6月 24

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の11回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の最終回

■ 目次 ■

終章
 次の課題を明らかにする
 運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
 教師の役割

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終章

次の課題を明らかにする

 私が分析した3つの文章は、その問いや答えが様々な出方をしていた。しかし、文章には基本的には1つの問いがあり、その答えを出そうとしていることが確認できた。川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」は、タイトルがそのまま問いになっていて、分かりやすく、明確だった。それに対する答えも明確で「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というもので川合は文章の中で繰り返し述べているのだった。
 江口江一の「母の死とその後」については一見、2つの問いに分かれているような文章だった。それは「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つだった。それに対応して、答えも母に関するものと、自分に関する内容があるのだった。しかし、2つの問いは実は重なり合っていたのだった。それは江口が亡くなった母と同じ立場(家の責任者)になったことによって、直面している現実が同じになったからだった。
では、佐藤藤三郎はどうかというと、彼の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、大きくは「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」というような問いが根本にはあるのだった。
 興味深いのは、1つの問いに沿って、文章が書かれ、その答えを出すのだが、答えを出したところで終わってしまわないということだ。
 川合末男の文章についていえば、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」という明確な答えは得たのだが、次に自分の課題を良い職業につくこととして書いているのだ。さらに、文章の最後では良い職業とは何かということを既に書き始めてしまっていて、川合はとりあえず警察予備隊を例にして考えたのだった。そして「予備隊は良い職業か」という問いが立ち、そのことを考え始めているのだった。
江口江一についていえば、川合ほど結論そのものが分かりやすくはない。というのは、第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするという、4つに分けたときに、第四の金をためて不自由なしにするということは「ハッキリ間違っている」ことが分かったのだ。第一の水準は達成できるかもしれないが、しかし、第二、第三の課題となると分からないのだった。これでは問いの答えがハッキリ出たとはいえず、当然さらに明確な答えを求めることになると思う。
けれども、私はすでにこの答えの段階で相当の進歩があると思う。それはまず、金をためて不自由なしの家にするなどということが無理だと分かったことだ。自分の限界をしっかりと見極めている。また、同時に課題も明らかになっている。それは第二・第三の水準を目指せるかどうか分からないという問いがすでに生まれているからだ。最後に、4つの水準に分けたことが素晴らしいと思う。「生活は楽になるのか」というややあいまいな問いでなく、例えば「扶助料なしで生活していけるのか」というように問い自体が明確になっていくだろう。
次に、佐藤藤三郎についてだが、「ぼくはこう考える」では文章の中ですでに問いと答えの連続になっている。佐藤は1つ1つのことに逐一問いを持ち、それに対しての意見を提示するということを連続してやっているのだ。分かりやすいところでいえば、「農村の子供たちは何を勉強すればいいのか」→「働くということについて考える土台が必要だ」→「その土台を見に就けるには何が必要か」→「みんなが堂々と学校に通えるようになる必要がある」というような運動が連続して起きている。
1つの問いがあり、その答えを出す運動は同時に、次の課題を明らかにするのである。そこに『山びこ学校』の作文の迫力があると言えるだろう。

運動が連続するような問いはどこから生まれるのか

 答えを求め、さらに次の問いへ移るような運動が起きるだけの強さを持った問いをなぜ彼らは持っていたのだろうか。
 彼らに共通するのは、まず貧しさという問題に直面していることだった。川合と江口に関しては、親の死という契機もあったのだが、根本には貧しさの問題がやはりあった。しかし、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なった。貧しさを解決するため、彼らのテーマが労働にあることも共通している。しかし、労働についてもまた、それぞれ異なる立場にあった。
 最も貧しかったのは江口だ。彼は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだったのだ。働く目的は何と言っても、生きることにあった。しかし、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立ということも求めた。
川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家として生まれながら、農業以外の仕事に追い出されるような状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。
江口と同じように、佐藤も山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。それは佐藤が農家の跡取りとして育てられてきた。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった。その結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。しかし、それは農家の跡取りとして、親とともに一生懸命働いてきたからであり、むしろ労働の中から学問の必要性が生れたと言えるのではないか。しかし、江口のようにあまりにも労働と一体である時には、なかなか佐藤のような考えにならないようだ。江口は労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を他(ここでは学問)と関係付けて考えることはできなかった。
 ここまでで分かるのは人はその置かれている状況、立場によって、課題(問い)が異なるということだ。そして、それを各自進めるしかできないのではないか。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めていることが分かる。しかし、そもそも彼らの直面している問題はまず分かりやすく、厳しく、立場もそれぞれ明確であるから問いが初めから強くあったのだろう。

教師の役割

問いを自覚し、さらに進めて行く上で大きな役割を果たしたのは教師の無着だ。各章で分析した通り、無着の働きかけが3人の問いを進める契機となっている。ここで述べておきたいのは、無着があくまでも教師としての役割を果たしたということだ。
 生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中にあったと思う。生徒たちの直面する貧しさはそれだけ厳しかったし、また作文を書かせれば貧しさの問題がたくさん出てくるのだ。
 しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師としての本分を忘れなかったと思う。それは生徒の成長を進めるという本分だ。佐藤を級長として教育したことを考えてほしい。佐藤は農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーをして育てられたと思う。そういう意味では無着は佐藤に農村の問題を任せたと言えないだろうか。
それもそのはずで、無着はあくまでも学校教員なのだ。出身も寺の生まれなのだ。その無着にとって、本当のテーマはやはり農村の貧しさではなかったのではないか。突き詰めれば、無着は「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。そして、それは全く正しいし、実際無着はそれをやったのだと思う。

<参考文献>
・佐野眞一「遠い『山びこ』」(新潮文庫、2005年)
・無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫、1995年)
・(山元中学校学級文集)「きかんしゃ」5号(1950年)

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6月 23

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の10回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の10回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
川合末男や江口江一との違い
 佐藤の中心の問い、答えは何だったのか
第3節 佐藤の素晴らしさ
働くことと学問
 佐藤藤三郎の立場
 無着と佐藤

