5月 09
2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
名詞論(定冠詞論)それ自体のまとめ(「名詞がすべてである」)と、「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」は、合わせて読んでいただきたいと思う。
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ― 中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一
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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
中井浩一
目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である →本日5月9日
4.名詞論としての定冠詞論 →本日5月9日
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方
3.冠詞論とは名詞論である
今回は、私が関口の定冠詞論から学んだことの大枠を、できるだけ簡潔にまとめておく。ただし、私が理解した限りでの関口の冠詞論(名詞論)であり、関口自身が実際に表現したものとは違う。私が関口の真意(ヘーゲル的に言えば「真理」)としてとらえたものだ。本来は、関口の実際の説明と、私が捉えなおした説明は区別するべきだし、なぜ私がそう理解したかを説明する必要がある。
また、私にとっての前提は、ヘーゲル論理学の判断論であり(メルマガ183?187号参照)、アリストテレスの形而上学であり(メルマガ199?202号参照)、野村剛史の日本語学である(メルマガ175,176号参照)。それらがなければ、関口との戦いを最後まで戦いきることは不可能だったろう。したがって、それらの説明も必要だ。
しかし、そうした検討作業や説明は、今回は省略する。関口「名詞論」の核心だと思うことをまとめて示すことを優先したいからだ。
関口の冠詞論は、全体として名詞論になっている。この「含み」を言葉にすれば、言語とは名詞に他ならないということになる。すべての始まりは名詞にあり、他のすべては名詞の本質、名詞の運動から生まれた。名詞の格、語尾変化。冠詞、前置詞、動詞、形容詞などの他の品詞。動詞や形容詞などの変化をも含めてそうだ。文も、複文も名詞から生まれる。それは壮大な名詞一元論である。
関口は、名詞を判断として、つまり主述関係に分裂、また主述関係として統合する運動として、つまり個別(特殊)〔主語〕と普遍〔述語〕への分裂と統合としてとらえる。このことを普通の文、つまり判断の文で検討しているのが不定冠詞論である。
関口は定冠詞論でも、名詞を主述関係に分裂、また主述関係として統合する運動としてとらえようとする。それを「規定される名詞」におけるすべての場面で確認し、その意味を名詞の本質から解き明かそうとする。その徹底性、執拗さ、強靭さには、驚嘆させられる。
4.名詞論としての定冠詞論
関口が定冠詞論でやったことを、まず簡単に説明する。
定冠詞論の全体は次のように構成されている。
第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞
第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞
第1篇 後半 間接に規定される場合の定冠詞
第2篇 通念の定冠詞
第3篇 形式的定冠詞
1章と2章 示格定冠詞(1)、(2)?固有名詞その他
3章以下は 温存定冠詞
関口は「第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞」と「第1篇 後半 間接に規定される場合の定冠詞」において取り上げられる名詞、つまり名詞が規定されるすべての場合において、その規定部と規定される名詞の関係に主述関係を見抜いていこうとする。ここは圧巻である。
規定される名詞において、その規定部と名詞の関係に主述関係を見ていくことで、関口は何を明らかにしようとしているのか。関口が示そうとしたのは、名詞が個別(特殊)と普遍へと分裂し、またそれを統合する運動であること、つまり名詞がヘーゲル論理学でいうところの「普遍→特殊→個別」へと発展することだと思う。それによって、名詞とは何かを明らかにするためだ。
そして、一般に名詞そのものの発展を「普遍→特殊→個別」としてとらえ、整理しようとしたのが「第2篇 通念の定冠詞」だろうと考えた。
では「第3篇 形式的定冠詞」は何か。ここでは、名詞の「特殊な場合」を取り上げて、それまでの説明方法で、特殊現象をも解明しようとしている。
1章と2章の「示格定冠詞」では名詞の格の意味、名詞が直接他の品詞に移行する場合、固有名詞、名詞の凍結などが取り上げられ、3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここは前置詞論であり、名詞は名詞でなくなろうとしている。
以上から明らかなように、定冠詞論は冠詞論というよりも、名詞とは何かを明らかにしようとする名詞論なのである。ではそれが冠詞論とされているのはどういうことか。
これを示すには関口のとらえた「名詞とは何か」の核心部分を理解しておく必要がある。
5月 08
2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
名詞論(定冠詞論)それ自体のまとめ(「名詞がすべてである」)と、「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」は、合わせて読んでいただきたいと思う。
今回は、私が理解したことのアウトラインだけをまとめた。詳しい検討や考察は、後日に期したい。
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ― 中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一
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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
