7月 04

私は、高校作文教育研究会という高校段階の表現指導の研究会を組織しています。
 その夏の全国大会のご案内です。

日本作文の会の全国大会3日間の内の2日間を
高校分科会として
わが高校作文教育研究会が企画運営します。

今回はいつもと少し違います。

私は鶏鳴学園の表現指導の考え方をお話ししますが、
実際に鶏鳴学園で学んだ大学生が、鶏鳴学園の指導方法で自分に何が起こったの
かを語ります。

2つの報告がジャズのセッションのように響きあうとよいと思います。

会場が東京ですので、参加しやすい方が多いと思います。
是非、おいでください。

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第62回全国作文教育研究大会
(2013年埼玉・関東大会)

今夏の全国大会は8/3?5、さいたま市と板橋区で開催。

高校分科会は、8/4?5、東京都板橋区大東文化大学板橋校舎で開催。

 8/4の夜の懇親会では、国分一太郎研究家の田中定幸さんに、綴方教育の先駆者であり理論的指導者であった国分一太郎について語ってもらいます。
 
■期日・会場 
8月3日(土)      埼玉県さいたま市 埼玉会館
  8月4日(日)?5日(月)東京都板橋区 大東文化大学板橋校舎

■高校分科会 発表者名と報告の概要
※ 高校分科会は、8/4?8/5正午まで、2日間実施されます。
?僕を変えた「聞き書き」?鶏鳴で学んでみて?  東京 掛 泰輔(大学2年)
不登校だった僕の、約1年にわたる、鶏鳴で指導を受けた聞き書きの報告。僕の聞き書きの体験は、まず、高校を辞めたことを家族と話し合うことから始まった。次に、大学で何を学ぶのかが僕のテーマとなった。僕 は3.11の前から原子力発電 に関心があったので、原発関係の聞き書きを行った、その報告。

?高校生の成長と作文教育          東京 中井浩一(鶏鳴学園)
高校生の成長と作文教育の関係を考えてみたい。今の高校生の課題は何か。作文指導において、どこに、どういった高校生たちの成長への契機があるのだろうか。教師はそれをどうとらえ、どう理解していけばよいのだろうか。鶏鳴学園は私塾だが、そこでの経験から考えてきたことを、実際の生徒作品を交えながら報告したい。

?現代文における作文指導?聞き書きを中心にして? 
神奈川 冨田 明(有馬高校)
現代文は文章読解が中心になりますが、教材読解後に、可能な限り何らかの形で書かせるようにしています。また、長期休みには聞き書きや読書レポート等の課題を出しています。今回は1年または2年間の現代文(1年次は国語総合の現代文分野)の授業で取り組んだ作文の指導過程を整理して、各課題で生徒が書いた作品を紹介します。

?情動と綴ること              鹿児島 中俣勝義(専修学校)
 専門学生の文学や教育学の講義を通してのレポートや講義感想のなかで、たびたび感情ということばとぶつかることが多かった。今回の報告は学生たちが使う感情を情動の視点から整理し直し、改めて綴る意味を問うたものである。綴るとは情動を感情化して行く作業ではないか。かなり刺激的で意欲に富んだ提起である。参加して目が覚めます!

■大会の主な日程
8月3日(土)
10:00 開会
10:10 参加者のみなさんへ 常任委員長 松下義一
10:30 映画「かすかな光へ」(大田尭先生 あいさつ)
12:00 昼食 休憩
13:00 みんなに届け!東北・福島の声
太鼓集団「響」―魂の音探し― 秩父屋台囃子
13:30 共同討論
「子どもたちの表現は何をひらくのか?さまざまな困難の中で?」
15:00 記念講演 
      「子どものこころを育むこと?精神科医の視点から?」
                    精神科医 香山 リカ
16:45 閉会・連絡
17:00 世話人・発表者打ち合わせ
17:45 終了
 (18:30?20:00  会員総会)

8月4日(日)
9:00 分科会開始
16:30 終了

8月5日(月)
 9:00 分科会開始 ※高校分科会は1日半、行われます。
12:00 昼食・休憩
13:00 全体会
      特別講演
      「差別と戦争をなくすために?おしばいとおはなし?
       ―ふるえるような怒りの奥底に
               すがるような生命の願いがあった―
                     俳優 有馬 理恵
14:30 閉会集会
15:00 散会

■参加費 前売り5,000円(当日5,500円) 

