9月 26

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。
それから2年が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

2017年7月の学習会の報告を掲載します。

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古荘純一・磯崎祐介著『教育(虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』学習会(2017年7月23日))報告
                                        田中由美子

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」
という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

実は、今回のテキストのテーマもそれだった。
親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちだが、それでは不十分だという話だ。
子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われており、
しかし、そうして有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して、暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま、
大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

(1)「教育虐待」の広がり
親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強やその成績である。
かつて中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も多い。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、
この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、
その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにするところまで来ている。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」の
つもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理が、いつの間にか急速に進んでいると感じている。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないという
ようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、成績だけを問題にして、
まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とする
スクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが親分子分関係に甘んじているケースも少なくなく、 相手のプライドを損なういじめも横行している。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

(2) 「傷付けないように」の限界
古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、
または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。
そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、
子育ての悩みが解決するとは思えないのだ。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、
また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、
その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが
問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、
と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

(3) 他人と深く関わって生きる
学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを
悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか
問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、
大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、
日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはいけないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、
子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を
保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと
自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん
「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、
子どもに投影してしまう?「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。
私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに
反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。
私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、
少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、
一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、
現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、
私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す
母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして
傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。
しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、
我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、
子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。
相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。
では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや
「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。
そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。
子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマが
はっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに
考えや思いを伝えることができたのではないか。

高校生の母、Bさん
どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する
場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。
この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、
それだけでストレス解消効果が大きかった。
今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため
「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。
生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものも
それ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、
希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、
子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。
「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。
子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

高校生の母、Cさん
「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、
どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

中学生の母、Dさん
テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。
学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、
だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。
成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、
こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。
子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、
子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。
筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、
大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。

9月 25

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。
それから2年が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

今回のメルマガでは、2017年7月の学習会の報告と、来月10月15日(日曜)の学習会の案内を掲載します。

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10月の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)のご案内
                                   田中由美子

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

10月の学習会は「思春期」がテーマです。
ルソーの教育論に「私たちはいわば二度この世に生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために」とあり、
この「二度目」が思春期です。
一度目は親から生を与えられ、しかし二度目は、自分の人生を生きていくために、本人が自分で生まれ直さなければなりません。
親としても戸惑うことが多く、いわば子育ての山場です。
思春期という大切な節目について理解を深めることが、子どものために、また親自身のためにも肝要です。
様々な問題が表面化する時期ですが、親子共に成長するチャンスだと考えます。

ネットで読むことができる論文を、テキストにします。
思春期の問題がわずか6ページによくまとめられています。
自分の感情がみえなくなる「よい子」や、体調を崩す子どもの問題も取り上げています。
論文を書いた乾 義輝氏は、元公立高校教師で、県立法隆寺国際高等学校校長を務めた後、現在は奈良教育研究所に
勤務されています。

1. 日時:10月15日(日曜)14:00?16:00
2. 場所:鶏鳴学園
3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
4. テキスト:乾 義輝「 豊かな人間性を培う家庭教育の推進 ─「思春期」家庭の支援の在り方─ 」

http://www.nps.ed.jp/nara-c/gakushi/kiyou/h17/data/a/a15.pdf

※テキストは上記アドレスで見ることができますが、参加申し込み者には念のため、テキストのPDFファイルを
メールに添付してお送りします。また、印刷ができない等ご事情があれば、印刷したものを郵送します。

参加をご希望の方は、「家庭・子育て・自立」学習会ブログ内の、下記、お問い合わせフォームにて、
開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
 連絡先 〒113?0034
  東京都文京区湯島1の3の6 Uビル7F
       鶏鳴学園 家庭論学習会事務局
  TEL 03ー3818ー7405
  FAX 03ー3818ー7958
 

9月 02

9月、10月の読書会テキスト

(1)9月24日(日)読書会テキスト

許 萬元 (著)
『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』 (大月書店1968年)
を読みます。
アマゾンで古書で簡単に入手できます。