中井浩一
目次
1.関口存男の冠詞論と闘う →本日5月8日
2.定冠詞論のむずかしさ →本日5月8日
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方
1.関口存男の冠詞論と闘う
2010年6月から関口の『不定冠詞』を読み始め10月に読み終えた。『定冠詞』から始めなかったのは、『定冠詞』の方が難しそうだったのと、判断の形式を直接に問題にしているのは『不定冠詞』であり、それを早く読みたかったこと、さらに関口自身が「空想」「仮構性」に強くのめり込んでいて、それこそが不定冠詞の役割なので、おもしろく読めそうだったからだ。実際に、楽しく、おもしろく読めた。
2011年1月から『定冠詞』を読み始めたが、これにはてこずった。関口のアプローチが、まったく独自のもので、彼のやっていることの意味が分からなかったからだ。特に「第1篇」は数回読み直した。何とか関口がやっていることの意味が見えてきたが、「第2篇」でも、「第3篇」でも、また関口のやっていることがわからなくなり、その意味を考えながら進めた。そしてやっと今年(2013年)4月1日に読み終えた。
途中でギブアップすることなく、一応、関口の定冠詞論の山頂まで自分なりに登りきれたと思っている。
定冠詞論で理解したことをもとに、この4月8日から再度『不定冠詞』を読み直し始めている。そして最後に『無冠詞』を読むつもりだ。
『不定冠詞』を久しぶりに読み直すと、関口が余裕をもって、読者サービスに務めていることがわかる。面白く、わかりやすいのは、豊富で深い日本語の理解と、関口自身の家庭の内輪ネタなどの例示が滅茶苦茶リアルで面白いからだ。それは関口が不定冠詞を、深く的確につかみきっているから可能なのだと思う。
それに比べて、『定冠詞』には関口の遊びや余裕は、あまり感じられなかったことを思い出す。関口自身が必死で取り組んでいて、私たちも息苦しくなってくるほどだった。
今回は、定冠詞論を読んで考えたことをまとめておく。すでに不定冠詞論と定冠詞論を読み、定冠詞論の中に凍結的意局として無冠詞論の説明があったので、関口の冠詞論の全体像はある程度つかめたと思っている。
(本稿では説明の簡潔さのために、関口の『冠詞』の第1巻定冠詞篇と第2巻不定冠詞篇をそれぞれ『定冠詞』、『不定冠詞』と呼ぶ。また、その内容はそれぞれ、定冠詞論、不定冠詞論と呼ぶ)
2.定冠詞論のむずかしさ
定冠詞論にはてこずった。その理由は2つある。
第1に、関口の世界の巨大さ、深遠さだ。彼はどえらいことを考えている。
私は世界の言語学者の中で関口が断然トップ、他から超絶した巨人だと思うようになっている。
第2に、関口が、自分の考えを、的確には表現できていないこと
関口は全く他から孤立し、ただ一人で、エベレストに挑んだ。
彼が武器にしたのは、ハイデガー哲学だった。これが不幸だったと思う。関口を読めば読むほど、彼の仕事とヘーゲルの論理学が重なってくる。しかし関口はヘーゲル哲学、そこに集約されているアリストテレス以来の哲学史の総体から、自覚的に徹底的に学ぶことをしなかった。
そのために、その言語のとらえ方には大きな欠陥があり、用語や表現にも混乱や未整理な部分がある。個々には圧倒的に鋭い洞察があるものの、全体の中での個々の位置づけを見失いがちだ。
4月 14
今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。
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「ミクロの政治」と「マクロの政治」
(橋爪大三郎の『政治の教室』から)
多くの「政治学者」は、政治の現象面や制度を説明するだけだ。
橋爪大三郎の本テキストでは、そうした現象面からいったん離れて、
「政治」の本質を原理的に、しかも身近な日常生活と関連付けて説明している。
政治というムズカシく複雑な対象を、これだけわかりやすく原理的に説明できる人は少ないだろう。
さすがだと思う。
特に、人数の場合分けをして、「1人」では政治はなく、「2人」以上の集団にのみ政治が存在すること、
「2人」以上の集団でも「ミクロの政治」(誰もが日々おこなっている)と
「マクロの政治」(いわゆる狭義の「政治」)にわけ、
両者を関係づけて説明している。
こうした考察方法は、人数においてすべての場合を尽くしたもので、原理的・論理的である。
普通の人は「政治」を身近な日常生活からかけ離れたものとして理解しているから、
誰もが家庭や職場などで日々おこなっていることを「ミクロの政治」ととらえ、
それがいわゆる「政治」(マクロの政治)と地続きであることを示したことは重要だ。
こうした考察法と提示の仕方が、橋爪のすぐれた点だろう。
1つ疑問点をあげておく。「ミクロの政治」と「マクロの政治」の両者が関係づけて示されたことは重要なのだが、
その両者の関係は十分には示されていないと思う。
どちらの方が根源的なのか。両者はどのように相互に規定し合うのか。それぞれの特殊性と共通点は何か。
また橋爪は、1人の個人が「選択・決断」をするように、政治もある集団における選択・決断のことだと言う。
そして、政治にとって一番重要なことは「どんな現実をつくり出すのか」という意思と決断だとする。
その決断のために、誰かが選択肢を示す。それが政策だと言うのだ。
これはもっともだが、その「政策」とは現実社会の「問題」に対する「答え」(解決策)のことであり、
政策の是非を問うには、その解決策の当否の前に、それがそもそも現実のどこにどういう問題をとらえているのか、
その洞察の深さの吟味が必要なのではないか。
モーゼを評価する際も、「カナンへの脱出」という政策内容とともに、
彼が「ユダヤ人たちが奴隷として辛い目に遭っていた」ことをどのように問題としたのかを考えるべきだと思う。
それにしても、橋爪の出している例は、古かったり(モーゼは古代だ)、瑣末過ぎる(何を食うかなど)例ばかりだ。
もっと身近で切実な問題(「ミクロの政治」では子供の進路をめぐる親子の対立や学校の「いじめ」問題など)を例示できないでいることには、
大きな問題が隠されているように思う。
4月 13
今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。
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「自立」と「依存」の関係は?
