2月 07
村山 士郎 先生 特別講演会
?「聞き書きの魅力と指導法」連載終了記念?
高校作文教育研究会3月例会
村山 士郎 先生 特別講演
演 題 事実をとらえることの豊かさとおもしろさ
― 生活綴方実践から大学教育実践まで ―
メッセージ
貴研究会で京都の八ヶ峰中学の実践に注目し、そこから「聞き書き」の今日的可能性を引き出そうとしていること興味深い視点だと思っています。80年代に私が注目した時には、学校ぐるみの平和教育としては注目されていましたが、私がもっとも大切だと思っていた表現の発達論的視点からの着目は希薄であったと記憶しています。
生活綴方実践や私の仕事である大学教育実践において、今日、「事実をとらえること」の多面的な試みが不可欠になっています。言い換えると子どもや学生を「事実に向きあわせること」が学習主体に育てていくということです。ここに学びの原点があると思っています。その方法の一つに「聞き書き」が位置付くのかと思っています。
私の教育学研究では、この間、「事件のなかの子どもたち」をテーマにして論文や本を書いてきましたが、その研究方法の前提には「事実と向きあう」、「事実を聞き取っていく」ことを大切にしてきました。しかし、八ヶ峰中学の生徒のようには表現出来ないもどかしさを抱えてきました。
学習会では、上のようなことを、まとまりなく話してみたいと思っています。
村山士郎先生のプロフィール
1944年 山形県に生まれる
1977年 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了
現在 教育学博士、大東文化大学教授
日本作文の会常任委員会副委員長
主な著書 『生活綴方実践論』(青木書店、1985年)
『平和を語る学校』(編著、労働旬報社、1986年)
『子どもの攻撃性にひそむメッセージ』(柏書房、1999年)
『なぜ「よい子」が暴発するか』(大月書店、2000年)
『事件に走った少女たち』(新日本新書、2005年)
『現代の子どもと生活綴方実践』(新読書社、2007年) ほか多数
高校作文教育研究会は、1998年2月に会を設立して以来、13年になります。この機会に、私たちの実践と研究をまとめようということになり、最も自信があった聞き書きについて取り上げることになりました。聞き書きは、高校生にとって、学ぶものがほんとうにたくさんあると実感していたからです。
そこで2年間ほど、研究会のテーマを「聞き書き」として、私たちの例会に全国の中学、高校、大学のすぐれた実践家17人をお招きし、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討してきました。
その成果は、「聞き書きの魅力と指導法」と題して『月刊国語教育』(東京法令出版 2009年7月号?)に連載してきました。約2年間、21回続いたこの連載も、2011年3月号をもって終了します。
この連載終了を記念して、村山士郎先生の特別講演会を開催します。
私たちの共同研究の成果をふまえて、さらに深めるための特別学習会です。参加者には連載の全コピー集を配布します。どうぞ、ふるってご参加ください。
1 期 日 2011年3月13日(日)13:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園御茶ノ水校
東京都文京区湯島1?9?14 プチモンド御茶ノ水301号
? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください
3 内容
(1) 特別講演 村山士郎先生
(2) 報告
共同研究を終えて 茨城 古宇田栄子
約2年間、共同研究の成果を、「聞き書きの魅力と指導法」と題して、『月刊国語教育』に連載してきました。連載を始めてすぐに、題名を「聞き書きの魅力と指導法」ではなく「聞き書きの魅力と可能性」とすべきであったと気付きました。それほど聞き書きの世界は、未知と可能性に満ちていました。共同研究では17人の実践とその生徒作品を検討しました。今回は、連載の終了を記念して、共同研究の概要、論点、そこで出会った実践家たちの珠玉の言葉等を紹介したいと思います。
参加費 1,000円(会員無料)
2月 04
高校作文教育研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。大きな成果が出たと思います。
今年度は、その成果を踏まえながら、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。
表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。
2月は、愛農学園農業高校の平岡敦子さんの登場です。愛農学園農業高校は、三重県伊賀市にある私立の全寮制農業高校です。1学年25人の生徒たちを相手に、唯一の国語科の先生として奮闘しているのが平岡敦子さんです。
また、聖心女子大学(文学部)の印出忠夫さんには、大学1年生への基礎教育として行っている半年間の表現指導の報告をしていただきます。
また、私、鶏鳴学園の中井は、昨年行った、聞き書きから論文、志望理由書までの指導を報告します。
どうぞ、みなさん、おいでください。
なお、参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net
1 期 日 2011年2月20日(日)10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園御茶ノ水校
東京都文京区湯島1?9?14 プチモンド御茶ノ水301号
電話 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください
3 報告の内容
(1)「経験文を書く」―大学での実践例
印出 忠夫(聖心女子大学文学部 東京)
一昨年に引き続き、中井浩一著『脱マニュアル小論文』で提唱された作文指導法を、大学一年生対象の前期(2010年度)の教養演習「経験文を通して自分を知る」の場で実践した経験を報告します。
今回は私自身が直面した課題
? ポジティブな経験を具体的に書くのは、ネガティブな経験よりも難しいのか?