ヘーゲル哲学の発展観を深い理解で提示してくれます。
発展とは何か
その「始まり」「途中」「終わり」とは何か
認識と実践とはどう関係するか
など

最重要なテーマが取り上げられています。

(2)10月22日(日)読書会テキスト

『アンティゴネー』 (岩波文庫) 2014/5/17
ソポクレース (著), 中務 哲郎 (翻訳) 

ギリシャ悲劇の古典を読みます。

岩波文庫の旧版(呉 茂一訳)と間違えないようにしてください。

ヘーゲルはこの著作を「あらゆる時代の芸術作品のうちで最も崇高、かつ秀抜」(美学)と評しています。
そして、この劇については、国家の法と家族の法との対立ととらえたり、人倫との関係でさまざまに論じています(『精神現象学』や「宗教哲学」や「美学」)。
それも参考にしながら読んでみます。

ヘーゲルがこの劇に言及している個所は多いのですが、
それを読んでいると、
彼が若かりし頃、親友のヘルダーリンと
ギリシャ世界について熱く語り合っていた様子が
目に浮かんできます。
ヘルダーリンが『アンティゴネー』をドイツ語訳していたことを今回知りました。

9月 02

雨が降らなかったと思ったら、8月には雨ばかり、異状気象が続いていますが、
読者のみなさんはお元気ですか。

9月以降のゼミの案内をします。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

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◇◆ 1.2017年9月以降のゼミの日程 ◆◇

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

9月
 10日(日)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 24日(日)読書会+「現実と闘う時間」

10月
 8日(日)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 22日(日)読書会+「現実と闘う時間」

11月
 5日(日)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 19日(日)読書会+「現実と闘う時間」

12月
 2日(土)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 16日(土)読書会+「現実と闘う時間」

成績発表と忘年会 12月の月末頃

                                        
                                       
◇◆ 2.ヘーゲルゼミ ◆◇

9月11日(月)より開始。

毎週月曜日

原書購読と日本語テキストで読む時間があり、
原書購読は午後5時から、小論理学の24節を読みます。
日本語テキストの時間は午後7時過ぎからで、『小論理学』(牧野紀之訳、鶏鳴出版の上巻)の序論、予備概念のところを読みます。
 
                                       

8月 31

2016年の秋には、初めて仏教を学習した。『摂大乗論』に関する卒論の指導をする必要があり、
仏教に向き合わざるを得なくなった。そこで考えたことをまとめておく。

■ 目次 

「悟り」の根本矛盾 (仏教を考える)

※前日からのつづき
2.仏教とユダヤ教・キリスト教
(1)言葉への不信
(2)人格神の意味 内的二分と外的二分の関係
(3)「悟り」の矛盾 3段階の発展 
3.比較宗教学、比較思想
(1)比較思想の難しさ
(2)『ゆかいな仏教』は自由にしてくれる
(3)宗教と哲学や科学とは何が違うのか

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「悟り」の根本矛盾 (仏教を考える)

2.仏教とユダヤ教・キリスト教

私は仏教について考えながら、常にユダヤ教とキリスト教、その旧約と新約と比較していた。
私が多少は知っており、強い関心を持っているのがイエスとその弟子たち、そこから生まれたキリスト教だからである。
また、2015年の秋から半年ほどかけて旧約と新約を読んで考えていたから、私にとってはそれは当然のことだった。