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第2節 佐藤の作文の分かりにくさ

川合末男や江口江一との違い

 第1章の「父は何を心配して死んで行ったか」や、第2章の「母の死とその後」では、その文章に表れている問いや、問いの答えを求める運動に注目して分析をした。しかし、実は佐藤藤三郎の「僕はこう考える」はそれがとても難しい。それは、この作文においてとにかく多岐にわたる問いや意見(答え)が連続して立っているからだ。あまりにも問いから答えへの運動が多すぎる。
それは、共産党やそれを語る「屋根ふきさん」についての批判(1)(2)(3)や、働かされて一冊の本を読む時間すらないことについての意見(7)(8)(9)、雑誌や新聞や本や小説についての批判(10)(11)、「働くことが勉強だ」という教師の発言に対する意見(12)、ヤミ炭についての問い(14)(16)、学校教育についての意見(17)(18)(19)(20)(21)(22)、といった内容になる。
 こうなってくると、これまでの第1、2章のように、「問い」、「問いから答え」といった具合の章立てで論じることが難しくなってくる。そこでこの「僕はこう考える」についてはそういう分け方はせずに、論じることとする。
「僕はこう考える」の全体を眺めてみよう。まず、日常を綴った日記のような文章でこの作文は始まっていて、それが(4)まで続く。その次に、自分の家についての説明、特に亡くなった姉のことについて書いていて、それは(5)まで続く。そして(7)のある段落から(22)のある段落までが大きくひとまとまりとなっていて、特にそこにおいて問いや意見が集中していることが分かる。ちなみに、(23)のある段落からはまた、日常を綴る文章に戻っていて、(4)の後の続きとなっている。
「ぼくはこう考える」は、特にその意見文の箇所において、問いや意見が連続しているので迫力を感じるのだが、内容が多岐にわたっていることで逆に佐藤藤三郎が一番悩んでいたことは何なのか、佐藤の中心をなす問いは何なのか、それが分かりにくいのだ。
もちろん、悩みや問いといったものには、一番だとか中心だとかいうものはなくて、それぞれがただバラバラに並んであるだけだという考え方もあると思う。しかし、そんなことがありうるのだろうか。第1章で扱った川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」はそのタイトル自体が問いとしてしっかりと中心にあった。第2章で扱った江口江一の「母の死とその後」では、母親について「あんなに働いてもなぜ暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、自分について「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いの2つが存在していた。しかし、その2つの問いで考えている内容はほぼ1つに重なり合っていたのだった。それでは佐藤の「ぼくはこう考える」はどうなっているのだろうか。川合末男や江口江一の文章との違いをどう考えればよいのだろうか。
問いや意見の出し方についてもこれまでの川合末男や江口江一の文章と異なることが分かる。それは佐藤の問いや意見が個人や自分の家の個別の問題として出されてるのではないことだ。そうではなくて、それぞれの問題を自分の学級全体に共有されるものとして意見を述べているのである。
「私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう」(7)だとか、「私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ」(17)など、佐藤は繰り返し「私たち」という言葉を使っている。もっと、ハッキリと「私たちの学級には」(18)と述べられている箇所もある。佐藤のいう「私たち」というのは、無着学級のみんな、という意味だろう。もともと「僕はこう考える」は本になる予定で書かれたものではなく、クラスメイトと無着が読者だった。
もっとハッキリするのは、「私たちのような山の子供たち」「年中労働にかりたてられている子供たち」(10)といった表現だ。つまり佐藤は自分個別の問題としてでなく、無着学級全体に共有されるような問題として問いや意見を出しているのだが、その無着学級で想定されるのは「農村の貧しい子供たち」ということだったようだ。
ここまで、佐藤の問いや意見の内容が多岐にわたっていて中心が分かりにくいこと、またそれらの問いや意見は「農村の貧しい子供たち」全体のこととして表現されていることを確認した。一体佐藤が最も悩んでいたこと、直面していた問題は何だったのだろうか。彼の問いはどういう事実から始まっているのだろうか。また、なぜ無着学級全体に共有される問題として問いや意見を述べているのか、そういうことについても考えて行きたい。
 

佐藤の中心の問い、答えは何だったのか

 まず、佐藤の一番考えていたこと、核となるような問いは何だったのだろうか。そもそも核となる問いがあるのだろうか。そういうことについて考えたい。そこで問いや意見の集中している(7)の段落から(22)の段落までに絞って詳しく見ていく。
するとまず、「(農村のくらしは)よくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていない」ということ、そしてそれに対する意見から始まることが分かる。本を読む時間すらないのでは、「私たち」、つまり農村の人々は貧しいままだという批判は「だろう」「だろう」「だろう」というふうにたたみかけるように述べられている(7)(8)(9)。そもそも、この作文自体は本を読もうとするたびに働かされて読むことがかなわない日常を綴っているところから始まっている。意見文がそのことから始まるのも納得がいく。
続いて、本を読んだとしても、あらゆる雑誌、新聞、本、小説にいたるまで、ほとんど「私たち」、つまり「山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たち」のことと関わりのない内容ばかりであることを批判している(10)。ここで注目すべきなのは、「私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか」という批判の仕方だ。これは別の見方をすれば、自分達が「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問いを佐藤が持っていたことを表わしていると思う。
その問いは「働くことが勉強だ。」という先生の発言に対する疑問、批判(12)につながっていると思う。佐藤は働くだけではなくて、「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要だと主張するのだが、これは自分達に必要な勉強は何なのかということを語っているのだ。「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問い(10)に、「『働く』ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか」という意見(12)は答えとして対応している。
続いて、その働くということについての考えられる土台とはどういうものなのか、ヤミ炭の問題を例として説明している。この説明はとても自分が分かっていることと分からないことが明確で、「働くことが勉強だ」ということについては「わかっている」「わかる」「わかったのだ」(13)と繰り返している。ところがそれではなぜヤミ炭をしなきゃいけないかが分からないのだ。
「働くことが勉強」を佐藤は実際やってきたわけだが、それだけではヤミ炭の問題はどうしても分からないわけだ(14)。そこで、なぜヤミ炭をやらざるをえないのかということを、佐藤は中学校で「先生と計算」(15)したりして実際に考えているところがまっとうだと思う。
そこで佐藤はヤミ炭という問題を考えることができるような、つまり「働く」ということについて考えられる土台というのを作るために、まずは「私たち」、つまり農村の子供たちが全員毎日学校に来れるようにするべきだという意見に至る(17)。佐藤は働かされて本を読む暇さえないと言っていたが、佐藤の学級には満足に学校に来ることすら叶わない生徒がたくさんいたのだ。
ここから後は、同じように学校教育への意見が続き。最後は「こういう問題は誰が解決するんだろう」(22)という問いで終わる。そこで佐藤が立派なのは、「学校はどのくらい金がかかるものか」という別の文章で実際に学校の予算にどのくらい必要かなどを調べたことだ。その文章は『山びこ学校』に収められている。
ここまで詳しく読んできたが、どうやら矢継ぎ早に提示されている問いや意見はどうやらバラバラなものではなく、1つの連関の中のあるように思える。この文章においては、働くための土台が必要だという主張が佐藤の文章の中心としてあるように思える。
その主張は、農村の子供たちはどんなことを勉強すればよいのかという問いに対する答えであり、ヤミ炭の問題は「働くための土台」を説明する具体例であったし、学校は「土台を作る」ための手段として位置付けられているし、本を読む時間がないのも「土台を作る」ことができないことができないから批判しているのではないだろうか。本当にそこまで言えるかどうかは分からないが、この作文が何か1つのテーマのもとにあるということは確認できるのではないだろうか。大きくは「農村が貧しさから抜け出すためにはどうすればよいのか」という問いになるのだろう。