? 文章力のある学生に対する指導法
以上2点について報告し、皆様のご意見をいただければと思っています。
(2)私立農業高校における国語教育
平岡 敦子(愛農学園農業高校 三重県)
愛農学園は、日本で唯一の私立の全寮制の農業高校です。生徒は農業を学ぶために全国から来ています。遠く離れた家族に自分の思いを伝える「一行詩」を8年間実践してきました。また、古典や漢文を学ぶ際には、必ず表現課題と結びつけた授業作りを続けてきました。
今回は「一行詩」の実践と、私が古典と表現教材をどう結びつけたのか、報告させていただきたいと思います。
(3)聞き書きから論文、志望理由書まで
中井 浩一(鶏鳴学園 東京)
聞き書きは、高校生が社会と自分を見つめ直す大きな機会になります。そこで生まれた問題意識を深めていけるような指導を、どう展開できるのか。論文、志望理由書へとどう発展させられるのか。それを昨年の実践から報告します。
ある女子高生には「不登校」の兄がいました。彼女はその兄を受け入れられずに避けて生きてきました。聞き書きをすることで、その兄と初めて正面から向き合って、彼女に大きな変化が生まれます。「私は今まで何も考えずに言われたことをただそのままやってきた受動的な人間だと感じたし、兄と比べると何と面白みの無い人間なのだと思いました」。
彼女のその思いを深め、今後に生かせるように指導しようとした試みです。
4 参加費 1,500円(会員無料)
1月 26
高校作文教育研究会の2月例会(2月20日、鶏鳴学園)の案内をします。
この研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。大きな成果が出たと思います。
今年度は、その成果を踏まえながら、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。
表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。
2月は、愛農学園農業高校の平岡敦子さんの登場です。愛農学園農業高校は、三重県伊賀市にある私立の全寮制農業高校です。1学年25人の生徒たちを相手に、唯一の国語科の先生として奮闘しているのが平岡敦子さんです。
また、聖心女子大学(文学部)の印出忠夫さんには、大学1年生への基礎教育として行っている半年間の表現指導の報告をしていただきます。
また、私、鶏鳴学園の中井は、昨年行った、聞き書きから論文、志望理由書までの指導を報告します。
どうぞ、みなさん、おいでください。
参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net
1月 25
読書会の日程の変更
1月の読書会の日程を、29日(土曜)に変更します。
3月の読書会の日程を、21日(月曜・祝日)に変更します。
2月は変わりません。
つまり、以下になります。
1月15日 文ゼミ
29日 読書会
2月12日 文ゼミ
26日 読書会
3月12日 文ゼミ
21日 読書会
なお、読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレス哲学の
神髄、「形而上学」(岩波文庫・上下)に挑戦しようと思います。
その視野の広さ、その思考の圧倒的な高さ。ヘーゲルが惚れ込んだ
アリストテレスの凄みを直接に味わってみましょう。
テキストはアリストテレス著「形而上学」(岩波文庫上下)
以下の順に読みます。
1月29日 12巻[35ページ](岩波文庫・下巻)
1巻[50ページ](岩波文庫・上巻)
全体を見渡すのには、12巻がベストです。これはアリストテレス自身による
全体の要約と言ってよいでしょう。ヘーゲルも『哲学史』で、ここを使用しています。
そして、導入的な意味で、1巻も読みましょう。アリストテレスが
自らの師プラトンを全面的に批判しています。
この批判のすごさからも学ぶことが多いと思います。
2月26日 3巻[約30ページ]、7,8巻[約100ページ](岩波文庫・上巻)
9巻[約30ページ](岩波文庫・下巻)
この「形而上学」は3巻で問題提起し、その前半に答える形で、
3,4,6巻、後半に答える形で7,8,9巻があるようです。
補足が10,13,14巻。
この7,8,9巻が、「形而上学」の核心部分だと思います。
変化、発展の論理と、個別に内在する本質とを結びつけて展開します。
すごいです。
3月21日 4,6巻[約50ページ](岩波文庫・上巻)
10,13,14巻[約120ページ](岩波文庫・下巻)
3巻の問題提起の答えの内で、7,8,9巻以外の部分を読みます。