(1)言葉への不信

両者を比較して、すぐに気づくのは言葉への信頼の違いである。
仏教の言葉への不信はあまりにも激しく極端である。それに対して、ユダヤ教・キリスト教では言葉を基礎に置いて、
それが大きく揺らぐことはない。「始めに言葉があった」として旧約が始まっているほどだ。
これはどういうことなのだろうか。
ユダヤ教やキリスト教では、神は人格神であり、神と人間との関係は「契約」関係である。
それは言葉によって確定され確認される。旧約を読んでいるとそれがよくわかる。ユダヤ民族と神とは契約をし、
その契約を相互に守ることでその関係が成立する。それはすべて言葉によるもので、神から示される十戒の内容は、
文字として刻まれた石板が神からユダヤ民族の指導者であるモーゼに示される。また、モーゼは実によく、神と交渉する。
それはすべて言葉によるものだ。
それには相互の愚痴や怒りなどまで含まれるが、実にこまめに言葉でのやりとりがある。
神はユダヤ民族を愛するが、一方でよく怒り、ユダヤ民族を殲滅しようとさえする。
それをモーゼはなだめすかし、必死で思いとどめようとする。すべてが言葉によるものである。
言葉、言葉、言葉。神と人間とは相互理解をしなければならず、それには言葉で交渉する以外にはない。
そこでは言葉に掛けるしかない。言葉への不信などと言っている余裕はない。
仏教ではそれがまったく異なる。そこには人格神としての神は存在しない。
したがって、言葉による人間と神との契約や交渉は不可能であり、不必要であり、そのために言葉を軽視、否定することもできる。
この違いは重要だと思う。

(2)人格神の意味 内的二分と外的二分の関係

もちろん、仏教でもすべての人間には仏性があることになっており(つまり内的二分)、仏性を神と考えることもできる。
世界は縁起で成立しており、それは神が世界を作ったと説明しても良いだろう。しかし、それは人格神ではないし、
神と人との関係のあり方には決定的な違いがある。

旧約と新約では、神は人格神であり、人間はその神と、人格同士として契約や交渉が可能だし、それが不可欠である。
それは何を意味するのか。神は人間の外に実在し、人間とは外的に向き合う(外的二分)のだ。
もちろん、神との対話は人間一人ひとりの内面においてもなされる(これが内的二分)のだが、他方でその関係は、
徹底的に外化されてもいる。内的関係でも外的関係でも言葉が必要だが、外的関係では特に重要である。
この内化と外化の関係は相互関係であり、1つの関係の2つの側面であろう。自己内での神と自己との対話、
つまり内的二分は、外的にも神と自分たちユダヤ民族との契約や交渉の中で確認される。逆に外的な契約ゆえに、
神との内的関係は保障される。それは客観的で社会的な保障である。また、ユダヤ民族内でも指導者と民衆とは、
神との契約や交渉をめぐって言葉によって伝え合うしかなく、時に激しい議論も起こる。
この内化と外化の関係は、新約においても変わらない。内的な信仰は、外化された根拠を必要とする。
イエスの言動、人生の経緯が注目されるのは、神との関係は外化されるとの考えの結果でもあるのだ。
イエスの人生が悲劇的であり、ドラマ仕立てであり、復活を含む数々の超常現象や奇跡物語が、
キリスト教成立にはどうしても必要だったのは、そのためだ。
もちろんユダヤ教とイエス(キリスト教)との間には大きな違いがある。イエスは神との契約の条件を、
ユダヤ民族への限定から人間一般へと拡大した。それは特殊性を排除し、人類と神との関係の普遍性を保障し、
その内的二分と外的二分の関係を純粋なものとした。
しかし、こうした大きな違いはあるが、両者の神は人格神である点で同じである。
この点で仏教はまるで違う。仏教では、人格神は存在しない。神(仏性)と自分の関係は内的なものに止まり、
外化され確認されるものではない。外化することでの保障の必要を認めない。だから、言葉や表現は重視されない。
イエスと比較して、ブッダの人生にはおよそ、激しさや奇跡物語めいたものはない(少ない)。
ブッダの人生の個々の場面が重要ではない。外化が問題にはならないのだ。ブッダはあくまでも人間であり、神ではない。