第3節 佐藤の素晴らしさ

働くことと学問

 佐藤はただ働くだけではダメで、「働くための土台」が必要だと主張し、「働くことが勉強だ」という無着の発言を批判している。ここまで強く、無着を批判しているのは佐藤の他にいない。
 また、批判の内容は当たっているのではないだろうか。炭焼きという仕事を例に挙げれば、炭を焼くこと自体は炭を実際に焼いてみて、研究はしているのだ。しかし、その炭をヤミで売らなければならない理由はやはり分からないのだ。無着と一緒に計算をし、ヤミで売らなければ原価割れすることは分かったのだが、では「なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)」ということは分からないのだ。
 つまり、目の前の現実をただ見つめるだけではやはり分からないことはあるのではないだろうか。そこで佐藤藤三郎は学問の必要性を強く自覚していることに驚かされる。佐藤は本当に学問を必要としている。佐藤ほど強く学問への意欲を文章で表現している生徒はいない。そこまで気付けたのであれば、佐藤は学問をやらなければいけないと思う。実際に佐藤は中学卒業後、高校に進むことになる。
 佐藤はなぜ学問の必要性に気付けたのだろうか。それは1つには労働に深くかかわっていたからだろう。つまり、佐藤も他の生徒たちと同じように、家ではすでに労働者だったのだ。それだけではない。佐藤の場合、農家の跡取りとして育てられたのだ。それだけ農業に対する取り組み方も深かったのではないか。『山びこ学校』所収の「すみやき日記」という別の作文には、佐藤が父親と一緒に炭焼き用の窯を作りながら仕事を教わっていく過程が描かれている。
 山元中学を卒業して高校に進学したのは佐藤を含めて4名だった。その中で農家の跡取りとして育てられた佐藤から学問への強い意欲が生れたことには意味があるだろう。他の3名は、農家の生まれの川合義憲、村長の孫で財産家に育った横戸惣重と、教員の息子の川合貞義だ。その中でも農家の生まれでなく、経済的に余裕のある横戸と川合貞義からはそもそも差し迫った村の問題が出てこない。佐藤が強い学問への意欲を持つようになったことには、まず貧しさという問題が目の前にあり、さらに跡取りとして育てられたために貧しさに対する関わり方が強かったからではないだろうか。
 しかし、それではなぜ他の農家の跡取りから佐藤のような学問の意欲が出てこなかったのだろうか。そのことは佐藤が目の前の問題を「私たち」などといって、学級全体の問題として捉えたことと関係する。

佐藤藤三郎の立場

 なぜ佐藤は「私たち」などといって、学級全体のこととして問題を捉えたのだろうか。
佐藤は農家の生まれだ。それも跡取りとして育てられた。子どもの頃から農業従事者として働いていたが、卒業後の進路もやはり農業従事者となるわけである。そういう意味では、佐藤がヤミ炭や学校教育の問題を農村全体の問題として取り上げたのは当たり前とも言える。しかし、川合末男や江口江一にしても農家の生まれであるし、特に江口はすでに農家の一家の責任者となっていた。それではなぜ佐藤は農村全体の問題として取り上げることができたのだろうか。
 それは、経済的に佐藤の家が無着学級の中で「中よりも上」の家だったからだろう。佐藤の家は過去に女工にうられた姉が亡くなったりはしているが、一応両親も存命で働いていたし、川合や江口よりは金銭的に余裕のある家だった。もちろん山元村全体が貧しく、「中より上」の佐藤の家も貧しくはあったのだが、川合や特に江口の家と比べるとまだ余裕があったのである。特に江口の家は生きていけるかどうかギリギリの水準だったが、佐藤は高校にも進んでいる。江口などはとりあえず、自分が生きて行くことで精一杯で周りを考える余裕はほとんどなかったのだと思う。それに対して佐藤はまだ農村全体を考える余裕があったのだ。
 無着学級の卒業生42名から高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だった。しかし、そのうち2人は山元村の一般的な農家ではなかった。祖父が村長だった横戸惣重は財産家の出身で、川合貞義は父親が教員をしていて裕福な家だったのだ。川合義憲と佐藤藤三郎は、農村である山元村の一般的だったヤミ炭のような貧しさの問題に直面していて、他方では何とか高校に行けるだけの経済的な余裕はあったのだった。佐藤が農村の貧しさを学級の生徒と共有しながら、そのリーダー的な立場に立ったのには、そういう背景があった。
 農家の中でも佐藤が学問の必要性にまで気付けたのも、経済的な余裕が関係あるだろう。例えば、江口江一に学問をやる余裕が実際にあるだろうか。実は江口にしても、作文の最後で「お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、37頁)」と学問の必要に気付いてるような表現があるのだが、佐藤ほどの強さはない。また、農村全体の貧しさとまで捉えられてもいない。それは仕方ないと思う。江口はとりあえず一生懸命生きて行くだけで精一杯なのだ。その江口に学問を求めることはできないだろう。

無着と佐藤

 先に、佐藤ほど強く無着を批判している生徒はいないと述べた。それは「働くことが勉強だ」ということに対して、「働くことを考える土台」が必要だと批判したのだった。しかし、佐藤と無着が全く疎遠であるということではない。むしろ佐藤と無着の間には響き合うところがたくさんあったのだと思う。
 そもそも、無着が佐藤を級長にしたことをどう考えたらよいのだろうか。それは無着が佐藤を最も高く評価していたということではないか。また、『山びこ学校』に「学校がどのくらい金がかかるものか」という調査報告文があるが、無着はその班長も佐藤にやらせ、組織させている。他にも、学級文集「きかんしゃ」において度々編集を佐藤に任せている。この作文に佐藤が無着と一緒に炭の原価や売値の計算をやったとも書いている。無着は佐藤にかなり多くの課題を与えていたのだろう。
 先ほど、佐藤がリーダー的立場に立ったのは、農家の出身でありながら経済的に比較的余裕があったことが背景だと述べた。しかし、それだけではなく、無着が級長にしたことによって、よりリーダー的な立場、農村全体を考える視点を自覚し、「私たち」などという表現に至ったのではないだろうか。また、佐藤を級長にし、様々な課題を任せたのは、無着が意識的にリーダーを育てようとしたと考えられないだろうか。その佐藤が学問の必要性を強く自覚するまでに至ったことは、無着の意図が成功していることを意味しないだろうか。
 佐藤にしても、作文の中では無着を批判しているが、当然尊敬していたと思う。卒業式の答辞で「私たちは、はっきりいいます。私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、298頁)。」と述べている。また、尊敬していなければ、無着の教育に応え数々の文章を書かなかっただろう。尊敬している無着だからこそ本気で文章を書いたのではないだろうか。
 佐藤が無着を尊敬し、無着も佐藤のことを認め、級長という立場を与え、様々な課題を与え、成長を促した。特別に優れている人間はそういう中で生まれてくるのではないだろうか。教師は生徒の能力や意欲に応じた要求をしていくべきではないだろうか。もしも、無着がどの生徒にも一律に同じ課題を与えるなどということをしていたら、佐藤はここまで成長できなかったのではないだろうか。

