4月 06

ヘーゲル論理学の「現実性」について私見をまとめました。
この論考の準備にとりかかったのは2015年の正月でしたから、それからもう1年以上も過ぎたことになります。
その経緯については「はじめに」をお読みください。
本稿は長いし、難しいと思います。「3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性」だけでも読んでみてください。
何かを感じてもらえると思います。

■ 目次 ■

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか 中井 浩一

はじめに
1.牧野紀之の改定案
2.牧野紀之の改定案への疑問と『弁証法の弁証法的理解』について
※ここまでを本日に掲載。

3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
(1)外的必然性
(2)内的必然性
(3)概念(自由)の生成
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
※ここまでを4月7日に掲載。

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情
※ここまでを4月8日に掲載。

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◇◆ ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか 中井浩一 ◆◇

はじめに

2015年の正月は、ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」を読むことになった。
牧野紀之がこれに言及しているのを読み、それに大いに刺激を受けたからだ。
第3編「現実性」はヘーゲル論理学の核心だと思うが、牧野はそれの改訂という大胆な提案を行なっていた。
私が刺激を受けたのは、その大胆さだけではない。
なによりも牧野の提案のナカミが、私の考えとはずいぶん違っていたのだ。
私はこの際、自分の考えをまとめたいと思った。

その論考は2015年の2月には一応書き上げたのだが、外的必然性と内的必然性の区別、特に内的必然性の
理解が不十分なことを痛感していた。
偶然性と必然性の関係については、これまでに論理学の該当個所を何度も読んで考えてきた。しかし、今一つ
分からないままにあった。それが15年の夏の合宿で、ハッキリとつかむことができたように思う。

ヘーゲルは、偶然か必然かを、自己の根拠を自己の中に持つか、他者の中に持つか、で区別している。しかし
本当の核心は、その根拠をその対象内に持つか、否か、なのだとわかった。
それは言い換えれば、「内に」か「外に」かであり、それは「自己の中」か「他者の中」かの違いと言える。
だからヘーゲルの表現は間違っていないのだが、私にはその表現ではわからなかった。それが今回はわかった。

例えば、ヘーゲルの『小論理学』第24節の付録3では創世記の失楽園の物語が取り上げられるが、そこに
「原罪があるから救済が必要だ」といった表現が出てくる。これは普通の言われ方なのだろう。しかしそれは
まさに偶然性の立場である。必然性の立場なら、「原罪の中にこそ、そこからの救済がある」と言わねばならない。
救済と原罪は別のものではない。相互外在的に存在するのは偶然性である。
悪と善も、別のものではない。悪でないこと、悪がないものが善ではない。悪があって、善もあるのでもない。
悪があるから善があるのでもない。悪の中にこそ、善はあるのだ。善の中にこそ、悪はあると言っても同じだ。
これは神がつくった世界の中になぜ悪があるのか、という問いとも関係する。神はなぜ悪を作ったのか。
この世界を、自ら発展して自己実現していく主体的なものとしたかったからだろう。偽や悪の中に、真理も善も
あるという、世界観だ。

こうして、1年がかりとなったが、2016年の正月に自説の骨格をまとめることができた。慶賀である。
それに肉付けしたのが本稿である。

1.牧野紀之の改定案

牧野のブログの「私の研究生活」(2014年10月24日)には以下が書かれている。
寺沢恒信訳『大論理学2』(本質論初版)の「付論」で寺沢は「〔本質論の〕再版が書かれていたらどうなって
いただろうか」という問題を立てた。寺沢の結論は「再版が書かれたとしても『現実性』は初版とほとんど違わ
なかっただろう」。寺沢がヘーゲルに追従的であるのに対して、牧野はヘーゲルの本質論初版の展開を批判し、
それに代案を出す。

第1章はスピノザ論だとし、それを第3部の最初に置いたのは「ヘーゲルとしては、スピノザの実体・属性・様態の
概念をどこかで扱いたいというか、扱わないわけにはいかない、と考えたのでしょう。しかしどこにどう位置づけ
たらよいか、自信が持てなかったので、ここに置いたのだと判断しました」。第1章を軽く見る点では、私も大きな
違いはない。