これは仏教の方が内面性を深めているように思われるかもしれないが、実際は逆であろう。
内的二分と外的二分との両者が一つであるとするならば、神の意志が外化されているはずの現実社会から逃げることは
許されない。そこに不正があるなら戦うしかなく、それは現実との対立を深め、弾圧を呼ぶだろう。
そしてそれゆえにまた内的な葛藤や分裂はいっそう激しくもなるだろう。矛盾は外界にあるだけではなく、
ユダヤ民族内部でも、個人の内面でも激化するだろう。

仏教では、そうした外化を求めず、必要としない。しかし、それは建前であり、大衆において外化と客観的な保障
(功徳やご利益など)を求める力は大きく激しい。仏教もそれを押しとどめることはできず、
次第にその力に屈服していったように思われる。それが仏像であり、輪廻の教えであり、多数の仏、浄土、念仏であり、
密教であるように思う。
こうした方向は、決して大衆からの要請だけではない。本来、外と内とは一つであり、外を無視・軽視すること自体が
間違いなのである。したがって、外化や客観化はそれが発展する上で、必然的な方向なのだ。
しかし仏教は原理的にはそれを求めないのだから、かなり不自然な形とならざるを得ない。
 たとえば、仏教のわかりにくさは、そこにブッダ以外に、多数の菩薩や如来が存在することだ。それは何か。
すべての真理への道と同じく、仏教にも師弟関係と弟子相互の関係がある。そこでの真理性には客観的な保障、
つまり悟りが本物が妄想かの基準が必要である。そしてその保障とは師弟関係の継続性、永遠性の中にしかないだろう。
 歴史的な師弟関係の継続性こそが、その真理の客観性(それが主観的な妄想ではない)、永遠性、発展を保証する。
しかし内的な保障を外的な関係の中に求められないなら、それに代わる絶対的なシンボルが必要になる。
それが仏教における多数の仏や菩薩らの群れであり、壮大な曼陀羅の世界なのではないか。
 これに関連して言うと、ブッダが「独覚」したとされるのはおかしい。ブッダの悟りは、彼に先生がいなかったことを
意味しない。ブッダにも当然師がいた。ただ彼は師を超えた、それも大きく超えたのだ。
ブッダをそれ以前と切り離そうとする無理が、その世界観に歪みを与えていると思う。
 キリスト教が、教会に絶対的な意味を与えているのは、この師弟関係の絶対的価値を求めるからである。
しかし、それが疑似的に外化されることはない。それは三位一体の理論に付け加えられるものはないからだ。

(3)「悟り」の矛盾 3段階の発展

 そうした大きな違いを確認した一方で、私は両者がやはり根本的な点で一致していることにも驚き、
その意味の大きさ、深さをかみしめることになった。
それはヘーゲルの矛盾の捉え方であり、3段階からなるその発展観である。
その考えは、仏教においても貫かれているように思った。

ブッダの人生は、次のような展開を示している。

 1)現実社会への絶望
 ↓
 2)ヨーガの教団で修行
 ↓
3)悟り(現実世界を全体の相関関係でとらえる)中道の自覚

4)49日間の悩み
悟りの内容については何も語ることなく一人生きるか、世間に布教するかで悩む
  現実社会に戻ることを決意(発心) ブッダがブッダになった時
 ↓ 
5)布教活動(現実社会に戻る)

