12月 01

昨年の秋から今年の春まで、アダム・スミス著『国富論』とその関連の書物を読んだ。
そのための読書会は5回行った。準備として高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)を読み、
『国富論』は3回かけて通読した。そして最後にまとめとして、マルクス著『剰余価値学説史』から
アダム・スミス論(第3章と第4章)を読んだ。学ぶことが多かった。それをまとめる。
 なお、『国富論』のテキストには中公文庫版を使用した。訳注に共同研究の成果が出ており、
岩波文庫版と比べると、用語や訳語、スミスの叙述への批判や疑問が率直に表明されている点を評価したからだ。
『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。全部で3巻からなるが、1巻、2巻、3巻をそれぞれ
【1】、【2】、【3】とし、1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
 マルクスの『剰余価値学説史』については国民文庫版を使用した。スミスの『国富論』と区別できるように、
1巻、2巻をそれぞれ《1》、《2》とし、1巻の15ページなら《1?15》と表記した。
 引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、中井が補った箇所は〔 〕で示した。

■ 全体の目次 ■

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ  中井浩一 (2014年11月7日)

第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる
→ ここまで本日、12月1日に掲載

第3節 アダム・スミスとその時代
1.スミスの課題
2.スミスの人生
3.スミスの能力
(1)全体を見る
(2)ダイナミズム 運動を運動として
(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法
→ ここまで12月2日に掲載
(4)発展的にとらえる
(5)時局問題への対応
(6)平易なわかりやすさ
→ ここまで12月3日に掲載

第4節 『国富論』の篇別構成
第5節 スミスの経済理論
(1)分業と交換
(2)「人間分子の関係、網目の法則」
(3)欲望の全肯定
→ ここまで12月4日に掲載

第6節 国家の発生から近代国家が生まれるまで
(1)狩猟採取→牧畜→農業
(2)国家の発生
(3)産業構造の発展と王権の拡大
(4)近代国家の成立
→ ここまで12月5日に掲載

第7節 歴史と先人から学ぶこと
1.「労働商品」という矛盾
2.不生産的労働と生産的労働
3.矛盾から逃げない人
4.歴史から学ぶ 過去の遺産を継承発展させる
5.工業化の時代という限界
6.「学者バカ」マルクス
→ ここまで12月6日に掲載

────────────────────────────────
■ 本日分の目次 ■

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その1)  中井 浩一

第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる

=================================

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ 
  中井 浩一  

第1節 圧倒的な面白さ

 そもそも、『国富論』を読む目的は何だったか。
それはマルクスにとっての前提が何だったかを確認することだった。
マルクスの『経済学批判』や『資本論』を読みながら、マルクスが批判しながらも依拠している
アダム・スミス著『国富論』を読まないと先に行けない思いに駆られた。

 それは以前からそうだったのだが、長大な『国富論』に怖気づいていた。
一方で、マルクスを読んでわかった気になっていて、読む必要がないとも思ったし、
また読んでもつまらなそうな感じがしていたのも事実だ。

 しかし、マルクスを深く理解するには、スミスとマルクスのどこがどう違うのか、
スミスとの関係はどうなっており、マルクスの独自性はどこにあるのか、それらを知ることが必要に思えた。

 そこで恐る恐る読んでみた。つまらなければ、また読む意味がないと思えば、
『国富論』の読書会は1回で終わりにするつもりだった。

 ところが面白い。断然面白い。圧倒的に面白い。経済学書がこんなに面白いとは思わなかった。
これまで読んだ経済学書中で、文句なく一番面白かった。

 それは欲望と野望に燃えるビビッドな人間たちがうごめいているからだ。彼らは出世や金儲けに奔走し、汲々としている。
それに対して、スミスは道徳やお説教を垂れることはしない。辛辣だがリアルな認識を示して見せるだけだ。