なお、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
アリストテレスの箇所(74?87ページ)を読んでおくとわかりやすいでしょう。
アリストテレスの核心だと思う点は、メルマガ179号で書きました。
是非、読んだ上で、アリストテレスにアタックしてみてください。
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1月 24
『教職研修』誌の2月号に「大学と教育委員会のパートナーシップ」について書きました。
「大学と教育委員会のパートナーシップ」は『教職研修』誌で連載されているシリーズもので、
理論編4回、
実践編 各大学2本、計12回
福井大学、鳴門教育大学、大阪教育大学、
岐阜大学、岡山大学、兵庫教育大学
総括編 3回
と続き、私の原稿はラストの総括編の1本として書いたものです。
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実践知と自己教育
(1)画期的な連載
(2)実践と実践知
(3)オープンな雰囲気と緊張感
(4)外部への発信の意味
(5)外へのアピールの仕方
(6)すべては自己教育
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(1)画期的な連載
この連載の目的は、この連載の企画者である大脇康弘の連載初回の論考で明らかにされている。「大学と教育委員会の連携の成果と課題について実践的研究の視点から考察し、今後の連携の可能性と問題点を明らかにする」。
私は、このテーマ設定をすばらしいと思う。これこそが、実践知が発揮されるテーマだと思うからだ。そして、こうした内容を、教育委員会や文部科学省に向けた報告書ではなく、本誌のような学校現場の方々を読者とする場で発信しようとすることに、大脇の実践知の凄みを感じる。
「大学と教育委員会の連携の成果と課題」は、このような連載自体のなかに、端的に示されることになるだろう。ここでは何が書かれているかよりも、何が書かれていないかにその本質があらわれやすい。書かれたことの成否より、書かれなかったことの意味により多くの課題が見えるだろう。
私は私塾経営者であり、大学や高校などの教育改革について発言してきた。「内部」の利害関係者が言えないことを、「外」から自由に客観的に発言してきたつもりだ。今回も、そのスタンスで私見を率直に述べたい。
(2)実践と実践知
今、大学と教育委員会の連携が求められる時代背景については、この連載でも述べられているので繰り返さない。ただし、この連載に登場したのはすべて教員養成系の国立大学であることを確認しておく。それは都道府県の教育界の中心にあるが、他方では長く文部科学省の支配下にあった。その責任と自立が求められている。
文科省から教員養成系の国立大学に求められたのは、教育委員会との連携と、学校現場や教育現場の問題を解決できる実践的な研究と教育であった。それは、一九九九年以降に文科省から出されたさまざな答申や報告書で示されている。
大学の使命は教員養成だが、教員の採用や研修は教委の所管で、それぞれがばらばらに行い、そこには連携がなかった。教員養成から採用・研修までの一貫した体制や考え方が必要なのは当たり前であり、そのための連携は当然のことだ。そこから、地域の教育目標、理想の教師像などの確認や、大学や研修のカリキュラム、採用基準などの話し合いが必要になる。そして、両者の連携は、今ではこのレベルには到達しているところが増えてきているようだ。しかし、それは政策レベルでの連携でしかない。
大学から送り出した卒業生が教員として赴任する学校には、現実の諸問題が待ち受けている。ところが、そうした問題に、大学が直接かかわることは少なかった。学校現場の問題解決に直接に役立つような教育と研究が大学に求められたのは当然だろう。そして、そうした試みもすでに行われている。
新たに設立された教職大学院では、現職教員たちが現場の問題を抱えて学びに来るのだから、そこでの教育・研究が現場の問題を対象にすることは当然だ。こうして、大学には実践的な研究と教育が求められるようになった。現職教員が対象だから、大学と教育委員会の緊密な連携が必要になる。いずれも当然のことで、遅すぎたことばかりだと思う。
しかし、懸念もある。こうした動きが、文科省による上からの強烈な指導と、逼迫した財政面から実現している点だ。大学や大学の教員たちによる自発的な動きならよいのだが、上から言われて行うような研究・教育にはろくなものはない。それは、表面的には現場の問題を取りあげるが、現場を政策的に振り回すだけの結果に終わりやすいだろう。
