1月 04

11月の読書会の記録 太田峻文

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』,清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 ■ 目次 ■

 4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討
 5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討
 6、記録者の感想

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4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討

 全体について
 
 〇汚職事件で逮捕

・佐藤前知事は検察にハメられたと主張するが、有罪が確定するも
 収賄額ゼロという認定からは、前知事の主張の妥当性がわかると思う。

・国と徹底的に喧嘩する人は、過去の読書会で扱った佐藤優のように、
 検察によって潰されていくことが、事実としてあるのではないか。

・県知事が東電や国と喧嘩をすることで、彼にも読者にも
 見えてくるものがある。

 〇本質論

・普通の政治家は利益誘導だけを考えて調整すれば良いので、
 本質論なんてやらない。

・佐藤知事は原子力政策で本質論をやろうとした所に凄さを感じる。

・本気で物事に取り組む人、本気で国家と喧嘩をする覚悟がある人は、
 本質論をやらないと話にならない。

 第1章:事故は隠されていた

・1991年1月の、第二原発3号基の部品脱落事故。

・原発政策に自治体はなんの権限も無く、関与できない。

 第2章:まぼろしの核サイクル 

 〇官僚の無責任さ

・核燃料の処理に関する、知事と官僚との約束が破られる。
 官僚は異動してしまえば責任のがれができる。
 その責任は誰がとるのか?

 〇本気で戦う人の姿勢

・原発政策に対して国に申し入れをする際、
 原発集中地域である福島、新潟、福井の3県に絞る。

・県の原子力関係部門を課に格上げして、さらに専門家を入れる。

 〇本質論に向けて

・議論を尽くす事を目的に「核燃料サイクル懇話会」を設置。
 ここが、本質論のレベルの始まり。

・4回目の懇話会に『原発になお地域の未来を託せるか』の著者、清水さんが
 呼ばれている。原発について本質論をやる時に欠かせない人。

 〇リーダー論 

・自治体の不適切な支出、膨大な接待が発覚。佐藤知事は職員に
 徹底的に討論させ、最終的に課長以上の職員に、200万円を
 県に返還させることを決断。

・つまり、多数決ではなく、最終決定をトップが行い、
 その責任をトップが取るというスタンス。

・今回の震災で、責任を取ろうとしないトップがいかに多かったか。

 3章:安全神話の失墜

 〇リスク管理

・JCO臨界事故において、リスク管理の欠如が明らかになる。

 〇地方の過疎の問題

・県庁所在地であるにも関わらず、駅前はシャッター通りに
 なっていている。

・古い町並みにあった商店街はほとんど潰れ、一方で郊外の
 ショッピングセンターが栄えている。

・平成の大合併。地域のコミュニティを無視した、政府主導の
 アメとムチの政策。

・大規模小売店鋪法。規制緩和の名の下に押し進められた
 経済産業省の新自由主義政策。

・地方の過疎化を加速させた新自由主義の政策にも、
 正当な理由(競争がなく、時代に取り残された)はあるが、
 今は全体を考えた政策が必要。

・佐藤知事は以上の政策に反対の姿勢を示してきたが、
 その対応策は成功しているのかは不明。

 第4章:核燃料税の攻防

 〇プルサーマル計画

・計画実施をめぐり、国、官僚があの手この手で揺さぶりをかけ、
 東電が脅しをかけたりと、そのやりとりが実におもしろい。

・経産相の知らないうちに、役人たちが動いていろいろな事が
 進められてしまうと知事が言っている。

 〇経産省内の電力自由化抗争

・「新規電源凍結騒動」の結果、電力自由化論者の官僚が経産省を追われる。
 このことから、原発推進派=反電力自由化という理解で良いのだろうか。
 また、この電力自由化論は55年体制を是正しようとする流れから
 来ているのかは不明。

・また一方で、原発推進派はどちらかというと電力自由化論者である
 という見方もある。中には「東電解体」「発送電分離」を
 支持しているにもかかわらず、「原発の国有化」も
 主張している人がいたりと矛盾が多い。