 欲ボケの人間たちは、笑い、怒り、悲しみ、唸りながら、最後はスミスの示す真実を「かなわないなあ!」と受け入れるしかない。
私たちはここでリアルな物の見方や考え方を学んでいるのだ。
それは難しく言えば、マルクスの唯物弁証法、唯物史観とよく似たものだ。

 しかも、それはまるでエッセイを読むような読みやすさなのだ。
専門家相手の論文調ではなく、しちめんどくさい数値や統計などもほとんど出てこない(付論とかにあるだけ)。
あきらかに読者として想定されているのは、エリートだけではなく、中産階級の大衆たち(後に資本家に成長する人たち)である。

 欲ボケの人間の真実を、これほどのわかりやすさで、まるでエッセイのように書き流してみせるスミスには驚嘆する。
これに比べると、マルクスは大衆にはとても読めたものではない。
だからエンゲルスによる通俗化の作業(たとえば『空想から科学』のパンフレット作成)が必須になった。

 さて、当初の問いだった、マルクスとの関係だが、
マルクスにあった重要な観点のほとんどすべてが、すでにスミスにあることを確認できた。
マルクスのオリジナルは唯一、「剰余価値」の発見だけではないか。
それは大きな一歩ではあるが、一歩でしかない。スミスの巨大さは、マルクスをほとんど飲み込むほどのものだった。
その確かな巨大さの上に、マルクスの世界は構築されている。

 スミスは大きな人だな?!というのが読後感だ。そこから説明してみたいと思う。

第2節 近代の総体をとらえる

 スミスは経済学の創始者である。経済学はそれまでの政治学の一分野から分離・独立したのだ。
そうした1つの学問の創始者、時代を画する思想の創始者、そうした人には大きく豊かなものがあるに決まっている。
アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり、関口存男しかりだ。
そうした大きさ、豊かさを実感しておくことは必要だ。それで初めて「小ささ」「貧弱さ」を理解できるからだ。

 しかし、スミスの大きさは単なる創始者としてのものだけではない。
その「大きさ」は何よりも、スミスが向き合っている近代社会そのものの大きさから生まれている。
スミスの凄みとは、近代社会をその根底でとらえている点であり、彼の大きさとは、その近代の大きさそのものだ。

 近代は、西欧世界が海外に進出し、その植民地を世界中に拡大して世界が一つになるまでになった時に始まる。
それが可能だった原因は、その経済力にあり、それは全世界を支配できるほどに巨大化していた。
人間の欲望をかぎりなく拡大していけた時代であり、
経済力が政治から文化までのすべての分野を動かす原動力になった初めての時代である。
しかし、一方では対立や闘争が全世界規模に拡大した時代でもある。
国内と海外が常に1つになって運動し、たえざる動揺と混乱の危機の時代でもあった。

 だからこそ、経済学の政治学からの独立が求められ、
経済中心の物の見方、しかも対立・矛盾を直視したダイナミックな見方(唯物弁証法)が生まれたのだ。
世界が一つになり、他文明との衝突を経験すれば、全体の意識と全体から見た自己相対化が始まる。
世界を支配するまでに巨大化した自己自身の意味を、歴史的に、発展的に考える発想(唯物史観)が生まれる。
その全体的な見方の上に、スミスは近代をとらえようとした。
それは近代という時代が、自らを全体的な世界として示し始め、人間の欲望が人間を突き動かし、
世界を経済が根底から動かすものになったということだ。

11月 21

拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書(2009年2月20日初版)が増刷され第5刷になりました。

今回の増刷にあたって、間違いを訂正し、表現をいくつか直しました。

48ページ
最初の図で
             そこ(古典)で言われていることじたい ×
古典が偉大な(理由)は
             そこ(古典)で言われようとしていること○
             =それ(古典)が私たちに投げかける志向性の影

は(によって)を3か所加えてください。以下です

             そこ(古典)で言われていることじたい(によって) ×
古典が偉大な(理由)は
             そこ(古典)で言われようとしていること(によって)○
             =それ(古典)が私たちに投げかける志向性の影(によって)