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6月 22

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の9回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の9回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第1節 「ぼくはこう考える」

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第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」

第1節 「ぼくはこう考える」

 第3章では、佐藤藤三郎の書いた「ぼくはこう考える」を扱う。佐藤藤三郎は農家の生まれで、女7人男2人の9人兄弟の7番目の生まれだ。作文に書かれているが、彼の家は山元村の中では特別貧しい方ではなく「中より上」だったという。佐藤藤三郎は次男だったのだが、跡取りとして育てられた。長男が小さい頃に亡くなっていたのだ。この作文が書かれたのは、1949年の8月で、佐藤は中学2年生だった。
佐藤藤三郎は無着学級の代表的な人物だった。まず、当時彼は学級の級長を務めていた。また、『山びこ学校』の中には佐藤の文章が多く収められている。この論文で扱う「ぼくはこう考える」以外にも、「すみやき日記」や彼が班長として書いた「学校はどのくらい金がかかるものか」など文量としても生徒の中では相当多い方だ。中学校の卒業式の「答辞」も佐藤は務めていて、それも『山びこ学校』に文章として収められている。また、佐藤は卒業生の中では珍しく高校に進学している。上山農業高校(定時制)に進んだ。山元中学校卒業生42名のうち、高校に進学したのは4人だけだ。
それでは以下で本文を引用する。引用の仕方は、第1、2章を引き継いでいる。