・国は東電をコントロールしたいけれど、東電の影響力は強いので
 うまくいかない。だから国の「東電憎し」という気持ちから
 「電力自由化」という主張が出てくるのではないか。

・電力自由化を実現させたアメリカへの憧れから
 支持している人もいるだろう。電力自由化抗争は複雑。

・しかし、佐藤前知事が言うように、国のエネルギー政策に対して
 きちんとした考えを持って取り組んでいる人というのは
 どれくらいいるのだろうか。本来、電力自由化は手段にすぎない。

・国と東電の関係は歪んだ共依存関係ではないか。
 つまり、東電としては原発、特にプルサーマルは、
 リスクが 大きいだけだから本音としてはやりたくない。
 ところが、国が国策の名のもとに原発を東電に押し付けるので、
 東電には被害者意識がある。だからその代わりに東電が
 儲かる構造があり、社員は役人以上に高い給料を貰っている。

・その関係が、責任を取ろうとしない体質につながっていく。
 原発事故以後の報道を見ていても、両者の無責任さは見え見えだった。

 第5章:国との全面対決

 〇エネルギー政策検討会

・「県民の意見を聞く会」に寄せられた意見を整理して、
 テーマを4つに絞り込み、そしてそこから本質論をやって行こうとする。

・議事録をホームページに公開していくというやり方は
 真っ当であり、この姿勢から、佐藤前知事の本気度がわかる。

 第6章:握りつぶされた内部告発

 〇内部告発への対応

・東電は事故隠しを行い、経産省は内部告発を2年間放置していたことが発覚。

・経産省は、外国人の告発者を東電に報告するというひどさ。

・政治家は官僚にはしごを外されている。

 第7章:大停電が来る

・「原発の安全管理は厳しすぎる」という東電社員のホンネがみえる。

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5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討

 全体について

・研究者として30年間、原発の問題に関わってきているので
 主張に年季がある。

・あくまで原発を誘致した側の視点で書かれているため、経済的に
 どうして受け入れる必然性があるのかという問いに、答えようとしている。

・一方的に脱原発、反原発と言うような人ではない。
 経済的な問題がそこにあり、地域の問題を解決せずして、
 原発を無くすもなにもない。そういう意味では、
 清水さんのような研究はとても重要。

・第一章の「原発震災は何をもたらしたか」は、今回の事故で
 明らかになった問題の論点整理。ここに根本的な問題提起がある。
 問いに対する答えは本書にはまだ出せていないが、当然。
 これからみんなで、一人一人が出していくべき。

 第一章:原発震災は何をもたらしたか

 〇避難と退避

・避難と退避の区別の基準が曖昧。
 それがいかに大きな問題になっているか。

・今回の福島の問題は、内的な気持ちのところの被害が大きい。
 もちろん、肉親が亡くなったりする外的な要因で心の被害を受けるのだが、
 福島県内の人は直接的にではなく、心が傷つけられていくという
 陰湿な被害を受けている。

 〇心理的なストレス

・放射能の恐怖によって、ストレスがものすごくかかっている中で
 生きている人たちの気持ちは、僕たちにはとても分からない。

・自主避難をした人たちへの補償は一切無いが、そういうストレスの中で
 生きていく事が耐えられなくて避難した人ヘの救済が、行なわれないでいいのか。
 ストレスに耐えられないのが、むしろ正常なのではないか。
 (これは一部補償の対象になることになった)

 〇避難をめぐる葛藤

・福島県の地域、職場、家族間のあらゆるコミュニティで、
 避難できた人と残った人、避難したい人と残りたい人とで2分された。

・避難とは、職場放棄でもある。仲間などへの「裏切り」という面がある。

・どういう判断をしても誰かを傷つける結果になり、
 両者がそれぞれ、深刻な心の傷を負うことになった。

 〇規制値とは何か

・政府の示した暫定規制値をどう考えるか。

・これまで、被ばく規制値は年間1ミリシーベルトとされてきたが、
 それがいきなり20ミリシーベルトに引き上げられ、不安を呼んだ。
 本当に大丈夫か?