78ページの図では

自己を 国=統一国家 として  画する(閉じる)

これを以下に
                画する(=閉じる)

163ページの図は

[仮説を検証する段階]仮説 → 仮説から導かれた、事実(現象)に関する結論(推測)

を以下に直しました。

[仮説を検証する段階]仮説 → 仮説から導かれた結論が、事実(現象)と一致するか否かを確認

また162ページの文章を直しました。【 】部分を加えました。

となるでしょう。ここに【現象から仮説、仮説から現象という】、両方向の矢印が現れることに注意してください。実はこれが媒介なのです。
ところで、ここで仮説と現象は、いったいどちらが「根拠(原因)」なのでしょうか。読者の皆さんは、当然のように現象が根拠で、それによって仮説が形成されたと考えるでしょう。しかし、ではその仮説の真偽を検証する段階ではどうなるのでしょうか。仮説から導かれる現象【(結論)】を予測し、その結論が実験などで【実際が現象と一致するか否かが】検証されます。この「仮説から導かれる現象」とは、仮説を根拠にして現象を導き出しているのではないですか。

246ページは

「立体的構成」の(1)のマル2の
「環境説の極限の言説」を

「遺伝説の極限の言説」
に正しました。正反対のママになっていました。

以上について直しました。

他にも問題になる箇所、わかりにくい個所があることでしょう。
読書からの御意見をお待ちします。

10月 28

高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる」で次のように説明する。
「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。
時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、「あるべきようわ(何か)」である。
「ある」=存在を問うことが生き方(当為)を決める点が真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。
「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、
存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

10月 08

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その5) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
4.大衆社会の到来
5.時代の代弁者たち
==============================

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

4.大衆社会の到来

 しかし、桑原や梅棹らを含めた今西たちのグループが、
大学や学会全体の中で主流になったわけではない。
ただ、高度経済成長下の大衆から圧倒的に支持された。
アカデミズムからは煙たがれたが、財界人や政治家たちからも強く支持された。
こうした現象をどう考えたらよいのだろうか。

それは大衆文化の勃興、大衆消費社会の到来を意味する。
高度経済成長下で小金持ちとなった「中流」社会の大衆は、
文化的にも高いレベルでの「面白い」読み物を求めるようになった。

すべてが商品として現れる時代、衣食住レベルだけではなく、
文化的生活のレベルまで、上級の知識や学問までが商品化される時代に
入ったのだ。

そこでは小難しい理屈を振り回し、「専門用語」でしか
語れない文化人は不要だ。市井の言葉で、総合的な視点でものを言える
研究者が求められるようになった。
他人の言葉ではなく、オリジナルな自前の言葉で語れる研究者が。

桑原や梅棹らは、その流れを確実に読んでいた。そしてその流れに乗って、
それを拡充しようとしたのが彼らだ。「文化」が商品になり、
それが売れる時代が来る。それが彼らに分かったのはなぜか。
それをわかる感覚が、彼ら京都の文化人にはあるからだろう。
彼らの先祖は町衆であり、武士階級出身の文化人とは違い、
時代を見抜く目と商才があるのだ。「商才」をバカにすることなく、
そこに文化的能力を正当に評価できるのだ。
それが彼らの学問を他と違うものにしている。

5.時代の代弁者たち

 なぜ彼らに対して、大衆や財界や政界の一部からの熱い支持があったのか。
それは彼らが時代の代弁者、伴走者だったからだ。彼らの学問には、
敗戦後の復興をささえた大衆への励まし、勇気づけがあったのだ。
自信を失った彼らに日本人の誇りを回復させ、もう一度復興に向けて
立ち上がる勇気や覚悟を促すような力があった。