問題は第2章(可能性と現実性、偶然性と必然性)と第3章(実体性と因果性と相互作用)の順番と関係なのだ。
牧野は「再版でどうなったか」は分からないと断った上で、牧野なら第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に
三分し、最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く、と言う。そして、相互作用から
「世界の一般的相互関係」を引き出して、「概念(の立場)」を導出する、と述べている。

牧野が、必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く理由は、「ヘーゲルは因果等の必然的関係を
どうしたら証明できるかと考えた」からだ。そして、「カントの答えでは満足できなかったヘーゲルは、
『1つのものの2つの部分ないし側面』と理解しなければ『必然的関係』は証明できないと気付いたのです
(一番分かりやすい例を出しますと、作用と反作用は1つの力の2つの発現形態ですから、同じになるに決まっている
わけです)」。

牧野は自分の代案について、「要するに、『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』の第4節(この「第4節」は
「第2節と第3節」の間違いだと思う。中井)のように」するのだと言っている。この点を確認するために、
牧野の『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』も読んでみた。ここでは必然性に2種類あり、それは外的必然性
と内的必然性だとする。そして、外的必然性=相対的必然性=偶然性=可能性=根拠とし(「要するに、外的必然性
と偶然性と可能性と根拠とは、どれもみな、同じ一つの事態を別々の角度から見たものにすぎない」)、
それに内的必然性=絶対的必然性を対置する。外的必然性で考える立場は「悟性」=「有限な思考」であり、
内的必然性で考える立場が「理性」=「無限な認識能力」だとする。
「内的必然性とは何か。『AがあればBが結果する』というのが外的必然性であった。それは又『Aがあっても
同時にCがあればBは結果しない』ということでもあった。従って、或る事物の『内的必然性』とは、もはや、
或る対象の存在を前提してその原因を探るのではない。それの存在する必然性を追求するのである。或る原因が
あればその対象が生まれるだろうというのではない。その対象が自分の内なる本質によって『必ず生成する』と
いうのである。即ち『生成の必然性』である。だからこそ、それは又因果の必然性のような相対的必然性との対比
では『絶対的必然性』とも言うのである」。
「それはどのようにして可能なのか。もちろん、その対象と関係した全ての事柄を見る以外にない。
部分を見ただけでは、それの生成を妨げる他の要因を見落とす可能性があるからである。しかも、『全体を見る』
と言っても、それを『静止した全体』としてではなく、『歴史的に発展する統体』として見なければならない。
即ち、歴史的な見方であり、同時に一元論的な考え方である。二元論や多元論では或る事柄の生成の必然性は
絶対に証明できない。従ってヘーゲルの弁証法はその本性そのものによって相対主義や多元論とは無縁である」。
以上が牧野の説明である。

2.牧野紀之の改定案への疑問と『弁証法の弁証法的理解』について

外的必然性と内的必然性の理解において、私は牧野には賛成できない。それについては後述するが、
『弁証法の弁証法的理解』を読み直して、その叙述方法にも疑問を感じた。その叙述が悟性的なものではないか
ということだ。必然性に2種類あることを述べ、外的必然性に内的必然性を対置する。しかし本来は、外的必然性
から内的必然性を必然的に導出するのが「生成の必然性」にかなった展開ではないか。4節の能力の話も、3節までの
展開からの必然的な導出になっていないと思う。
それは牧野が「私の研究生活」で示した代案でも同じで、そこに発展の論理の説明がないのは不十分だと思った。
それでいて、突如として「発展」という用語が出てくる。「『全体を見る』と言っても、それを『静止した全体』
としてではなく、『歴史的に発展する統体』として見なければならない」。これは恣意的で偶然的な叙述であり、
必然的な展開ではない。