・低線量被曝の影響が専門家の間でもはっきりしないので、
 個々の責任で判断するしかない。

・ひとつの判断として、浴びる線量をゼロにするために
 避難することもある。

・「被曝のリスク以上に、避難をすることで社会的、経済的、
 精神的リスクの方が大きいのではないか」という、清水さんの問題提起。

 〇農業者が抱える悩み

・福島県産に手を出さない消費者の行動は、風評被害なのか。

・福島県のある一定の地域が放射能で汚染されたことは事実であり、
 それに対して手を出さないというのは、極めて合理的な判断と
 言えるのではないか。

 〇福島の第一次産業を救わないで良いのか?

・(著者)日本国民はこれまで原発を許してきたわけだから、
 その結果として生まれた汚染大地の産物を、大人の国民は
 甘んじて口にするべき。

・(中井)基本的に賛成。一般に風評被害ということで
 軽く済ませている。実際に放射能で汚染されていることを
 重く受け止めなければいけない。子供は守ることを前提に、
 大人たちはあえて福島県産を食べろというのは、極めて重要な
 問題提起ではないか。

 〇東京と福島のねじれた関係

・原発立地地区の住民は、これまで原発の恩恵に預かってきた訳だから
 福島県の農業を、そうまでして救わなければいけないのか。

・福島で発電された電気は、地元ではなく東京が消費している。

・福島が東京に電力を提供し、東京が福島にお金を払うという関係は
 対等と言えるのか。

・これまでの東京一極集中の構造から、東京と地方の関係に
 どのような関係がありうるのか。

 〇公式情報を信じるかどうか

・今回政府、東電が情報隠しをやったが、これをどのようにとらえるか?

・(著者の意見)原発事故に際しての福島県民の行動様式は
 「お上に従順な東北人気質」に見えるかもしれないが
 「誇るに足るもの」である。

・普通は批判点としてあげられるところだと思う。
 大学教授でもある著者が、なぜこういう評価になるのか。

・家族も仕事も福島にある人の中には、自分だけ残り、子供と奥さんは
 避難させるという選択がある。一方で、放射能のリスクはあるけれども、
 親と離れることによる子供への精神的な影響を考え、家族と一緒に
 残るという選択がある。政府の情報を信用してというよりは、
 直感的にリスク管理をやっているのではないか。

・清水さんは信頼できる。「政府は信頼できない」と一方的に
 言っている人は、その発言の責任をどう取るのか
 というところまで深く考えていない。

・震災直後に直ちに避難できたのは、外国人と金持ち。
 金がない人間は、どう行動することが現実的だったのか。

 〇損害の補償はだれがするのか

・東電が過剰な賠償責任を問われるのを恐れているのは
 日本の財界、というのはリアル。

・東電の大株主は大企業であり、それは東電が潰れる事で
 もっとも直接の被害を受けるのは、日本の財界。

 〇今後の可能性

・脱原発をして、自然エネルギーを中心としたエネルギー基地に
 なったとしても、そこにはなんらかの補助金、交付金がついて、
 構造的には同じになってしまうのではないか。

・もともと産業がなかった地域だからこそ原発が
 建ってきたのだから、風力にしたからと言って
 地域の問題は解決されるわけではない。

・政府、東電を批判していれば正しいというような風潮があるが、
 それは間違っている。国は政策を決めなければいけないし、
 エネルギー政策は、国家の根幹に関わる問題。
 一貫した政府、自民党の原子力政策を、40年近く
 国民が指示し続けてきた重さをどう考えるのか。