ぼくはこう考える
佐藤(さとう)藤(とう)三郎(ざぶろう)
(前略)
 昼食後、いろりばたにどっかりあぐらをかいて、屋根ふきさんのいつも語る農民組合の話を聞いていた。それは「農民組合のことで山形に行き、共産党の本部へついでに寄ったら、長岡から『入党したらどうだ。相談ばかり来て、はいらねっずぁあんまえな((ということはあるまいな))(ということはあるまいな)』とすすめられた。」ということである。そして、「入りたいには入りたいのだが、帰ってから村の人からきらわれるといけないから『まず、いますこし考えてみてからだ』といって帰ってきた」ということ。そして最後に「やっぱり共産党でなければならない。」というのだった。
 しかし、私は本当にそうなのかわからなかった。【本当に共産党がよいのなら、屋根ふきさんが「村の人あどう思うか」などと考えずに、はいるべきなのではないだろうか(1)】。私は子供だからだまって聞いていたが、次には疑問がおこってきた。
たとえば小白府の方で横戸了(さとる)(さとる)氏の未墾地を開墾させてもらうようにお願いしたところが、横戸氏は許さなかった。だから県の農地課へ行って願った。そして全部かな((叶))(叶)った。そのとき意地で、いらない土地でも書類を作って願ったというのである。【いったい共産党は意地で党を持っているのであろうか(2)】。しかし、私は、まだ「意地だ」ということだけならたいして問題でもないのだが、【横戸氏の場合は「意地」だけでなく「自分だけよければ他人はどうなってもよい」というような気持があるが、この屋根ふきさんにはないのか(3)】?
 とにかく私は「今のうち本を読んで、みっしり勉強しておかないと、今にこの屋根ふきさんみたいに、気持ちの小さい人間になってしまうぞ。」と思い、「午後こそ山に行かないで目的の本を読んでやろう。」と考えて、そっとうつえん((内縁側))(内縁側)に行ってねむったふりをしていた。
 五分もたったろうか、「ヤロ、ヤロ。」と三、四回ほどよんで「アマガリ((地名))(地名)さだ。」といって、父はむしろをばさりと背負って、母に「よこせよ」と言い捨てて出て行った。「ヤロ」と呼ばれたとき、【私は「もうダメだ」と思うと身体がじいんと痛んできた(4)】。
私たち四十三人の学級で、私の家のくらしはそう悪い方ではない、中よりもよい方だ。
考えてみると、これで昔からくらべてみればよくなっているんだ。第一、父が私の家にむこに来たとき、なんにもないのでたまげた((驚いた))(驚いた)というではないか。もちろんないことは承知で、ただ一人娘にだから、やっかいがなくてよい、といって向うでもくれたのだそうだが、こんなにないとはまさか思わなかったのかも知れない。
だから一番大きい姉ちゃんは小学校を卒業すると和歌山の紡績工場へ、募集人からよいことを語られて、どうせこんなびんぼうの中にくるしんでいるよりは、工場へでも行った方がよっぽど幸福だと考えて、親はあんまり遠いのでゆるさなかったがびりびり((むりやり))(むりやり)いやそればかりではない。もう一つの理由は、祖父の妹が子供を持たないので、それにもらわれるのがいやだということだ。いつも母は私たちにかたってきかせることだが「ンぐどぎあ((行くときは))(行くときは)ンぐンぐ((行く行く))(行く行く)いって、あとからやんだぐなたみた((いやになったような))(いやになったような)ことばかり手紙よこすっけまなは((よこしたものだ))(よこしたものだ)」と。そして行ってから半年もたつだろうか。水があわなくてはらをわるくしたという手紙がきて、まもなく病気になって家へ帰ったのだ。その時は蚕が四つ((四齢))(四齢)におきて、忙しい最中だった。だから病人もおちついてねていられず、かいこのあとたて((除糞))(除糞)したり、くわかせ((桑食わせ))(桑食わせ)したりしたもので身体はがおる((よわる))(よわる)ばかり、強くなるものは病気だけだった。
そこで金井の横山医院に入院した。もうその時は、あつかうのは、ばんちゃんが一人ではまにあわなくなり、おばちゃんのばんちゃをもたのんで二人であつかった。
だが、いくらたっても病気はわるくなるばかりで、「医者がえしてみろは((かえてみてはよう))(かえてみてはよう)」というので、今度は山形の至誠堂病院にうつったのだった。だが、よくなるどころが、かえってわるくなるばかりだった。
そしてその年の秋もすぎるころ、とうとう腸結核で死んでしまった。その時は十九歳であった。この時は私は四歳の時であったそうだ。母と病院に行って姉ちゃんがせがめっつら((しかめつら))(しかめつら)をしてねていた顔、それが私の姉ちゃんの記憶だ。
こうして女工にうられたのも私の姉ちゃんだけではない。すこしくらしのわるいような家へ行って募集人がすすめたもので、この年頃の娘は大体みんなかわれたのだった。母は「いっぱえ((たくさん))(たくさん)行ったんだげんども((のだけれど))(のだけれども)、みな病気したわけでないから、身体よわかったんだベな((だろう))(だろう)。」とあきらめている。
以上が私が四歳のころのことだが、このことは家の人がいつもかたるのでよくおぼえている。ときどき私たちがちょっと仕事をいいつけられてきかなかったりすると、じき「がきぴらいっぱえ((子供らがたくさん))えっど((いるが))かしぐもんでない((かせごうとしない))(子供らがたくさんいるがかせごうとしない)。トヨノばなの((などは))(などは)めちゃこえ((小さい))(小さい)ときから子守なの((など))(など)させて、おこさま((お蚕様))(お蚕様)のときなど赤んぼおぶって『いいがは((もういいでしょう))(もういいでしょう)、いいがは』てえっけあ((といっていたよ))(といっていたよ)、もつこえったら((かわいそうだったことよ))(かわいそうだったことよ)、もつこえったら」といわれると、なんだかほんとにもつこえ((かわいそうな))(かわいそうな)ような、【ごしゃける((腹が立つ))(腹が立つ)ような気がする(5)】。
ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だが【そんなよくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていないのだ(6)】。【これでは私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう(7)】。【そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう(8)】。【そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう(9)】。
あらゆる少年雑誌を見よ!
あらゆる少年新聞を見よ!
あらゆる本を見よ!
それがどうであるというのだ!
そこにはまったく一日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強があるだけで、【私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか(10)】!
【私が今までよんだ小説だってほとんどそうだ(11)】。ただ国分一太郎の『少し昔のはなし』と、徳永直の『はたらく一家』だけが、勉強しようと思っても家が貧乏でできないことが書いてあっただけだ。そこにあらわれた子供たちは、私たちよりもっともっとひどい生活をしていたような気がする。しかし、【先生にいわせると「働くことが勉強だ。」という。おれには、それがどうしてものみこめないのだ。それがほんとうになるためには「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか(12)】。たとえば【炭を上手にやくことを研究しなければならないことはわかっている。その研究はやいてみなければわからないこともわかる。それは炭をやいてみて、炭やきはむずかしいことがわかったのだ(13)】。【ところがそんなになんぎしてやいた炭を、なぜ父や母がヤミで売ろうとするのだろうか(14)】、ここに問題がおこってくる。
ただ馬鹿かせぎしてもだめだという問題だ。なぜかというと、炭をヤミで売らず公定で供出したりすると、まにあわないということがおこってくるからだ。
この間、【先生と計算したら(15)】一俵(四貫)の炭をつくるのになんとしても百八十八円十銭かかるのだ。それを公定で組合に出せば、楢の上等で百五十円、並であれは百二十円である。だから百八十八円十銭よりは並が六十八円も安いのだ。それに、木も全部楢だけであればよいのだが、そうばかりでもない。山代も雑木だからといって安いわけでもないのだ。それに雑炭といえば百二円という安さだ。これではいくら「ヤミをするな」といわれたって、しないでは生活が出来ないのだ(21)。では、ヤミはどのぐらいしたかといえば、二百円くらいで、これがようやく手間になるようだ。いや、それよりも高いものがないから、それぐらいでがまんせねばならないのだ。しかし全部ヤミで売るわけにもいかない。大体全部が供出でヤミはわずかなものなのだ。ヤミ炭を買う人だって金持だけで、びんぼうな人はヤミでは買えず、困っているのだ。
【なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)】。こんなことを、【そしてその土台を作る一番最初の仕事は、私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ(17)】。学校がたのしくないとすれば原因を考えねばならない。もしもそれが私たち生徒同志のきまずい感情が原因だったり、先生がビンタを張るなどという問題だとすれば、自治会で簡単にかたづくし、私たちの学級にはそんなことは全然ないのだ。とすれば何だろう。それは教科書代金などを早くもってこい、早くもってこい、などとあまり催促されて、つぎの日から金が工面つくまで学校を休んで、材木ひっぱりなんかするなどということ、家で「学校なの休んで手伝え」といってびりびり学校を休ませること、などだ。
【政府では、義務教育を三年のばすとそれだけ実力がつくと思っているのだろうか(18)】。【三年のばしただけで私たちは、親からブツブツ云われ、かせがせられて、そのあい間をみつけて学校にはしって行かなければならない、ということは、いったいどういうことなんだろう(19)】。
【ほんとに、学校教育がすばらしくなるというのは、どんな貧乏人の子供でもその親たちにさっぱり気がねしないでくることができるようになったときでないだろうか(20)。こういう問題はいったいだれが解決するんだろう(21)】。
こんなことを考えながらみのを着ようとして背中にやったら、三年の昇君が得意の流行歌を歌って、鎌をふりふり山へ行くところだ。それを見て「昇君だ((なんかは))(なんかは)いいものだ。何も考えずにただ『おらえの((うちの))(うちの)昇あ、かしぐまあ((はたらくよ))(はたらくよ)』とほめられるのをたのしんでいることが出来て……」と思った。が「【そういう考えは、生活について考えるのに正しい方法だろうか(22)】」と疑問がすぐおこってきた。
(後略)

(一九四九年八月二八日)
         (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、151-159頁)

以上で引用を終わり、第2節へ移る。

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6月 21

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の8回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の8回目

■ 目次 ■

第2章 江口江一「母の死とその後」
第3節 問いから答えへ
分かることと、分からないことの区別
家計の計算
 事実に対する姿勢
第4節 次の課題へ
一風変わった決意表明
 江口の働く目的