 敗戦は明治維新後に匹敵する日本の危機だった。敗戦ですべての権威が崩壊し、
空虚さが覆い尽くした。アメリカ占領軍の近代化方針は、日本に外から
押しつけられたもので、国民の内発的で自発的なものではない。
明治の夏目漱石が直面した危機的精神状況がそこにあった。

その時、いくつかの光を放ったグループがあったが、その1つが今西たち
だったのだろう。彼らは、近代文明と伝統の両面をかかえもっていた。
彼らには、日本人の誇り、日本人の原点 京都文化の誇りがあった。
失われた濃密な師弟関係 友情関係と師弟関係があった。

そして彼らはまさに日本の高度経済成長を代弁したのではないか。
彼らの中で、高度経済成長そのものに言及した人はいない。
直接にそれに関わった人もいない。しかし、事実上、また結果的に、
日本の戦後の方針や高度経済成長を擁護し、支援してきた。

今西の「棲み分け理論」は、日本が敗戦後に軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進したことを擁護するだろう。
結果的にこの「棲み分け」が大成功だった。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」はヨーロッパと日本の文明としての
同一性を強調し、日本の戦後の復興を当然のこととした。そして
自らその企画に参加した万博は、戦後、高度経済成長を成し遂げ
アメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つ
イベントとして開催された。

彼らは時代が求めるものを提供し、その見返りを得た。そう言えるだろう。
しかし彼らにできなかったことも、今日では明らかである。
彼らは時代の代弁者、伴走者であり、さらには時代をリードしたが、
時代を根底から批判し、それを越える観点を出すことはできなかった。
それは彼らの学問が、絶対的レベルでは低いものだったからではないか。

今西の理論的な不十分さは、彼らのグループ全体において言えることである。
共同討議や共同研究には明確な限界がある。そのレベルは討議のメンバー中の
最高者のレベルに規定され、それを超えることはできないということだ。

今西の「棲み分け理論」のように、日本は軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進した。しかしその成果が出た今、
そのつけが回ってきている。
中国や韓国との歴史認識問題の解決が見いだせない。

梅棹が関わった日本万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」だった。
しかし「進歩」は必ず対立・矛盾を激化する。それを解決するのは
「調和」ではない。梅棹は『世界の歴史』河出書房版の最終巻『人類の未来』も、
ついに完成させることができずに終わる。
これは根本的に、梅棹が「発展とは何か」に回答を出せなかったということだ。

こうした彼らの未解決に終わったすべては、今を生きる私たちの課題である。
私たちはそれを引き受けて、その先に行かなければならない。

                          2014年7月2日

10月 07

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その4) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
1.逆転
2.桑原武夫の功績
3.文明論の大家・梅棹忠夫
==============================

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

1.逆転

 第2節では、今西理論の根源性とその限界の両面を見た。
私は今西の限界も指摘するが、それは絶対的基準から言うのであって、
今西が当時の世界基準において屹立した生物学者であったことは間違いがなく、
今回、本書を読むことで、その巨大さ、重厚さから学ぶものが多かった。

それにしても驚くのは、当時の日本で、ここまでの巨人がいたことだ。
そうした突出した研究者は、当時の学界にあっては孤立し異端的な
位置にいた。傍系とされ、無視されていたのだろう。

しかし敗戦後、逆転が起こる。すべてが灰燼に帰した中からの
日本社会の復興と高度経済成長の中で、傍流だった今西や今西グループは
脚光を浴びる。今西および彼の門下生たちは、戦後の日本の学術調査や
研究はもちろんのこと、さらに広くマスコミやジャーナリズムの分野でも
大活躍をした。今西は岐阜大の学長になり、1979年には文化勲章を受賞している。

こうした逆転を端的に示すのが、『生物の世界』だ。
その最初の刊行から30年後に講談社文庫として刊行されたのが
1972年。そして今もそのまま文庫で入手できる。
私が読書会のために購入した文庫本の奥付には
2010年12月1日印刷で第26刷とある。
こうした学術的な内容の本で、これほどのロングセラーは
他に存在しないのではないか。
いったい何があったのだろうか。