・今、脱原発に進むとして、その先にどういう社会があるのか。
 そもそも、どういう将来を僕たちが望むのか。

・一つの可能性として、外の人がどんどん入っていくというのは良いと思う。

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 6、記録者の感想

 私は『福島原発の真実』を読んで、福島県が10年以上にわたり
原子力政策をめぐり、国との間で激しい対立、抗争が
あったのにもかかわらず、それらについて私の記憶の片隅には
一切残っていないということにまず驚いた。

 そして、佐藤前知事が本質論で原発政策に取り組み、逮捕されるまで
突き詰めてきた姿勢に圧倒され、自分もこのような激しさを持って
物事に取り組んでいくことができるだろうか、不安に思った。

 私のように無知であることからくる恥ずかしさ、申し訳なさ、
負い目を、今回の福島原発事故から誰もが少なからず感じたと思う。
そういった、これまでの国民の無責任さについては、清水さんが
著書の中で言及しており、その責任のとり方についても
問題提起している。

 これまでの無関心な姿勢を反省して生きていくことは必須だと思うが、
それが即、いま盛り上がりを見せている「脱原発・反原発」
ということになるのだろうか。その「脱原発・反原発」が、
これまでの姿勢を反省した形になっているのだろうかと疑問に思った。

 確かに、原発事故以後の政府、東電、経団連に関するネガティブな
報道がたくさん流れる一方で、被災者を追ったドキュメンタリー番組
などで、放射能汚染の影響で廃業せざるを得ない農家や、
畜産農家の方が、涙をぼろぼろ流しながらその悔しさを
語る姿をみると、東電憎しで脱原発は当然だろうとも思う。

 しかし、ある番組で原発事故のせいで農業を廃業し、
家族と離れ離れになったという人が、地元に残って
最終的に見つけた就職先が、東電の関連会社だった
というのを見て、こんな厳しい現実が地方にはあるのかと
その時初めて知った。このような地方の本当の現実、問題を考えず、
さらにそこに暮らす人々に思いを馳せないで脱原発を
主張することは、結局これまでと同じ、東京側の
視点でしかないのではないか。

 今回の読書会で扱ったテキストの著者は、長年福島で生活し、
それぞれの問題に取り組んできたということで共通している。
だから、今回の両テキストが東京側の視点ではなく、福島側の視点を
提供してくれているという点で、非常に意味があるものだと思った。

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1月 03

11月の読書会の記録 太田峻文

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』,清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 ■ 全体の目次 ■

 1、はじめに
 2、参加者の感想
 3、福島原発の問題を考えるための大きな背景(中井)
   →ここまで本日3日掲載
 4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討
 5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討
 6、記録者の感想
   →ここまで明日4日掲載

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◇◆ 11月の読書会の記録 太田峻文 ◆◇

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 1、はじめに

 11月26日(土)の午後5時から7時、鶏鳴学園にて読書会が行われた。
 先月に引き続き、東日本大震災をテーマに扱った2回目の読書会である。
 参加者は高校生2名、就職活動生1名、大学生1名、社会人2名、
 中井先生を含めた計7名。

 テキストは、佐藤栄佐久『福島原発の真実』(平凡新書)と
 清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』(自治体研究社)の二冊。

 前者は、ながらく福島県知事として国の原発政策をめぐり、国、東電、
 経産省と闘ってきた佐藤栄佐久氏による告発本。
 後者は、30年あまり福島に住み続け、原発問題に取り組んできた著者が、
 今回の原発事故を社会科学、地方自治、経済的な視点から考察した書き下ろし。

 2、参加者のテキストについての感想

・清水さんの文書は文体的にも読みやすかった。
 特に社会学的な視点から電源三法、原子力政策というのを
 捉えているので分かりやすかった。

・原発が地域の自立を奪っているという事がはっきりと
 書かれており、面白いと思った。

・日本には原発の立地地域がたくさんある中で、なぜ福島県知事だけが
 国と喧嘩することができたのか疑問に思った。

・佐藤さんの著書を読んで、東京電力は変な考え方を持っているなと思った。
 清水さんの著書は、原発のなにが問題なのかがはっきりと
 書かれていて分かりやすかった。

・なぜ官僚は検証なしにブルドーザーで政策を進めてしまうのか。

・原発の「必要だから正しい、だから安全だ」という所に
 問題の核心があるのではないか。必要だから原価の計算を安く見積もったり、
 安全基準を作ったり、すかしたりしながらアメとムチで脅してやっていく。