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第3節 問いから答えへ

分かることと、分からないことの区別

 江口は母の死や直面していた貧しさに対する問いがあり、またその死によって自らが家の責任者という立場に立ち、これからの生活に対する問いも同時に抱くようになった。それではそれらの答えはそれぞれ何だったのだろうか。どれだけ考えを進めることができたのだろうか。
江口は「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という母親についての問いに対して、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31) という答えがある。ここでは貧しさの責任を母の働きと、その働く条件という2つに分けて考えることが出来ている。そしてその条件の方に原因があるとした。
次に、自分の将来の生活は楽になるのかという問い(21)(23)(24)に対しては、「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです」(29)、「だから『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです」(30)、「だから今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32)が答えとなっている。
これらの答えについて比べてみると、明確な答えが出ているものと、あいまいなものがある。例えば、(30)についてはかなり明確な答えとなっているが、(31)と(32)はそれに比べるとあいまいだ。さらにいうと、(29)についてはどう考えたらいいのだろうか。これも一応答えとしていいと思う。「わからない」ということが分かるようになっているからである。
 ここからは特に(29)と(30)の答えを詳しく考える。まず、(30)は明確だ。明確に分かったと結論づけている。逆に、(29)では「さっぱりわからなくなってしまう」と分からないままの疑問となっている。実は(29)は3つの内容に分かれていて、(30)と合わせると4つの課題に分けることができる。第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするということ。この4つに分けられる。これは、生活水準の程度で順序づけられていて、1つ目のように、生きていくギリギリのレベルから、4つ目のような経済的に余裕のあるレベルに並べられている。
家計を計算することで、1つ目のレベルは達成できるかもしれないことが分かり、4つ目のようなことは「ハッキリまちがっている」ことが分かったのだ。そして、2つ目、3つ目の水準に達成できるのか、それともできないかは分からないでいる。2つ目、3つ目が分からないことが悪いことなのだろうか。別の見方をすれば、分かることと、分からないことの区別がハッキリしたとも言えるのではないか。それはそれで前進したと言えるのではないか。
他にも、(31)では貧しさの責任が母親の働きにないことが分かり、母親の働いていた条件に無理があったのではないかという問いが立っている。この作文における答えとは、何かを分かることだけでなく、分からないことが何かを明確にすることでもあるのだ。

家計の計算

 それではなぜ川合は答えを出すことができたのだろうか。母が直面した貧しさの理由の答えを一応出せた。また、自分のこれからの課題を4つに順序立てて区別し、分かることと、分からないことを明らかにできたのはなぜだろうか。問いから答えを求める過程で何が起きているだろうか。
 そこで江口は「4 考えていること」において、家計の計算をしている。その計算内容は大きく2つにわけることができる。1つには、母が五人家族を支えていた頃の家計。もう1つは、これから江口江一と祖母が2人になった場合の家計の予測計算だ。ここではあくまでも概算で計算している。それはデータがなかったからだ。会計簿があれば、どう考えればいいか分かるはず、と江口はデータを欲しがっているが(27)、本来のデータの目的が、将来を決定するための材料であることが確認できる。データを必要とするのは、これからどうするのかを考えたい人なのだ。しかし、データがなく、概算だったとはいえ、江口は出来る範囲で最大限詳しく計算していると思う。そこでは多くの具体的な数字が並び、読んでいる方からすると少ししつこく感じるくらいだが、江口にとってはこれでも足りないくらいだったろう。
 母親の生前である昭和23年の収支では、米代だけで支出は22500円かかるのだ。またすでに借金もいくらかあったようだ。それに対して、主な収入としては村からの扶助料が13000円、それに10000円前後の葉煙草の収入が加わるだけなのだ。実際には米代以外にも出費はかさむはずだ。にもかかわらず母は借金を何とか7000円で食いとめたのだ。
 家の責任者としてどうしたらよいのか何も分からない不安があった江口にとって(14)、とりあえず、収入がいくらどれだけあるのか、支出がどのくらいかかるのかといったことが、まず必要な情報だったのだろう。そこで母親の時代の家計の計算をしたのは、自分のためでもあった。まだ江口には現状を考えるための経験がなかったのだ。母親が生きていた頃の家計を参考にせざるを得なかったともいえる。母親は同じ立場の先達でもあり、そのデータ、過去に学んだのだ。そういう意味では、江口にとって、母親は自分のことを考えるための材料であった。しかし実際には同時に母の偉大さを再確認していて(28)、母自体への理解が進んでいることもわかる。
 これからの生活の家計も江口は計算した。江口は兄弟と離れ離れになり、祖母と2人で生活していくわけだが、支出としては、米代だけで1ヶ月に930円、税金が230円、その他加えて2500円か2600円は必要になる予測をした。米代と税金しか支出がハッキリわからないのは、江口にデータがないからである。支出に対して、収入は扶助料が月に1700円、葉煙草の収入が800円となる。収支はちょうどギリギリのラインだ。
この答えを受けて、江口が教師の無着に出した6つの計画は否定されることになる(32)。6つの計画のうち、特に4項目目の「それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい」という計画は、ハッキリと否定されるのだった(30)。6つの計画には現実離れしていたところがあったのだろう。ここで言いたいのは、厳しい貧しさの中にあった江口でさえ、一度はそういう現実離れした計画を出してしまったということである。この事実は、人がいかに現状を把握することが難しいかを物語っていると思う。そこで家計の計算が果たしている役割は小さくないだろう。また、やはり無着成恭が江口にとりあえず計画を出させたということも重要だったのではないだろうか。やや現実離れしたものであってもとりあえず計画を出したことで、江口はその反省をし、実際の家計を計算し、自分の現状を理解することができたのではないだろうか。

事実に対する姿勢

母への理解という点では、印象的なのが死ぬ間際の笑顔についての深まりが起きている点だ。江口は母の死ぬ間際の笑顔が今までと違うような気がしていて、「あたまにこびりついている」というくらい強く印象に残っていた。そして、今までの笑顔は「泣くかわりに笑ったのだ」と思うようになったのだった。ここでは作文に明確な問いが立っているわけではないが、漠然とした問いが江口の中にはあり、一応の答えを出していると言えるのではないか。このことをどう考えたらいいのだろうか。江口は家計の計算を行い、貧しさの理由の答えを一応出したわけだが、そのことと母の笑顔に対する理解の深まりはどういう関係にあるのか。
それは母に対する理解が、貧しさに対する理解とつながっているということだと思う。家計を計算した答えがそのまま母親の笑顔に対する答えにはならないが、それらは別々に起こるような変化ではないのではないか。
また、家計を計算したことも含めて私がこの作文に読みとるのは事実に対する切実な姿勢だ。
次に触れるのは、「2 母の死」において、母親が入院してから、その死に至るまでの説明をしている部分だ。その部分で「日付」を連続して書いていることに私は注目した。「お母さんが死ぬ前の日、十一月十一日」(31)「忘れもしない十一月十三日」(32)「昭和二十三年の三月」(33)「まる一年と六カ月たった今年の九月」(34)「十月」(35)「十一月二日」(36)「十一月八日」(37)「十一月十三日」(38)「十五日」(39)と、江口は逐一、日付を文章に提示するのだ。母親の死をどう理解するのかというのが、江口の問いとしてあると思う。その母親の死に至るまでのことを書くときに、徹底的に日付を抑えていったわけだ。これは、まず事実何があったかを整理しようとしたのではないだろうか。何とか確かな事実に食らいつこうとしている江口を読みとることができると思う。
 それから「1 僕の家」においては、自分の置かれている状況を端的に説明している。状況とは、自分の家が貧乏であること、母親が亡くなったこと、兄弟と離れ離れになること、祖母と二人暮らしになることだ。そういった事実を、「1 僕の家」において江口は1つずつ抑えている。
 江口はこの文章を通じて、ずっと自分の状況や母が死ぬまでのことなどの事実を抑えるということを徹底して行っている。家計計算などもその表れだが、根本には事実への切実な欲求があり、なんとか食らいつこうとする姿勢を読みとることができる。事実への切実な欲求が強いことは、問いが強いということを意味するだろう。問いの強さがあり、事実への切実な欲求の結果として、母への理解の深まりや自分の状況の明確化をすることができたのだろう。しかし、逆にいえば母や江口自身が置かれた状況がその問いの強さを生んだとも言える。