2.桑原武夫の功績

 もちろん、今西の学問の巨大さ、根源性、その真っ当さがあった。
それは大前提である。しかし、それゆえに異端で傍系とされていたのでは
なかったか。それが中央に躍り出たのはなぜだったのか。

それには、戦後の時代の大きな転換と、その流れを的確にとらえて
それをリードした人間が、今西グループにいたということが大きかった
のではないか。

その役割を果たしたのは、桑原武夫と梅棹忠夫である。

桑原武夫(1904年?1988年)は戦後、京都を中心とする学者たちの
中心的存在として、戦後のさまざまな社会問題や文化的問題への
発言で、主導的な役割を担った。

桑原は今西の親友であり、ともに京都の山岳会を作り上げた盟友
でもある。その登山の方面では、戦後の1958年に京都大学学士山岳会の
隊長として、パキスタンのチョゴリザへの登頂を成功に導いている。

 学者としては、共同研究という画期的なシステムの開発し、
実現したことが大きい。京大人文科学研究所(人文研)の所長として、
さまざまの分野の研究者を組織することにより、総合的な広がりを
持った研究を実行し、多くの実績を残した。その中に、
『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)
などがある。

 これは従来のアカデミズムの方法を打破する画期的なもので、
文系も理系もすべてを総合して学際的な学問をめざすものとなっている。
この共同研究の方法は明らかに、今西グループの登山や探検の活動方式
から必然的に出てくるものだろう。

桑原のすごさは、この共同研究者に多様な分野から、その所属に
関わりなく逸材を招集したことだ。梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、
鶴見俊輔、多田道太郎らがそうだが、こうして、人文研では
多様な分野の多重的なネットワークの構築に成功した。
そしてそのネットワークから、新たな試みが多数生まれていった。
たとえば、鶴見が作り上げた『思想の科学』という雑誌の同人には
梅棹忠夫らも参加している。

桑原の凄さは、こうした人文研のメンバーに今西までを取り込んで
いたことだ。無給講師だった今西は、1950年に人文研に
有給の講師として移動。65年の定年まで在籍。今西は研究所に
社会人類学の部門を創設し、梅棹忠夫、岩田慶治、中尾佐助、
上山春平、佐々木高明、谷泰、米山俊直らと共同研究を行なった。
伊谷純一郎、吉良竜夫らも時々参加したらしい。

桑原は学問の世界だけではなく、ジャーナリズムの方面でも
近代化をめぐる根本的問題提起を次々に行い、大論争を巻き起こして
いく。「第二芸術論」が典型だが、日本の前近代的なあり方を
独自の視点から批判するものが多く、そこでは、思想だけではなく
感性的な領域をも視野に入れていた。桑原は近代主義者だが、
同時に伝統主義者でもあり、共同研究や共同討議方式を可能に
したのは、京都の知的サロンの伝統だったはずだ。

また彼は出版ブームの火付け役でもある。岩波書店、中央公論社等の
出版社との連携も強く、『文学入門』、『日本の名著』など、
新書のベストセラーを生み出している。

3.文明論の大家・梅棹忠夫

 この桑原が開拓した方面をさらに発展させたのが梅棹忠夫
(1920年?2010年)だ。彼は、探検のチームメンバーとして
今西に徹底的にしごかれて育った研究者だ。今西と同じく
生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、
比較文明論に研究の中心を移す。日本における文化人類学の
パイオニアであり、情報社会論や未来学などの梅棹文明学とも
称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えた。

今西のような巨人には多様な側面があり、それを多数の弟子筋が、
それぞれに分業的に引き継いでいくのだが、今西の根源性や射程の
広がりを受け継いだのは梅棹である。今西の研究が人類の誕生から
現代までを射程に入れているのに対して、梅棹はさらに現代から
未来までを視野に論理を展開しようとした。