ブッダは人間や社会の現状に絶望し、悟りを求めて修業した。そして35歳の頃に悟ったとされる。
しかし彼はその段階で大きな問題にぶつかり、49日間そこに止まった。悟りを自分だけのものとして終わるか、
それとも人々にそれを教え広める活動をするか。言葉は不十分であり、布教活動には必ず誤解やズレ、
人々の対立が引き起こされる。それをどう理解するか。
ブッダはその矛盾を引き受ける決意をし、布教活動を始め、80歳で亡くなるまでの50年近くを、人々の救済に身をささげた。
そこには、言葉は不十分なものだが、その言葉でしか伝えられないという大きな矛盾を自覚しつつ、それを受け入れ、
それと対峙していく覚悟と勇気と忍耐があったはずだ。その悩みの深さと覚悟や勇気がどれほどのものだったかは、
彼がその後亡くなるまでの50年間、うまずたゆまず、布教し続けた姿にはっきりと表れていると思う。
しかし、ブッダがその矛盾とどう向き合い、どう解決したのかは、本人が語ることはなかったようだ。
原始仏教の経典にはほとんど書かれていないと思う。
ブッダの教えは中道の教えだと言われる。しかしそれを足して二で割るような方法や、
バランス(これは偶然性の立場の言葉)として理解するのは、まったく彼の真意から外れるだろう。
中道の教えの対象も、世俗の現実世界と悟りの世界との矛盾としてだけとらえると違うだろう。それは何よりも、
内的にも外的世界でも分裂・対立・矛盾の自覚であり、そこから逃げないで踏みとどまり、それを克服していくように
との教えではないだろうか。言葉の不十分さ、それゆえの仲間同士での誤解や対立、この現実社会との対立が
避けられないことを自覚しつつ、その中に踏みとどまり、その改革に当たっていくという覚悟と実践。
繰り返される失敗と挫折を引き受け、それをも踏み越えて進む覚悟と実践。それがブッダの中道という教えだと思う。
それは静的で受動的なものではなく、動的で能動的な激しい生き方である。
しかし、彼の弟子たちは、その生き方をブッダの深さで理解することはできなかったので、小乗仏教と揶揄されるようになり、
それを克服するために大乗仏教が生まれ、中観派の「空」の思想が生まれ、唯識が生まれたのではないか。
 ブッダは、世界の根本的な矛盾を見ていた。その矛盾に耐えられない場合は、いずれか一方を取って他は切り捨てる
ことになる。ブッダは矛盾に耐えよ、そこで耐えて仕事をせよ、それが生きることだ、と伝えた。
 小乗では、その理解が浅かった。
 それに対して、大乗仏教が生まれた。
中観派の空は、ただの否定ではない。世界を存在するとも、無であるともしない。
その矛盾の中で、矛盾のままに生きることを求めているのが、空の立場である。
これはブッダの中道をより具体化したものだろう。
唯識の三性説も同じである。しかしそれにアーラヤ識の考えを導入することで、これをさらに空間的に全体性としてとらえ、
時間的に発展していく運動としてとらえようとしたのだと思う。
中観派も唯識派も、ブッダが見つめた矛盾を深めた。それが必然的に3段階の発展の形式として現れていくのが面白かった。

ブッダはその前半生で現実社会に絶望し、その後の厳しい修行によって悟りを得た。しかしそこに止まらず、
また現実世界への布教活動に戻った。
ブッダが若い日々に修業したヨーガ教団では、世俗世界に対して、厳しい修行による悟りの世界を対置し、
自分たちは教団内部に閉じこもり、現実社会への働きかけをしなかったのだろう。
しかしブッダはそれに同調できなかったのではないか。それでは聖なる世界と世俗世界とは対立し、
世界は両者に分裂するだけだからだ。この聖と俗との対立・矛盾もまた解決されなければならない。
現実社会には多くの矛盾があり、ブッダはそれに悩み苦しんだが、それらは悟りの地平で解決され、統一される。
しかし、それだけでは真の解決にはならない。それも突き詰めれば、聖と俗とが対立し、世界はより大きな分裂と
矛盾を抱え込むことになる。ブッダはそこに止まることを自分に許さなかった。聖と俗との分裂もまた解決され
なければならない。分裂が解決されないなら、現実世界はそのままに放置され、教団内部の矛盾、
対立もまた解決できないからだ。
ブッダは、現実社会の矛盾、対立の中に必然性と真実を見抜き、それを自他に対して、教団内部にも、
外部の現実社会にも実現していくことを求めた。そしてその運動の中にだけ、悟りの成就があると考えていたと思われる。
現実世界の矛盾、その自覚→悟り→現実世界の矛盾の克服、といった発展過程がここにある。
悟りとは現実世界が真の姿への成就することのための媒介項であり、現実世界が成就される中で、
その1契機となるものなのだ。この現実世界と悟りとの関係は、自然と人間、現実世界と人間の認識、
人間における実践と理論の関係と、本質的に同じなのではないか。
こうした矛盾の自覚と、その克服のために戦い続ける覚悟と実践。それはイエスでも同じだと思う。