第4節 次の課題へ

一風変わった決意表明

 江口は分かることと分からないことを区別し、課題をより明確にすることができた。答えを出すことが、同時に次の問いを明確にすることなのである。
そのことに関係して、この作文が一風変わった決意表明で終わっていることに注目したい。それは決意表明が問いになっていることだ。1つには、「お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。」という問いがある。この問いについては作文において家計の計算などをして一応の答えを出したのだが、それだけでは江口の中の問いがまだまだ終わらないことを示している。ここでは、「勉強」という言葉を使っているが、貧しさの問題が家計の計算だけでは解決できないこと、そこに学問が必要なことに江口が気付いているようにも思える。
もう1つ、江口は「私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。」とも書いている。やはりこの問いも江口はずっと気にしているようである。
決意表明において、結論めいたことを言わず、問いで終わっているとはどういうことだろうか。それは江口の問いがこの作文を書いただけではとうてい終われないだけの問いの強さを持っているということだろう。江口の問いはここで安易に終わらせられるようなものではなく、これからも考え続けていくことなのだ。この「母の死とその後」という作文は、江口の問いに対する答えを考える1つの過程に過ぎないということだ。過程に過ぎないが、江口が現状を正しく把握し、課題を明確にする大事な1つの過程だ。

江口の働く目的

 江口の明らかにした課題は、何を目標に働くかについての課題であると思う。江口江一にとって、働く目的は何といっても経済的な理由だった。何と言っても生きるために収入が必要だった。江口が一生懸命働いて、ようやく生きていくギリギリの生活ができるそうなことが家計を計算した上で分かった。本当に生きて行くことだけであれば、何とかなりそうではあった。しかし、江口には村からの扶助料なしで生活していきたいという希望があった。そのことが課題(問い)として残されたのだった。
江口は無着に提出した目標の中で、「羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい」と書いている。江口からすれば、扶助料をもらって生活している自分は人間ではなく羊なのだ。江口が働く理由として金銭面があるが、その内まず生きるための最低限の収入が挙げられるが、その上で扶助料なしで生活していくこと、つまり経済的自立ということを求めていたのだ。
 なぜ江口が経済的自立を求めたかと言えば、そこには母親の影響がある。江口の母親は村から扶助料をもらって生活していることを恥じていた。そもそも、収入が足りないにもかかわらず初めは扶助料をもらおうとしなかったのだ。ようやく扶助料をもらうようになっても、子どもには「おらえの((わたしの))(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と教えた。病気にかかった時に扶助料をもらっている人の医療費が無料だと知らずに治療が遅れてしまったのも、江口の母の中には周囲に経済的に依存するという発想がなかったからではないだろうか。

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6月 20

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の7回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の7回目

■ 目次 ■

第2章 江口江一「母の死とその後」
第2節 2つの問い
2つの問いが立っている
 2つの問いはどこから生まれてきたのか

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第2節 2つの問い

2つの問いが立っている

 江口の問いは何だったのだろうか。文章を見てみると、江口に大きく2つの問いが立っていることが分かる。
まず、「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」(19)という、母親についての問いがある。しかし、もう一方では「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」(23)、「第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです」(24)という、明らかに江口自身のこれからの生活についての問いも立っているのだ。「自分がそんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうか」(21)という問いについても、すぐに上記の(23)の問いに言い換えているから、同じくこれからの自分の生活への不安から出た問いと言えるだろう。大きく見て、1つの文章の中に問いが2つ立っているのだ。つまり、亡くなった母親についての問いと(19)、自分の将来に関する問いだ(21)(23)(24)。
問いが2つあることに対応して、答えも2つある。母親については、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31) という答えがある。また、自分の将来についても「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです」(29)、「だから『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです」(30)、「だから今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32) といった答えが出ている。
問いから答えを出す根拠についても、「4 考えていること」において、母がいた頃の家計の収支の計算をしている一方で、これから自分が家の責任者となり祖母と2人になった場合の収支の計算もやっている。それもそれぞれが相当詳しく具体的に計算されているのだ。
他にも、この作文の冒頭で「お母さんのことや家のことなど考えられてなりません」(2)のように述べられていて、江口が母親のことと、「家のこと」について、2つ同時に悩んでいることが確認できる。本文中では「家のこと」とあるが、江口が家の責任者になったので「家のこと」は「自分のこと」と言い換えていいだろう。
もう少し細かいところを見ても、母親の暮らしがなぜ楽にならなかったのか「不思議でならない」(20)と言っている一方で、自分の将来の暮らしは楽になるのかについても「心配で心配で」ならないと述べている。つまり、1つの文章の中にある2つの問いは、どちらも中心となる強さのある問いのようだ。そんなことがありうるのだろうか。
ちなみに、「第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです」(25)ということも問いとして挙げられているのだが、「第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます」(26)というように、この作文では考えられていない。それもそのはずで、江口の貧しさを考えれば他人のことまで考える余裕などなかったのは当然だろう。むしろ、江口ほどの貧しさの中にいた人間から、他人に配慮する問いが出てくることだけでも驚かされる。
それがどこから出てきた問いなのか、この作文だけでは分からない。その問いは提示されただけで考えられていないのだから推測しかできない。当時の山元村では田を買うことによって他の村人が困るようなことが実際に起きていたのだろうか。江口の他人を配慮する問いは親や村の大人たちの影響だったのか、あるいは無着の指導か。学級でそういう問題についても討論しあっていたのだろうか。
いずれにせよ、この作文を書いた時の江口にとっては、最重要の疑問ではなかったようだ。やはり、中心は母親のこと、そしてこれからの自分の生活のことの2つであった。それでは1つの文章の中に、最重要の問いが2つあるとは一体どういうことだろうか。