そもそも、実践とは、自分の置かれた現場に問題があり、それを問題として感じた当事者から自発的に生まれるものだ。実践知とは、そうした実践を反省したものでしかない。したがって上からの強制だけから、実践知が生まれ育つのはむずかしい。実践知とは、自発的なものであり、学校現場の、教育現場の、地域の問題に迫られて始まるものなのだ。
もちろんそうした実践と実践知と連携は、心ある関係者によって以前から行われてきた。たとえば、岐阜では、県教委の出先機関だった教育センターの服部晃(連載第四回)と岐阜大の教育学部附属カリキュラム開発センターの教員たちの信頼関係は一九八〇年代から育まれたものだ。そして、問題意識(教員養成から採用・研修までの一体的な運用)の共有があり、九七年には連携協力協定書が結ばれている。文科省がそうした指導を行うかなり前である。
福井大の教育学部が、福井県教育委員会の指導主事と、不登校児などを対象とするライフパートナー事業を立ちあげたのは九三年のことだ。当時県下で急増した不登校児への支援が緊急課題になったからだ(連載第五回)。
これらに遅れたが、大阪教育大が大学・学校・教育委員会をつなぐ「スクールリーダー・フォーラム」を開始したのは二〇〇三年。夜間の大学院の学生(現職教員たち)が多様化したことへの対応に迫られて、自発的に生まれた研究会が、これらの活動の主体である。その中心の大脇康弘は、長く府立高校長たちの学習会のまとめ役を務め、現場の課題に精通していた。大脇は、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。(連載第九回、第一〇回)。
(3) オープンな雰囲気と緊張感
実は私は、「スクールリーダー・フォーラム」にゲストとして参加したことがある。2009年の第8回の時だ。「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」の3年間にわたる成果を総括するのが目的だった。
「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校の中堅校21校が参加し、中堅校の特色作りに取り組んだ。「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んだ。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組む。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。
中堅校は多様なために、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。
ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。
このフォーラムでは、各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。
他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思った。
大脇は、こうした連携が成功する条件として、大学・教育委員会・学校の三者の違いを尊重し、学び合うことが必要であるとまとめている(連載第三回)。
(4)外部への発信の意味
しかし、なぜ、こうした連携論を本誌のような学校現場の方々を読者とする場で発信するのだろうか。それは、教育委員会や文部科学省に向けた「内向き」にではなく、外部へのアピールをするためである。
こうした外部への発信は、関係者のモチベーションになる。また、公開することで、内部への緊張感をもたらし、問題を隠すことへの牽制の機能を果たす。そして、一番重要なことは、外からの評価や批判・圧力でしか、内部は変わらないという事実である。
このことは、実践で苦労している方ならみな、知っている。
そもそも、連携論がなぜ問題になるのか。以前から大学の教員が個人として、教育現場や教育委員会と連携する例はあった。一部ではあるが熱心な教員もいたのだ。何がなかったかというと、大学という組織と、教育委員会という組織とが、「組織的」に活動することだ。今問題になっているのはこのレベルである。そのむずかしさとは何か。自らが属する組織を組織として変えていくことのむずかしさである。
個人的な活動である限り、個人のレベルにとどまり、組織の問題は表面化しない。しかし、今回のような組織としての連携では、組織の問題が隠せなくなる。内部を変えることが迫られる。それができない限り、元のような個人レベルに戻るしかないのだ。