イエスの人生は次のように展開する。

 1)現実社会への絶望=ユダヤ教とユダヤ人たちの社会への絶望
 ↓
 2)ヨハネに洗礼を受け、ヨハネ教団で修行  
 ↓
 3)「荒野の試み」
荒野で40日間の悪魔との対峙(すでにヨハネ教団を離れていただろう)
自分の思想を完成する
自分が矛盾を生きる、矛盾を外化させる使命を持っていることを受け入れる
   イエスがイエスになった時
 ↓ 
4)ヨハネの逮捕と殺害の後、布教活動(現実社会に戻る)

5)十字架にかかり亡くなる

ここにはブッダとよく似た経緯があるように見える。
イエスにも、世俗を離れた厳格なヨハネ教団での修行の期間がある。イエスもまたそこを離れ、自立するのだが、
その「荒野の試み」はブッダの49日間の悩みの期間と重なる。
イエスにはヨハネとその教団の教えが、現実社会を切り捨てるだけの抽象的で冷酷なものに思えたのではないか。
新約聖書にはカナの婚礼、イエスが結婚式に招待される明るい場面があるが、それはイエスの道がヨハネの対極
にあることを表現していると思う。
ヨハネは殺害されたのだが、それには有名な逸話がある。ユダヤ王国のヘロデ王が異母兄の妻を奪って自分の妻にした。
その律法違反を指摘し、激しく批判したのがヨハネであった。怒ったヘロデ王はヨハネをとらえて牢に閉じ込める。
殺さなかったのは、ヨハネに対する民衆の信望を恐れたからだ。しかし、ヘロデは娘サロメにそそのかされ、
ヨハネの首をはねさせ、それをサロメに贈り物とした。
こうしてヨハネは殺害されたのだが、これをイエスはどう見ていただろうか。ヘロデ王の問題だけではなく、
ヨハネ自身の欠落部分の結果でもあると、考えていたのではないか。
イエスはユダヤ教の改革を目指したのではないと思う。彼はユダヤ教を徹底的に相対化していた。
当時のユダヤ王国はローマ帝国の支配下にあり、そこはユダヤ王家とユダヤ教の僧侶たち、ローマ帝国の支配者
たちの権力闘争の場であり、民衆はさまざまな矛盾の中に生きていた。
そうした状況を、イエスは理解していた。そして当時の社会の矛盾の中で、少しでも真っ当に生きる生き方を
考えていたのだと思う。政治的、経済的、宗教的な対立と矛盾の中で、その矛盾が、人間社会の、人間が生きる
ことそのものの矛盾であり、人間社会のあり方に含まれる根源的な矛盾であると深く覚悟した。イエスがイエスに
なったのは、イエスがこの矛盾を矛盾として生き、その矛盾を明示することを自分の使命として自覚し受け入れた時
だと私は思う。それが「荒野の試み」だったのではないか。そして、その後、彼は自分の使命を真っすぐに生きた。
矛盾を激化させ、その矛盾が誰の目にも明らかになるように示し、死んだ。
その後、人々がその矛盾から目をそらすことができないようにし、その矛盾と闘うことを使命とするようにしたのだ。
イエスは、最後はヨハネと同じく殺害される結果になった。しかし2人の死の意味合いは全く違うと思う。
イエスは当時の社会矛盾にどう対峙するかを課題としていた。ヨハネにはそうした自覚も問題意識もなかった。
イエスは、ヨハネの考えでは世俗と聖なる世界が分裂し、その克服ができないことを自覚していただろう。
その克服への道を示すのが自分の使命だと覚悟していた。イエスは、ヨハネと自分の違いを自覚し、
自らの使命を受け入れ、それを生き、そして死んだ。
もし誰かがイエスに言葉の矛盾を指摘したならば、彼は笑って答えただろう。「言葉は矛盾をもたらすのだが、
そもそもの人間と現実社会が矛盾しているのだから、その矛盾は矛盾によってしか解決できない」と。
イエスもブッダも、同じようなことを私たちに求めている。しかしそれは厳しい生き方である。イエスですら、
死を前にして動揺し、繰り返し、神との対話を重ねている。そうしなければ自分を支えられなかったのだろう。
そうした厳しさに弟子たちが耐えられない場合、その使命から逸脱し、転落してしまうのではないか。
それが「宗教」なのではないか。