2つの問いはどこから生まれてきたのか

2つの問いが同時に起きるとはどういうことかを探るために、そもそも、それぞれの問いがなぜ生まれたのかということを考えていきたい。
まず、母親についての問いだ。それは「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いだが、何といっても一番大きかったのは母親の死だろう。「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いは、頑張って働いた母親がなぜ死ななければいけなかったのか、という問いに言い換えられると思う。なぜなら「暮しがらくにならなかった」ゆえに、母親は死ななければならなかったからだ。
中学生の江口江一にとって、親の死以上に大きな喪失があるだろうか。表現においても、「僕のお母さん」「僕のお母さん」「僕のお母さん」と繰り返しているところなど(18)、母への強い思いが感じられる。しかも、江口の父親はすでにずっと前に亡くなっているのだ。たった1人の親である母が亡くなれば、江口は両親ともに亡くすことになるのだ。しかも、江口江一は長男だったので両親が亡くなれば家の責任者になるのだ。母の死は江口にとってそれだけ重い意味があり、そこに強い問いが起きることも頷ける。
ではなぜ江口の母が死ななければならなかったかというと、それは事実として非常に厳しい貧しさがあったことが大きいだろう。江口の母親は直接的には病気で亡くなったが、病気になったのは1人で家計を支えなければならない苦労があっただろう。少なくとも、病気になった時に「ゼニが無い」と言って医者にかからなかったことは確かに死につながったと思う。何しろ江口の家はただでさえ貧しい山元村の中でも最も貧しい家の1つだったのだ(1)。家計の計算を見ればわかるが、村からは扶助料をもらわないと全く生活は成り立たないくらいだった。江口は中学生でありながら労働力として必要だったために学校を休まなければいけなかった(3)。
また、その貧しさの中で母親は一生懸命に働いていた。 江口に「あんなに働いても」と言わせるほどである。家計の数字の上からも江口の母親が何とか借金を食い止めようと一生懸命だったことが分かる(28)。また、江口の母親は入院中にもうわ言で家の仕事を心配するような人だった(5)。江口の母親が家のことをどれだけ気にかけていたかが伝わる。別の見方をすれば、江口の母親が死にそうになってからもうわ言で家の仕事を心配しなければならないだけの厳しい貧しさが実際にあったということでもある。
次に、自分についての問いだ。それは例えば、「ほんとに金がたまるのか」(24)のように言葉で表現されているが、きっかけとして教師無着の働きかけが大きかったようだ。強い不安のある江口に対して、無着はこれからの計画・目標を提出させた。江口は自分で計画を考え提出することによって、それが現実にそぐわないことに気付けた。そして、そのことで問いがさらに明確になってこの作文が書くに至ったのだ。この作文で江口が出した答えを見てみると、「今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです(32)。」とある。このことから、江口の問いが無着に提出した計画が正しいかどうかを確かめるものであったことが分かる。
もちろん、教師の働きかけが江口に響いたのは、江口の中にすでに問いがあったからではある。それは言葉にならない感情のレベルだったが、彼自身が不安でたまらなかったことが伝わってくる。初めは母親が入院し、頼る人がいなくなってしまったときから慌てだしたようだ(10)(12)。江口が中学生にもかかわらず家の責任者になってしまったことの不安に溢れていて、「心配で」「なおさら心配でした」と繰り返している(14)。作文を書いている頃は、夜も眠れないほど心配だったのだ(22)。江口江一は母の死後から1ヶ月後にこの作文を書いた。たった1ヶ月しかたっていないにもかかわらず、母の死の悲しみにただ流されるのではなく、これからの生活をどうするのかなんとか考えようとしたのは、そうさせるだけの不安の強さがあったからだろう。
では、それだけ江口を不安にさせた状況とはどんなものだったのか。
江口がそういう心配をしていたのは、もちろん貧しさがあったからだと思う。母親が入院してからは、毎日仕事をするしかなくて、全く学校にも行けなかった(13)。そして、弟や妹と別れなければならないほどに貧しかったのだ。それを決めたのは親戚だったのだが、親戚から2人で生活していくだけで精一杯だと判断されるほどに貧しかったのだ。また、家の生計をどうやって立てて行くかを考える上で、何も分からないことによる不安も強かったようだ(14)。何しろ江口はまだ中学2年生だったのである。
また、母が一生懸命働いていたことが、逆に江口にとっては不安を強くさせた面もあったようだ。それは問いの表現に表れている。「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか(23)」という問いから分かるように、江口が家の責任者として直面する貧しさは、母親が死にもの狂いに働いても解決できないだけの厳しさであったことを表現している。
江口江一とその母親は、貧しさという問題に直面したこと、そのことによる心配や不安があったという点で結ばれているのではないか。そして、それは母親が亡くなったことによって、江口が生前の母と同じ立場、つまり家の責任者という立場になったことによるだろう。
そこで注目したいのは、母の心配事について具体的にどういう内容があったのか挙げている部分だ(4)。ここでは「どういうふうにして」「どういうふうにして」「どういうふうにして」とたたみかけるような表現があり、江口の強い主張を感じることができる。なぜここを江口は強調したのだろうか。それはおそらく、母親が死に、江口が母親と同じ立場、つまり一家の責任者になったことによるだろう。江口は母親と同じ立場に立つことによって、母親の苦労を理解し、共感しているのだ。母親が元気だった頃は、一家の責任者でなかったから気楽だったのだ(3)。逆にいえば、今は一家の責任者だから気楽ではなく、気苦労に絶えないのである。
ここまでのことを考えれば、江口の問いが2つ立っていることの理由が分かると思う。江口は母親と同じ立場に立ったことによって、母親と同じテーマを持つに至った。そして、それは江口にとって、母について考えることと、自分について考えることが重なり合うことも意味するだろう。「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いで考えようとしている内容、抱いている心配、直面している事実が重なり合うのである。
立場というものが問いの形成においてとても重要なことが分かる。江口にとって、母の生前から家の貧しさは目の前にある問題ではあったはずだ。しかし、家の責任者という立場になり、その立場から貧しさに直面することで初めて明確な問いが生れたのだ。事実に対する関わり方や責任を変える立場がなければ、その事実の中にある問題(問い)は意識されなかっただろう。そして、その立場に立つことになったのは母の死があったからだ。

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