梅棹は同時に、桑原の弟子でもあり、論争的な著作を数多く発表し、
それが時代に大きな影響を与えた。鶴見俊輔らと『思想の科学』の
同人としても活躍し、生活の中の思想を展開した。
1957年「女と文明」を書いて「妻無用論」を唱えた。
これが「主婦論争」の始まりとなった。

また共同討議方式の応用では、1961年から10年ほど、
新聞紙面上で日本社会の文化や歴史上で多数の問題提起を重ねた。
それらは『日本人の知恵』『新・国学談』『日本史のしくみ』など
として出版されてよく読まれた。

今西との調査隊で行ったモンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、
生物地理学的な歴史観を示したのが『文明の生態史観』
(1957年に雑誌に発表。1967年に本としての刊行)。
西欧と日本が同じ生態系に属し、そこに日本が近代文明の
担い手になる使命があることを論じたもので、大きな反響を呼び
論争を巻き起こした。

1963年には『情報産業論』を発表。未来の「情報化社会」の在り方
からその課題まで、文明論的な観点から大きな見取り図を示した。
そもそも「情報産業」という言葉の名付け親は梅棹である。

また、フィールドワークや京大人文研での共同研究の過程で
開発された具体的方法論をまとめた『知的生産の技術』
(岩波新書 1969年)は爆発的に売れ、長くベストセラーとなった。

梅棹のすごさは、文明論的にみた時代の発展と現代の意味を、
自らの社会的活動で実際に生きてみせた点だろう。

こうした桑原や梅棹らの活躍の背後には、1960年代から
70年代にかけての全世界の大転換があった。
日本に「反乱」「反抗」の嵐が吹き荒れた時代だ。
学問が根源的に問い直されることになり、
従来の狭いアカデミズムを越えた学問が求められた。

生き方と1つになった学問、縦割りの「タコつぼ」ではない
総合的な学問、西欧の物まねではないオリジナルな学問、
わかりやすい言葉で語られる学問、そうした普遍的な魅力を持つ学問。

それが求められた時、今西らが脚光を浴びたのは当然だったろう。
今西たちは従来のダメな学問への代案として、大衆や学生らに
熱く支持された。私もその熱狂的な支持者の群れの中にいた。

そうした流れの中で、今西への評価の高まりと
『生物の世界』の復刻出版もあったのだ。

当時は文庫や新書だけではなく、シリーズ物のブームがあった。
『世界の歴史』『日本の歴史』『世界の文学』『日本の文学』
『世界の思想』『日本の思想』といったタイトルのものだ。
そして、そうした1つ、『世界の歴史』河出書房版25巻が、
桑原たち京大の人文研メンバーを中心として企画された。

その第1巻は今西担当の『人類の誕生』、
24巻『今日の世界』が桑原担当(「戦後の世界」というタイトルに変更)、
ラストの25巻が梅棹担当でなんと『人類の未来』。

シリーズは1968年に今西担当の『人類の誕生』からスタートしたが、
これがベストセラーとなり、今西は一躍時の人となる。

72年には30年ぶりに『生物の世界』の文庫版での復刻出版、
74年からは『今西錦司全集』の刊行も開始される。

こうした転換期の時代の流れに乗った彼らの頂点は、
1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の開催と、
その後の国立民族学博物館を設立だった。
万博開催に当たっては、当時の若手の研究者、芸術家、
建築家たちが多数その企画段階から参加した。
そのグループの中心の一人が梅棹忠夫である。

梅棹は世界の民族の展示を担当し、それらの収集品を元にして、
1974年万博の跡地に国立民族学博物館を設立することに成功する。
初代館長は梅棹。今西が先鞭をつけ、梅棹が進めてきた民族学と
文化人類学と文明論や未来論の研究と展示の殿堂がここに完成する。
これが彼らの頂点だったのではないだろうか。