・原発を推進するには様々な建前があると思うが、
 必要だからとにかくやる。そこにはロジックがまるっきり無い。
 これはとても恐ろしい事だと思う。

3、福島原発の問題を考えるための大きな背景(中井)

 〇55年体制

・日本は、戦争で戦時体制を維持する為に大政翼賛会を作り、
 電力会社はもちろんのこと、政治や各業界を再編成して
 一つにまとめていった。その体制が、戦後も55年体制として残っている。

・日本の経済成長を進める際に、この体制がものすごい大きな力を持ってきた。

 〇高度経済成長

・高度経済成長期には、55年体制があるところまでは有効に
 機能していった。しかし、高度経済成長は第一次産業を潰す形で
 第二次産業を押し進めていったため、労働力が地方から東京などの
 大都市に集中し、特に東北は高度経済成長のマイナスの部分を
 ひたすら背負ってきた。

・日本の経済発展ために犠牲になった地方が、少しでもその発展の恩恵に
 あずかれるような仕組みを作っていったのが田中角栄であり、
 原発もその中に位置付けることができる。
 

・経済成長の中で、東北の人たちがどういう思いを抱いて生きてきたのか。
 また東京の繁栄をどのように見てきたのか、という人々の
 恨みつらみといった思いもある。

 〇高度経済成長以後

・高度経済成長が終わって以後、55年体制も破綻せざるを得ない
 ところに追いつめられている。そのため、次の時代のあり方を
 作っていかなければいけないのに、基本的には成功していない。

・そんななか、今回の震災が来て原発事故が起きてしまったので
 大混乱に陥っている。だから復旧というところまでは出せても、
 その先のどういう地域社会を作っていくのかという、
 見取り図が出せていない。

 〇リスク管理

・原発事故以後、これからの社会を考えるうえで「リスク管理」
 という考え方が重要だ。これまでは、リスクについて触れることは
 許されないので安全だということで誤魔化してきた。

・しかし、今回の事故で安全が完全に壊れたいま、これまでの
 リスクか安全かという2項対立は成立しない。
 「すべてはリスクでしかない」という考え方が、大前提になるべき。
 そして、その上でリスクの管理をどのように行なっていけるか、
 リスク同士の比較を現実的に考え、議論をしていく段階に
 進まなければいけない。

 〇国策としての原発

・原発の問題に関して今回の両テキストで不足している視点は、
 原発は国策であるということ。そこには政治家や官僚の
 全面的な関わりがあり、財界も関わっている。
 当事者である東電は、財界を代表する存在でもある。
 そして国民はずっと、間接的に原発を支持してきた。
 これらがどのようなつながりの中で、今まで来てしまったのか
 という根本問題には触れられていない。

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1月 02

◇◆ 1月から3月のゼミの予定 ◆◇

予定は以下ですが、1月から3月は私が取材と原稿執筆で忙しくなるので、予定の変更がありえます。事前に確認の上、おいでください。

1月
 14日 文ゼミ
 28日 読書会

2月
 11日 文ゼミ
 25日 読書会

3月
 10日 文ゼミ
 24日 読書会

12月 31

大学生と社会人のゼミで

 吉木君がリーダーになって、11月からゼミ生の「自主ゼミ」が始まった。
 ヘーゲルの原書に取り組む一方で、牧野紀之氏の『生活のなかの哲学』の
 諸論考などを読み合っている。
 そこから生まれた吉木君の文章「『1人』を選ぶことの意味は何か」を掲載する。