「私の研究生活」の代案でわからなかったのは、牧野の2つの必然性の理解と、第3編「現実性」を「偶然性」
と「可能性」と「必然性」に三分し、最後の「必然性」の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く
という考えの関係だ。外的必然性=相対的必然性=偶然性=可能性に、内的必然性=絶対的必然性を対置する牧野は、
第3編「現実性」の「偶然性」と「可能性」をどう展開するのだろうか。その両者が外的必然性を成しているなら、
内的必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くことになろう。しかし因果性を牧野自身は
外的必然性=相対的必然性としている。牧野の提言の内容がよく理解できない。

それにしても、今回『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』を見て、「2014年版」とあるのに驚いた。
旧版の「弁証法の弁証法的理解」は、1971年に『労働と社会』に収録され、その30年後の『西洋哲学史要』
(波多野精一著、牧野再話。未知谷刊、2001年)にも転載されている。30年間、その基本の考えに変化がないと
いうことだろう。それが今回改訂された。「2014年版」は「特にその第四節に満足できなく成りましたので、
そこを主にして書き換え」たものだという。
何が変わったのかが気になり、旧版との違いを確認した。内容は大きくは変わっていない。2節と3節がそれぞれ
外的必然性と内的必然性に対応しているのは同じだ。最後の4節に「能力としての弁証法」を詳しく書いたのが
大きな変更点だ。ついで3節の内容が詳しくなっている。
私は旧版をこれまでに何度も読んできた。この約40年も前に書かれた文書の内容が、今も大きな変化なく、
牧野の基本的立場の宣言書であり続けていることにまず感心する。それほどに、牧野は早いうちから完成していたのだ。
それは逆に言えば、その後に大きな変化・発展がないとも言える。しかし、2014年版を出したことは、今も改訂
し続ける姿勢を持っていることを示す。

なお、「私の研究生活」で、牧野はヘーゲルの「現実性」における「実体」と言う用語にも言及している。
「この『現実性』には2つの『実体』が出てきます。これをどう考えるかも問題ですが、そう難しくはありません。
スピノザ的実体は、『宇宙の実体は何か。物質的なものか精神的なものか』といった場合の『実体』です。
これを『宇宙論的実体』と名付けましょう。もう一つの『実体』は『機能』に対立する実体です。機能や性質の
担い手としての実体です。Substanzen(諸実体)という複数形が出てくるのはそのためです。これを『個物的実体』
と名付けましょう」。
こう指摘されると、私にはこの区別があいまいだったことがわかる。ここからは学んだ。

つづく。

3月 29

4月以降のゼミの日程についてはすでに連絡しましたが、
5月には集中ゼミ(5月7日、8日)をおこなうので、
5月14日(土)に予定していた文章ゼミと「現実と闘う時間」は中止にします。

また4月読書会のテキストが決まりました。

ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.4月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
4月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

5月の集中ゼミ(5月7日、8日)

5月28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

                                        

2.4月の読書会テキスト

昨年秋から行ってきた聖書の読書会のまとめをします。

テキストは
(1)『新約聖書』(日本聖書協会 新共同訳)の「パウロ書簡」から「ロ?マ人の信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙 1」と
(2)『ふしぎなキリスト教』橋爪 大三郎、大澤 真幸(講談社現代新書)です。

『新約聖書』(日本聖書協会 新共同訳)の「パウロ書簡」は、キリスト教そのものです。その「ロ?マ人の信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙 1」は3月の読書会でも取り上げましたが、再度、丁寧に検討したいと思います。
特に「ロ?マ人の信徒への手紙」の2章、3章、7章と、「コリントの信徒への手紙 1」の13章を読んで考えてください。

『ふしぎなキリスト教』は、まとめに良い本です。
基本的なこと(普通は大前提で問われることがない)へのたくさんの突っ込みがあり、
論点が多く出されています。
その論点は、旧約と新約聖書についてよく考え、整理した上で出しているので、それ自体から学ぶことが多いです。
これらの論点に対して、自分の考えを出すことで、まとめにしたいと思います。