2.比較宗教学、比較思想

(1)比較思想の難しさ

卒論指導は、最初は比較思想の立場からカントと唯識を比較してお茶を濁す予定だった。
『仏教の比較思想論的研究』(東大出版 1980年)の中の東大の玉城康四郎の「カントの認識論と唯識思想」を
下敷きに、実際にカントと唯識を比較して、意見をまとめるという計画だった。
『仏教の比較思想論的研究』は、中村元、西谷啓治、堀一郎、玉城康四郎らを中心に設立された比較思想学会の成果を
基にまとめられている。梶山雄一、末木剛博、鎌田茂雄、上田閑照らの論考も掲載されている。
 この学会は、大学紛争後に設立され、仏教学という学問への反省の上に生まれたらしい。冒頭の玉城による序文を読むと、
その問題意識は伝わってくる。「仏教は長いあいだ独自の領域に閉じこもっていたために、その門戸を排方する
ことが至難である」。
また比較思想という方法の難しさも自覚している。本の原稿執筆は学会の「最長老の諸先輩」にお願いしたが、
その理由は「自らの学問領域に長年専念してきた果てに、おのずから関連の領域との比較が浮上してくる」という
「重厚な一面」があることを若い研究者に理解して欲しいからだと述べている。
比較宗教、比較思想という方法は、対象を他の思想や宗教によって相対化するというものだ。
しかしそこには根本的な矛盾がある。対象が巨大であり、それが体系的なものとなっている場合、
それぞれには明確な立場がある。それらを比較する際には、比較する側に観点が必要だが、それはどのように可能なのか。
2つの思想や宗教を比較する第3の立場は本当に可能なのだろうか。
しかし、そうした立場に立てない限り、観察者の比較はただ表面的で外的なレベルに止まる。
それならばおよそ意味がないだろう。そこにはただ偶然性、多様性があるだけだ。

そうした矛盾についてわかっているはずの玉城だが、その論考「カントの認識論と唯識思想」はあまりにも表面的で
機械的な比較に終始しており、つまらなかった。
西欧思想は西欧社会とその歴史の中で発展してきた。仏教もそうである。カントは18世紀であり、
唯識は4、5世紀である。その時代も社会もまるで違う2つの思想が、どのように比較できるのか。
その問題に、真剣に向き合っているように思えない。その問題で彼の従来の研究が壊されるほどのものがない。
それはおかしいのではないか。
彼は唯識とカントを比較するのだが、小乗から大乗、大乗内でも中観から唯識への発展を考えるなら、
西欧近代哲学史との比較をあえてすれば、中観に対応するのがカントであり、唯識と対応するのはヘーゲルであろう。
事実こうした比較は上山春平が『認識と超越<唯識>』で、『ゆかいな仏教』で大澤真幸が行っている。
2つの思想体系を比較する時、第3の立ち位置があるのだろうか。最初からそうしたものがあるわけがない。
私たちに可能なのは、いずれかの立場に明確に立って、その中に相手を位置づけようと努力することだけではないか。
唯識を西欧思想と比較して意味あることを言うためには、ヘーゲルの立場、カントの立場に明確に立ち、
相手を自分の体系の中に位置づける。または明確に仏教、唯識の立場に立ち、その体系の中に相手を位置づける
ことしかできないのではないか。
そして、そこで位置づけられないものにぶつかり、自分の思想と立場が壊されること、そして、より深まり拡大する
ことを迫られること。そこからだけ第3の、新たな観点が生まれる可能性があるだろう。
 玉城は実に中途半端であると思った。カントと唯識とを比較することで彼の何が壊されたのかがわからない。
その破綻と絶望の姿が見えない。