 これは吉木君にとっては、それまでと一線を画す大切な文章になっている。
 生まれて初めて、自分の問いの答えを、自分で出した文章だからだ。

 吉木君はこれまで、親や世間から突きつけられた問いをたくさん抱えてきたが、
 その答えを出すことはなかった。出す気があるとも思えなかった。
 それが、今回は親から出された問いに、正面から答えている。

 答えを出すために、牧野氏の文章を手がかりに、真剣に考えている。

 これまでの吉木君にはこれができなかった。そして、彼だけではなく、
 こうしたことは世間ではほとんど行われていないのだ。

 そのことを考えたのが、私の「『自分の意見』の作り方」 である。

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「自分の意見」の作り方 

 よくマスコミなどでは、有権者の意向調査などを行い、その動向を報道する。
それが政治を大きく動かすこともある。また、テレビなどで、何か事件があると
街の人々にインタビューをして「どう思いますか」「どうお考えですか」
「賛成ですか、反対ですか」などを問う。

 問われた方は、真剣に、または笑いながら、または怒りながら、
何かを発言する。それぞれ、もっともな意見に思えるし、ある立場を
代弁していると思う。しかし「言わされている」「番組で求められている答えに、
合わせている」とも感じる。

 そこで語られる「意見」とは何なのだろう。
意向調査で出される「意向」とは何なのだろうか。
それは本当に、その人の「意見」「意向」なのだろうか。
否。それらの多くは、テレビで誰かがしゃべっていたことを
オウム返しで言っているだけのことだ。社会全体としての気分、雰囲気、
世間の多くの考え方を代弁するだけのことだ。もちろん、それにも意味がある。
それを否定しているのではない。ただ、それは「意見」「考え」と言えるような
ものではない、と言いたいだけだ。

 もともと「自分の意見」などを持っている人はほとんどいない。
「他人の意見」「親の意見」「世間の意見」でしかない。なぜか。

 「自分の意見」とは次のようにして生まれる。

 【1】「自分の問い」が立つ。
 【2】その「問い」の「答え」を自分で出す。
 【3】その「答え」を実際に実行し、それを生きる
 【4】その中から、次の「問い」が立つ
 
 以下、繰り返し。

 この繰り返しの中で、自分独自の「問い」と「答え」が生まれ、
それが次第に領域を広げ、深さをましていく。そうして、
「自分の考え」が生まれ、それがあるレベルにまで到達した時、
その「自分の考え」を「思想」と言うのだ。
「思想」というとずいぶん偉そうだが、ただ、それだけのことなのだ。

 多くの人には、「自分の考え」がない。「他人の考え」「親の考え」
「世間の考え」を持っているだけのことだ。
それはこの【1】から【3】ができないからだ。

 まず、「自分の問い」が立たない。
何となく問題を感じる。何となく疑問を思う。
親や恋人に、上司や先生にいろいろ言われ、問い詰められる。
これはすべての人に起こる。

 しかし、そこから、真剣に自分の答えを出そうとしない。
なぜなら、親や世間一般の考えを自分の考えとしていても、
とりあえず困らないからだ。または疑問を感じても、
それに代わる意見を出すだけの気力も覚悟もないからだ。
つまり、自分自身の「問い」を立てようとしないのだ。

 よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。
しかし、その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と
言い続けるだけで、その「ちょっと」のナカミに迫ろうとはしない。

 もし、本気で「問い」を出したとしよう。すべてはそこから
始まるのだが、世間一般の考えのレベルを超えて、「自分の答え」を
出すのは簡単ではない(だから「先生を選べ」が必要になるのだが、
多くの人にはその覚悟はない)。そこで、世間レベルにもどって
それに屈服するか、答えが出ないままに保留し続けて、結局は問いを流してしまう。
そして言うのだ。「ちょっと違う」。けれど、「ちょっと違う」だけだ。

 さて、頑張って「答え」らしきものを出せたとしよう。
しかし、「答え」らしきものを出しても、多くの人には、
それは「遊び」であり、その答えを生きようとはしない。
「答え」を出すのを、ゲームのように楽しんでいるだけなのだ。
頭の良い人に多いが、その「答え」は軽やかで「知」と戯れたり、
「奇矯」だったりする。