2月 29

高校作文教育研究会4月例会

今回の例会では3つの柱があります。

1つめは、(やや)長い間のことを書く意義と手立てについて、古宇田さんが報告します。
古宇田さんは、「自分史と聞き書き、この二つをすべての高校生に書かせたい」と思っているのですが、
その自分史や自分の経験を描写する文章形式の問題を考えます。

2つめは、鶏鳴学園で私(中井)が指導した、進路・進学に関する授業実践を報告します。
この問題は、どなたも取り組んでいる大きな課題だと思います。
参加者の皆さんの取り組みなども話し合えたらと思います。

3つめは、文科省が導入しようとしているアクティブラーニングについてです。
これは重要な問題なので、古宇田さんからの報告を受けて、参加者全員で現状を話し合いましょう。

どうぞ、みなさん、おいでください。

1 期 日    2016年4月3日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
 ? 03?3818?7405
 FAX 03?3818?7958
ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/
       ※鶏鳴学園の地図はホームページをご覧ください

3 報告の内容

(1)  (やや)長い間のことを書く意義と手立て
茨城県  古宇田  栄子

自分史と聞き書き、この二つをすべての高校生に書かせたいと思っている。
それができたらどんなに大きな教育的効果があがることだろう。
日本中の高校生が取り組んだらステキだね。そんなことを夢に見て、
今回は、(やや)長い間のことを書く意義と手立てについて、
私の初めての実践(1973年、教師2年目)を手掛かりに、次の5人の実践を分析してみたい。

?やや長い間のことを書く意義や、自己の変化・変容へ向かう手だて(中俣勝義)
?自分の本当の思いをわかってほしいと願って書く(工藤ふみ)
?自分を知り、生き方を考える生い立ちの記(山野みさこ)
?仲間と出会い、自分に向き合う(藤田美智子)
?生徒とともに「生きづらさ」を考える―Y君の自分史―(宮尾美徳)

この5本の実践記録は、「作文と教育」2016年1月号特集に書いてもらったものである。
特集のテーマは「やや長い目で見ることで、自己の変化・変容をとらえる」、私が企画編集したものだ。分析することで多くを学ばせてもらいたいと思っている。
「作文と教育」2016年1月号をお持ちの方は読んできてほしい。希望者には当日販売します。

(2) 進路・進学を考えるために
東京都  鶏鳴学園  中井 浩一

若者たちが将来の夢や志望をはっきりさせられないことが問題になって久しい。
鶏鳴学園でも、この問題に取り組んできた。
今年度の高校1年生のクラスでは、今年の1月から2月に掛けて、進路・進学をテーマにした授業を行った。
最初に各自が進路・進学での夢や現状を報告し、意見交換をした
進路・進学問題への具体的取り組み方についての私からのアドバイスも話した。
その後、それらを参考にしながら、各自の進路・進学に関する作文を書いてもらった。
その作文を皆で読み合い、また意見交換をした。
その授業の報告をする。

(3) アクティブ・ラーニングの現状と課題
茨城県  古宇田  栄子

2014年11月、文科省は中教審諮問にあたって、2016年度全面改訂、2020年度本格実施される予定の学習指導要領について、
初等・中等教育(幼稚園?高校)でのアクティブ・ラーニング(能動的な学習)を強く推進する方向性を打ち出した。
アクティブ・ラーニングとは、先生が一方的に知識を伝授するのではなく、
子どもたちが協力し合って課題の発見と解決に向けて調べ、議論し、学ぶ能動的な授業形式のことである。
大学で広がり、小中高校にも急速に導入されつつある。

これって、好機到来? 喜んでいいの? この方針の背景は何? 高校は本当に変われるの? 大学入試改革と大学入学希望者学力評価テスト(仮称)はどうなるの?
今、たくさんの問題が高校を取り巻いている。皆さんの学校にはどんな変化が起きているのか。
ざっくばらんに話し合うことで問題を整理し課題を見出したいと思っている。
資料は可能な範囲で用意します。