したがって、連携の成否は、それぞれの組織内部の組織としての変化でチェックされるだろう。それは制度面と意識面の両方である。学生に関する教育内容やカリキュラムなどの変更は、そのまま組織の制度面の変更を伴うことが多い。逆に言えば、制度面の変更がなければ、「絵に描いた餅」に終わりやすい。
今回の連載で、自らの組織内部の事情や制度面の変更について言及した例が少ないことは、まだまだ課題が多いことを推測させる。大学人は、大学内部の組織や制度の問題をほとんど語っていない。それを行っているのは教育委員会の関係者である。
たとえば、岐阜県教育委員会の教育センターの服部晃は、教育委員会の組織変更を行い、教育センターを格上げすることで、自らの権限を強化して連携を押し進めた。その苦労をもとに、教育委員会の組織内部の意志決定の過程を具体的に説明している(連載第四回)。同じく岐阜県教育委員会の教職員課の早川三根夫も、岐阜大学との交渉のなかでの教育委員会側の動きを率直に述べていて興味深い(連載第一二回)。
大学人が、こうした語り口を獲得するのは、いつの日なのだろうか。
(5)外へのアピールの仕方
連携を深め、組織を変えるためには、外部へのアピールは大いに有効だ。そしてそれには、効果的なアピール方法をとらねばならない。しかし、どうもこの判断に誤りがあるのではないか。この連載では「成果」を競い合っているように見えるからだ。
アピールすべきはいわゆる「成果」ではないだろう。「成果」をあげることは当たりまえのことだからだ。そうではなく、「成果」の裏にある課題の掘り下げ、課題の明確化こそ、最大の「成果」ではないだろうか。教育委員会や文部科学省に向けた報告書ではできない理由がここにある。そこでは大学人は「優等生」になるしかないだろうし、「優秀度」を競い合うしかないだろう。
こうした雑誌を発表の場に選んだ以上、そこでは問題の掘り下げこそを中心にすべきであり、それでこそ外圧を引き起こし、内部を変えることが可能になる。そのためには、問題の語り口こそが重要である。
問題は、抽象的・一般的にではなく、個別具体的に語らなければならないと思う。連携について全般的で総花的に語るのではだめで、一つの事業にしぼり、そのなかでも問題を絞り込まなければならないだろう。そして、きれいごとや建て前論を排し、リアルに本音に近い部分で語るべきだ。すべてにおいて、人・物・金の問題は避けて通れない。それを語らなければ、問題の核心部分が見えてこないだろう。
たとえば、「スクールリーダー・フォーラム」第九回では、大阪の府教委と市教委の対立や相互学習のむずかしさ、教育委員会側と大学の教員とのせめぎ合いなどがあった。大脇はそれらを具体的に描いている(連載第九回)。岐阜県教育委員会の教職員課の早川三根夫は、岐阜大学との交渉の舞台裏を開示し、両者の組織の違いやキーマンの存在の意味などを述べている(連載第一二回)。こうした論考のリアルな部分から、私たちは多くを学ぶことができる。
しかし、そうした論考が少なすぎる。いつも思うのだが、「教育」の世界は、なぜこれほどに、きれいごとや建て前に支配されているのだろうか。これは、上は文科省・教育委員会から、大学や学校などの、教育界全体に広がっている問題ではないだろうか。
(6)すべては自己教育
つまるところ、問題は、自己教育にかかわってくることがわかるだろう。「教員・指導者自身が教育されなければならない」のだ。
今回の連載で、連携を「実践的研究の視点から考察」することを目標にしたのは、まさにこの自己教育にねらいがあったのではないか。大学人が、こうした連携自体を考察し、反省することは、「実践知」を自らの実践において示すことなのである。
大学と教育委員会の連携にたずさわった大学人にとっての現場とはどこだろうか。それは連携それ自体であり、自らが属する大学そのものである。したがって、その実践と実践知は、その連携や大学改革によって問われることになる。
しかし、その語り口はまだまだ平板で、深まりが弱いように思う。彼らが自己や自らの組織を語ることは、なおまだ少ない。自由な立場の私のような者が発言しなければならない理由がそこにある。読者の方々で、関心をお持ちの方は、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)をお読みください。五章「教員養成系大学」では、岐阜と大阪の例を、大学と教育委員会それぞれの内部事情とキーマンたちの動きを追いながら報告しています。連携問題を考えるヒントにしていただければ幸いです。