象面が否定され、
その奥にある本質が現れたものがBだという理解の上に立っているからだ。
この「否定」の運動という観点で、これまでの段階を振り返ってみるとどうなるか。
実は、一番最初の存在論の変化一般の段階にすでに「否定」の運動が含まれていた。A→Bへの変化とは、Aが否定され
Bが現れたことに他ならない。しかしそれはAとBがただ他者であり、無関係な横並びの存在としてとらえられている
にすぎない。AとBは外的な関係であり、他者として相互に否定し合って存在しているだけだ。
本質論の外的必然性の段階では、Aは自らの内的なBによって否定され、AとBは相互関係としてとらえられている。
Aは外的な他者にではなく、自らの内的なBによって否定されたのだが、他のC、D、E、F…もAの内的な存在であり、
それらによっても否定される。Aは自らの内的な存在によって否定されたのだが、それは依然として他者にとどまって
いるのだ。

それが内的必然性では異なる。Bは Aの内的本質であり、 Aの現象面が否定され、その奥の本質である Bが現れている。
Aにとってその内的本質Bとは自己そのものである。Aの現象面は、その内的本質(自己)に否定され、
その内的本質は外化されていき、ついにはAはその内的本質の全体を実現する。これはAを否定する運動だが、
Aの本質によるAの否定、つまり自己否定の運動なのだ。しかしただの否定ではなく、自己を否定することで
自己を実現(肯定)していく運動なのだ。だからヘーゲルは、Bを Aの真理と呼ぶ。それはAの本質の実現と
同じ意味である。

しかし、これでは同じレベルの繰り返しにしかならない。それは自己否定の運動なのだが、自らの本質という
範囲の内部での自己否定であった。
それが自己の本質そのものの否定にまで突き進んだ時、それは本質の単なる否定ではなくその止揚であり、
それは自己否定の完成であり、自己が滅ぶ時であり、自己を越えた新たな存在の誕生だったのである。
それが真の発展であり、自己を超える新たな存在を生むことがAの使命(Aの概念)だったのである。
「真理とは存在がその概念に一致すること」というヘーゲルの真理の実現がここにある。
こう考えるヘーゲルにとっては、Aの真の否定は Aの中からしか生まれない。ここには徹底的な一元論がある。

ヘーゲルの存在論から本質論、本質論から概念論への3段階(本質論内の外的必然性と内的必然性を入れれば
4段階)を振り返って整理すれば、発展とは存在論(外化)と本質論(内化)の運動を統一的にとらえたもの
であり、それは存在と本質の運動の真理であるとともに、外的必然性の真理であり、それがまずは内的必然性である。
実体(本質)は最初は根拠であり、原因である。そうした外的必然性の段階が深まり、内的必然性、
発展の立場にいたれば、それが実体(本質)の真理、実体の完成態であり、ヘーゲルはスピノザの実体を
この段階のものとしてとらえていた。
そして、ヘーゲルはここまでの運動の全体を「現実性」としてとらえている。これは現実性そのものが自己
運動をしてこの現実世界を形成した運動なのだ。そして最後に生まれる概念が、それらすべての真理という
ことになる。すべての始まりにその概念があり、その展開によって今、また概念にもどったということだ。

こうした全体の運動を、ヘーゲルは真理、概念、理念の自己実現運動、それを自己否定=自己肯定の運動として
とらえ、この自己否定の運動を中心として、実体の全体が捉え直された時、それは実体の中心に自己否定する
運動を認めたことになり、その運動によって生まれる自己を止揚する主体性が現れたことになる。
それがヘーゲルの概念である。
これをヘーゲルは、「実体を主体として捉え直したものが概念だ」「実体の真理が概念である」と説明するのである。

ヘーゲルはさらに、必然性の真理が自由だとも言う。
ヘーゲルは外的必然性と内的必然性をあわせて必然性としてとらえ、それを「盲目」であるとする。それは結果
を事前に予測することはできず、結果から必然性を判断することしかできないからだ。また個々の存在は相互に
自立的に外的に存在しているからである。
しかし概念の段階になると、それはすでに「盲目」の必然性ではない。事前に結果を予測することが出来る。
それが目的的な活動であり、その存在(種)の本質が現れた段階で、古い種の終わり(概念)と次の新たな
種の始まり(本質)が現れてくる。
しかし、ここには、もう1つの主体が必要である。個々の相互に自立しているように見える存在の外観を壊し、
それらを契機として新たに生まれる全体を目的として、それを実現する主体である。そこで地球上に人間が
生まれ、目的的活動、つまり労働が始まったのである。
人間は、対象の本質から概念への必然的な運動を理解し、自らもその実現のための契機として関わっていく。
それが自由であり、それを担うのが人間である。

人間は他の動物のように意識を持つだけではなく、意識の内的二分による自己意識を持った事で、
過去と現在と未来を総合的にとらえる思考を獲得した。発展の論理を自覚し、必然性を理解し、
概念の実現を目的とした上で労働するようになった。それは最終的には、地球から人類が生まれた意味を
理解し、地球や人間の使命を理解でき、それにふさわしく自然と社会を変革していくことになる。
これが「盲目」の必然性が概念的に把握される自由の実現の過程である。
究極的にはこの地球の運動で実現するものが概念であるが、それを可能にする人間そのものが概念である。
人間はこの内化と外化の統一をまさに体現する。それが「自由」の実現である。それまでの外化の歴史が
結果的に内化、本質の実現を意味していたのに対し、人間はそれを自覚的に行う可能性を得た。
この使命の実現のために、人間は自らの認識能力を高め、自らを変革することを中心に置いた上で、
社会を変革し、自然を変革していかなければならない。

(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
本質論の外的必然性から内的必然性、さらに概念への発展の過程を、私は上記のように理解する。
したがって、「因果関係・相互関係・実体の関係」と「外的必然性・内的必然性」との関係では、
「因果関係・相互関係・実体の関係」を「外的必然性」の内部に位置づけることが正しいと考える。
 したがって、私はヘーゲルの「現実性」を次のように書き直したい。「現実性」の全体は、二部構成で
良いのなら、外的必然性と内的必然性とに二分し、最初の外的必然性の下位形態として実体性と因果性と
相互作用の3つ(第3章の内容)を置く。また、もし三部構成にこだわるのなら、実体(本質)を冒頭に置き、
外的必然性と内的必然性とで三分し、外的必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く。

いずれにしても、牧野がヘーゲルの「現実性」の第3章を核心とし、それに偶然性と必然性(第2章)を
止揚したのに対して、私は第2章こそを中核ととらえ、その第2章の外的必然性の内部に第3章の内容
(実体性と因果性と相互作用)を止揚したいのだ。
牧野が第3章を重視するのは、ヘーゲルの「現実性」の目的を「因果等の必然的関係の証明」にあると考えた
からだし、私は発展の論理と概念の導出が目的だと考えるから、第2章を重視する。牧野が言うように、
因果性と相互作用を「1つのものの2つの部分ないし側面」と理解した時に、「必然的関係」が証明できる。
「全体の契機(モメント)になっている」というありかたこそが、内的必然性の前提になるのはその通りだが、
だからこそ、それは外的必然性の段階ととらえればよいのだと思う。

以上、牧野の『弁証法の弁証法的理解』にある2つの必然性という考えに私見を対置し、
あわせてヘーゲルの「現実性」の改訂についても私見を述べた。

つづく。