4 参加費   1,500円(会員無料)

2月 27

梅が咲き、早桜も咲き、春が近づいてきました。

4月から8月のゼミの日程が決まりましたから、それをお知らせします。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。
申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

読書会テキストは決まり次第、連絡します。

1.4月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
4月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

5月の連休中に集中ゼミを予定(4月29日、30日か、5月7日、8日)
希望者は前もって連絡ください。

5月14日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

2月 26

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

その学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

※以下、昨日のつづき。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子 
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

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◇◆ 2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子  ◆◇

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)学習会
                      (第1回、2015年11月8日)
 
「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指す。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。
しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、
いつもどこか不機嫌という家庭像、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、
しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。
それは、本書でこの問題の本質としている、「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、
親から継承してきた人が少なくない。
そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。
しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題をどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
私たちは、まず自分自身の問題に取り組むしかない。子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

(1)生きる目標の問題が核心
初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。
まさにそこが本丸ではないだろうか。
今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、
まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

問題のない家庭を目標とする生き方
学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。
私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。
ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。
しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。
そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には
何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の無気力には、そういう意味もあったのではないか。
問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

家族の幸せを目標とする生き方
別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。
夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、
彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。
そういうことが共依存だが、共依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくという
よい連鎖になるなら、共依存は悪いことではない。また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、
葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。
確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、
依存し合って生きるものである。「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、
人間が生きる醍醐味である。
彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということを
よく考えてこられたのだろうと感じた。子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。
同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事だったんじゃないか
という不安を話された。
子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。
しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

社会的な観点を持つ生き方
 私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。
 さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。
社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

(2)親による無意識の刷り込み
 『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。
「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、
これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、
親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」
 
 私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
学習会で、それに対して、何故私が違和感を持つのかをいう疑問が出された。
親の立場としても、子どもの立場としても、とても重要な箇所だ。
私が「強制する」という言葉に違和感を持つ理由は、親が「世間の基準」が自分自身の基準ではないことを意識し、
さらに、子どもにそれを押し付けていることも自覚したうえで「強制する」ことを意味しているように感じられるからだ。
しかし、実際の「やさしい暴力」とは、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、
それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。その基準に従う以外に、
親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。
確かに、それは正に、子どもにその中で生きることを強いる、「強制」だと言える。親にその全責任があり、
子どもにはそれ以外の人生を選ぶ能力がないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親が自らの子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから
遠ざけると感じる。親は、自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まるのではないか。
また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。
中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。
しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと
考えなければ、一歩も前に進めない。生まれたときから毎日毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、
「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。
そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、
私も含めて誰もが背負っている。
 だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

────────────────────────────────────────

◇◆ 3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子 ◆◇

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)学習会
(第2回、2015年12月13日)

私たち大人の「ひきこもり」
                                 
今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70?80万にも上るという
社会問題について学ぶためだけではない。
まず、この問題が、私たちの子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。
一言でいえば、親子の一体化の問題だ。そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、
子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾があると言える。親として、子どもに何をどう指導し、
また子どもの自主性、主体性をどう尊重するするのかという問題は、子育ての中で日々直面するものではないだろうか。

また、子どもの「ひきこもり」増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、
私たち自身を振り返るためのテキストだった。まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、
あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。
斎藤は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を
失うという問題を指摘している。特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する
(=ひきこもる)父親の問題だ。ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化に
つながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。
また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中に
ひきこもっているという見方もできるという意見が出された。主婦が成長の機会に乏しいのではないかと
いう問題提起だったと思う。
私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。多少の仕事や付き合いはあっても、
子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。
20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。
私が授業で接する中学生たちも同じだ。「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が
至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。
私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会を
つくったのではないか。その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの中で生きた昔の人たちも、個人がバラバラでもとりあえず
生きていける私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきた
のではないだろうか。
人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここから
つくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。さて、それはどういう生き方なのか、
それが私たちのテーマだ。