 その人は、深まることはなく、バラバラの知識が増えるだけのことで、
「自分の意見」にはならない。

 もし、「答え」を出したら、それを「実行」し、そのままを
「生き」なければならないなら、それはしんどいし、
他者との対立が予測されるので怖くなるだろう。

 それが何となくわかるので、答えを出さなかったり、
そもそもの問いを出さないようにする人も多い。それが普通なのだ。

 もし、「答え」を生きなければならないなら、答えを出すときは
真剣になるだろう。そこから、本当の思考が始まるのだ。
それはぶかっこうだったり、不細工だったりするが、
圧倒的な力を持って迫ってくる。

 「答え」を生きるなら、必ず問題が起きてくる。
最初の「答え」はまだまだ狭く、浅いものでしかないからだ。
「生きる」ことは全体的で、すべてが密接にからまっている。
「生き」る限り、次から次へと問題にぶつかる。その問題から
逃げることなく、真正面から次の「問い」を立てるなら、
そこから1つ上の段階に進む。そして、その段階で次の
「答え」を出していく。

 先に述べたように、このサイクルをどれだけ、先に進められるか。
それだけが問題なのだ。
どうだろうか。あなたの意見とは「ちょっと違う」だろうか。

(2011年12月24日)

12月 31

大学生と社会人のゼミで

 吉木君がリーダーになって、11月からゼミ生の「自主ゼミ」が始まった。
 ヘーゲルの原書に取り組む一方で、牧野紀之氏の『生活のなかの哲学』の
 諸論考などを読み合っている。
 そこから生まれた吉木君の文章「『1人』を選ぶことの意味は何か」を掲載する。

 これは吉木君にとっては、それまでと一線を画す大切な文章になっている。
 生まれて初めて、自分の問いの答えを、自分で出した文章だからだ。

 吉木君はこれまで、親や世間から突きつけられた問いをたくさん抱えてきたが、
 その答えを出すことはなかった。出す気があるとも思えなかった。
 それが、今回は親から出された問いに、正面から答えている。

 答えを出すために、牧野氏の文章を手がかりに、真剣に考えている。

 これまでの吉木君にはこれができなかった。そして、彼だけではなく、
 こうしたことは世間ではほとんど行われていないのだ。

 そのことを考えたのが、私の「『自分の意見』の作り方」 である。

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「1人」を選ぶことの意味は何か
     (『先生を選べ』より「先生を選べ」感想) 吉木政人 

 私は去年の9月から師弟契約を結んでいる。
5年前に鶏鳴に来ていた時にも、1年間中井さんと師弟契約を
結んでいた。逃げるようにして一度鶏鳴をやめて、
去年復帰するまでの間も、鶏鳴に戻ることを考えていた。
そういう意味ではこの6年間、ずっと中井さんを「先生」
にしていると言える。

 しかし、今年4月から勉強中心の生活を送ることにしてから、
1つ別の段階に入ったのではないかと思う。最近は、中井さんの
背景であるヘーゲルや牧野さん以外の本を、あまり読まなくなった。

 以前は「何か良いものはないか」と探すような感覚で、
色んな人の本を読むことがあったが、今はそういう段階ではなく、
中井さんに学ぶことだけに精力を傾けるべきで、
他に手を延ばしている場合じゃないなと思っている。

 「先生を選べ」について、なぜ1人に絞らなくてはならないのか
という批判がついてくると思う。1人に絞ることはとても狭いことだから、
色んな人から学ぶべきことを学んでいけばいいという考え方だろう。
私自身、父にそういう批判を受けた。「狭いところ(鶏鳴)に
ハマっていると、タコつぼ化して危険だ」という言い方だった。
今書いているのは、その批判に応える文章でもある。