(2)『ゆかいな仏教』は自由にしてくれる

私が仏教とユダヤ教・キリスト教を比較して考える際に役立ったのは、橋爪大三郎と大澤真幸による掛け合い
漫才の『ゆかいな仏教』 (サンガ新書) だった。
この本を読んだのは、ユダヤ教、キリスト教を考える際にも、2人の『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)を
読んで参考にした経験から、何かが得られると期待したからだ。それは正しかった。
日本人である私には、仏教についてはそれが過去の歴史や社会で果たしてきた役割が大きく、すべての現象に関わっており、
そうした前提が大きすぎ、巨大な重しでがんじがらめに縛られて、何も新たに考えられなくなっている。
ところが、この本はその前提を大きく突き崩し、思いっきり外し、自由にしてくれた。
玉城との違いはどこから来るのだろうか。
目的がまったく違うだろう。『ゆかいな仏教』は現在の日本の大衆への問題提起のために発言している。
そのためには、玉城らよりは深く今の日本の現実を踏まえなければならない。そのために、2人にはやはり明確な
立場がある。橋爪にとってそれは社会学でありウエーバーであり、自らのキリスト教徒としての立場
(はっきりとは言わないが、橋爪は信者であるらしい。それを明示しないでいることは問題だと思う)だろう。
大澤にとってのそれは同じく社会学であろう。また、2人にはマルクス主義や唯物史観も前提である。
そうした前提の上で、2人に可能な限りで、前提破壊の作業をやってくれている。
この本はありがたかった。彼らが自由にしてくれた地平で、私の考えを思いっきり広げてみることができたからだ。
もちろん2人にはそれほどに切実な問いや答えはないし、彼らの代案はたいしたことがない。
しかし、それにこだわることはない。他と比べれば、その有効度は一桁違う。

(3)宗教と哲学や科学とは何が違うのか

今回読んだ多数の概説書の中で、宗教とは何か、哲学や科学とは何が違うのか、こうした根源的な問いを
出すものはなかった。これは不思議だ。
これには牧野紀之の答えがある(「宗教と信仰」)。違いは内容にはなく、形式のみ(疑いを求めるか、
信ずることを求めるか)とするのが牧野だ。もちろん、疑い続け、その中で確認され続けたことだけを信ずるのだから、
内容と形式は悟性的に区別できるものではない。牧野は過程的に区別できるとするだけだ。
最終的にはどちらも信念に到達するからだ。
途中の過程では疑い続け、にもかかわらず正しさがその都度確認され、ますますその教えの深さが理解できていける。
今後も、そうした過程が続くだろうと思う。その時に、それを信念とする。それはどちらも変わらないだろう。
そうなのだ。科学と宗教の区別はその内容とは無関係なのだ。
それでも、区別があるならば、それは形式面にしかない。私は、それは矛盾への態度であると考える。
私たちが矛盾の立場に自覚的に立ち、それを深めていくことを目指して努力し、実際に矛盾を深めていく限り、
それは科学的態度と言えるのではないか。そうでない限り、それは一面的になり、悟性的で、偶然性の立場に陥る。
こうした観点では、ブッダもイエスも科学的であり、宗教的ではない。
それを宗教にしたのは、その厳しさにたえられない弟子たちではなかったか。
                       2017年7月24日