(姜尚中の『悩む力』から)
本テキストは、姜尚中のベストセラー『悩む力』の第6章「何のために『働く』のか」
からとられている。
『悩む力』には、6章の前提として1章「『私』とは何者か」、
2章「世の中すべて金なのか」が置かれており、これらを踏まえて6章は書かれている。
「何のために『働く』のか」。
姜尚中は、「働く」目的は「他者から承認される」ことにあると答える。
現代は大量のフリーターやニートが存在する時代である。
「自己実現」や「自分探し」を言い訳に、自己決定を先送りにし、社会に出ていくことを躊躇している若者が多い。
姜尚中が「他者から承認される」ことを強調するのは、こうした傾向に警告するためだろう。
しかし、私はこの答えには強い違和感を持つ。
もし「他者から承認される」ことが一番大切ならば、「いじめ」の問題を解決できなくなるだろう。
なぜなら、いじめは「他者からの承認」を求める心理、
つまり他者への依存の心理が根底にある問題だと思うからだ。
そこに「自立」は存在しない。
私たちが「働く」のは、
第1に「自己実現」「自己自身による自己承認」「自立」のためだ。
「他者からの承認」は働いた結果であり、それが働く目的なのではない。
もちろん社会(他者との関係)の中でしか自己実現はできない。
だからこそ、自己本位と他者本位の関係、つまり自立と依存の関係が問われるのだ。
それは本来はいかなる関係なのだろうか。
本テキストにはその答えは無い。
では『悩む力』の1章ではどうか。
ここでは「自我というものは他者との関係の中でしか成立しない」
「人とのつながりの中でしか、『私』というものはありえない」と言う。
これは他者から隔絶したところに自分があるとする考え(これがフリーターやニートを代表するだろう)に
反対しているのだろう。
そして「自我というものは他者との『相互承認』の産物だ」という。
しかし、「他者との『相互承認』」はどうしたら達成できるのかは語られない。
「『まじめ』たれ」というだけだ。
本来は、「仕事」の選択、「仕事」への取り組み方、フリーターやニートというあり方を具体的に語る中で、
「相互承認」、自己本位と他者本位の関係、自立と依存の関係について解明すべきだろう。
4月 12
ゼミの5月の読書会テキストと6月以降の予定のお知らせをします。
(1)5月11日読書会テキスト
◆5月は
フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)を主テキスト、
エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)を副テキストにします。
マルクスにフォイエルバッハがいかに決定的な影響を与えているか、
を考えると、一度はフォイエルバッハをきちんと読んでおきたいと思います。
フォイエルバッハの思想について、マルクスは、ヘーゲル亡き後、
「真の理論的革命を内に含んでいる唯一の著作」(『経済・哲学草稿』から)
と評価しています。
ヘーゲル亡き後、一世を風靡した「ヘーゲル学派」は右派と左派にわかれて
対立します。その左派を代表するのがフォイエルバッハで、
唯物論の立場からヘーゲルを批判し、それをマルクスは継承することになります。
『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)には3つの著作が入っていますが、
「将来の哲学の根本命題」を取り上げ、他は参考テキストとします。
エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)は、
フォイエルバッハのマルクスへの影響をわかりやすくまとめていますから、
参考書としては最適です。余裕のある人は読んでください。
なお、フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)は
現在品切れで、古書でしか入手できないようです。
アマゾンなどから購入できますから、早めに入手しておいてください。
図書館で借りられたら、それでも結構です。
(2)6月、7月のテキスト
以下を予定しています。
変更などがあるかもしれませんが、参加希望者はテキストを購入しておいてください。
延期はあっても、必ず読むことになります。
◆6月8日読書会テキスト
マルクス『経済・哲学草稿』(岩波文庫)
◆7月6日読書会テキスト
マルクス『経済学批判』(岩波文庫)からエンゲルスの書評とマルクスの「序説」