 「先生を選ぶ」の反対は「先生を選ばない」になるが、
「先生を選ばない」には、そもそも誰も選ばないという意味と、
1人に絞らないで複数の人に学ぶという意味があるだろう。
では、人が成長するためになぜ先生を選ばなくてはならないのか、
また、なぜ1人に絞らなくてはならないのだろうか。

 牧野さんは学問の主体的性格として、
「【自分の問題意識を大切にせよ】」と言う。
さらに、「【自分の問題意識を追求しながらなおかつ
独りよがりにならないように】」、「【自分の追求している問題に関する
過去最高の成果を学ぶことが必要】」だと言う。

 これは、個人の問題意識が潜在的には社会問題やそれまでの歴史を
含んでいるが、先生との関わりの中で問いの位置付けを顕在化させる
ことによって、自分の立場を形成できるということだと思った。
『山びこ学校』の生徒達が、自分の家の問題を無着の指導の中で、
日本の農村全体の問題として理解していったことを思い出す。

 牧野さんは直接そういうことは言っていないが、
ともかく先生の存在が学問の客観性を作るということだろう。
「【君たちは自分の問題を独りで解決しようとしないで、
その分野の最高のものと格闘し、その最高の人の説をきいて、
また自分でも考えてみるということによって、君たちの学問は
普遍的で客観的な性格をもつようになるのです。
これが『学問の客観的性格』であります。】」

 しかし世間一般的に、先生を選ぶということは客観性とは
正反対のこととされていて、むしろ1人に絞らないことが
「客観的」だとされていると思う。
これは一体どういうことなのだろうか。
牧野さんの客観と、世間でいう客観にどういう違いがあるのだろうか。

 やはり私は、1人に絞らないとできないことがあると思う。
春から鶏鳴での勉強に集中している経験を考えてみると、
ヘーゲルを勉強するだけでいっぱいいっぱいで、他の人からも
学ぶ余裕など無い。首も痛くなった。高いものから学ぼうと思ったら、
学ぶ側はそれだけに集中する必要があるのではないだろうか。

 世間で言う客観性の立場は、多数からのつまみぐいにしか
ならないと思う。○○についてはAさんの言う通り、
××についてはBさんの、△△についてはCさんの言う通り
という学び方は、一見バランスが取れているようではある。

 しかし、実際にはAさん、Bさん、Cさん、それぞれの人間の
全体性を無視して、部分だけを取り出していることになる。
それこそ、その取捨選択自体に客観性が無く、独り善がり
ということにならないだろうか。
それでは結局、自分を選んでいるだけではないだろうか。

 学ぶ側は、自分に都合の悪いことからは逃げることができるので、
自分が否定されることもなく、次の成長につながらないのではないか。
ある全体性を持った1人に絞って学ぶからこそ、
矛盾が起こり、成長の契機が生れるのではないだろうか。

 もちろん、1人に絞って先生を選ぶとしても、選ぶのは
生徒だから主観的な選択ではある。牧野さんの言うように、
大学の講義を入口として選んだとしても、結局は選ぶのは
生徒の側だ。

 しかし、その主観的な選択をただの独り善がりで
終わらせないためには、やはり1人を選ぶ必要があるのではないか。
ヘーゲルがどこかで「自らを限定しなければいけない」と
言っていたと思うが、何か「1つ」の人や立場に限定しない限り、
自分の限界や、選んだ先生の意義と限界などは
明らかにならないのではないか。

 選択は、事実として主観的でしかあり得ないと思うし、
その限界を先生に学ぶことで克服していくのだろう。
しかし、選択が主観的であること自体にも意義はあると思う。

 私は今年の3月に、内定をもらった会社はやめにして
1年間勉強することに決めた。1年間延ばすことによって
新卒でなくなるリスクもあったが、ともかく決めた。
中井さん、ヘーゲルの考え方を少しでも身につける
という目的があって勉強しているわけだが、自分で決めたからこそ
一生懸命やらなければならないという責任感があって
やれている面もある。自分で選ぶという主体性が強ければ強いほど、
学びにも強さが出てくるのではないだろうか。