6月 05

6月以降の読書会と文章ゼミの日程はすでにお知らせしたように、以下です。
いずれも午後5時開始。料金3千円(文ゼミのみの場合は2千円)。場所は鶏鳴学園です。

6月8日 読書会と「現実と闘う時間」 
6月22日 文ゼミと「現実と闘う時間」
7月6日 読書会と「現実と闘う時間」 
7月20日 文ゼミと「現実と闘う時間」

7月の読書会テキストが決まりました。

7月の読書会では、さらにマルクスの方法について考えるために、牧野紀之と許萬元の以下の3つのテキストを読みます。
現代日本の研究者で、ヘーゲルやマルクスについて考える時に参考になるのは、牧野紀之と許萬元の2人だけだと思います。

 牧野紀之「許萬元のヘーゲル追考論」(A4で11ページほど)
 許萬元の『ヘーゲル弁証法の本質』から第3編「マルクス弁証法の本質」(35ページほど)
 許萬元の『認識論としての弁証法』第3編の?「学的認識の論理」(50ページほど)
を読みます。

 許萬元の2冊は品切れになっているようです。図書館でコピーしてもいいですし、購入したければ、古書として青木書店版か創風社版で入手できます。
 牧野のテキストは、参加者にはお渡しします。

5月 17

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」の関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること
3.存在の「ある」
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた →本日5月17日
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた →本日5月17日
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見 →本日5月17日 

                                    
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた

ではこの存在の「ある」は、判断の「ある」とどう関係するのか。
上記の判断の形式は、結局、存在の「ある」から生まれた、というのが私見である。

Die Blume ist rot.    この花はある 赤い(赤く、赤)。 
Die Blume ist shoen.  この花はある きれいだ(きれい)。
Die Blume ist klein.   この花はある 小さい(小さく)。
Die Blume ist ein Rose. この花はある バラ。 

Die Blume ist(「この花は(が)ある」)とはDie Blume (「この花」)と同一なのだ。
そして、「この花」から外化した、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」などの諸性質、本質を「この花は(が)ある」の外に外化させる。これが判断の形式だ。
存在の「ある」を入れることで、分裂と外化を明示しているとも考えられる。
さきに、「ある」には具体的な内実はなく、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて具体的な諸性質が表されると述べた。これは、「ある」がその次に具体的な諸性質を誘導する役割を果たしているとも考えられる。
だから、極端に言えば、判断の「ある」はなくてもよいのである。事実、これがなく、主語と述語部をぶっつけて置く言語(ロシア語)があることを、世界的ドイツ語学者の関口存男は示している(『不定冠詞』249ページ)。

なお、日本語の場合を考えると、日本語の判断では「ある」が最後に置かれることだけが、西欧語と違うことがわかる。
この花はある バラ。と表現する西欧語に対して、
この花は バラ である。と表現するのが日本語なのだ。「この花」と「ある」の間に、「バラ」「赤い」「小さい」などを入れてしまうのだ。
 外にぶつける西欧語と、内に含みこもうとする日本語の違いだ。

                                     
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた

 今、特別な動詞「ある」について考えたが、他の動詞はどうなのか。

(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける 

(6)と(7)の動詞、動詞部分も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質として外化したものでしかないのだ。その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

                                        
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

関口存男は、判断の「ある」と存在の「ある」について『不定冠詞』で次のように述べている。
「真の基礎的な述語文と思われているSie ist schön, Ich bin muede.等にしてからが、実を云うと此のist,bin の素姓は、本当の繋詞的seinではなく、実は存在のseinなのである。Sie ist schönは、実は「彼女はschönとして存在する」のであって、その関係はSie bleibt schön, 「彼女はschönとしてとどまる」と同じことなのである」(『不定冠詞』249ページ)。
関口も、存在の「ある」から判断の「ある」が生まれたと主張しているのだ。しかし、関口は存在の「ある」がどこから生まれたのかを、説明できなかった。両者を名詞の分裂から統一的に理解することはできなかったのである。
(2013年4月19日)

5月 16

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い →本日5月16日
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること →本日5月16日
3.存在の「ある」 →本日5月16日
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

                                      
1.問い

西欧語、たとえばドイツ語のsein(存在)には2つの意味がある。
A ist B. AはBである。
A ist.  Aが(は)存在する。Aが(は)ある。

この前者を判断の「ある」、後者を存在の「ある」と呼ぶことにする。
では、この両者はどう関係するのだろうか。この問いに私案を出しておく。

                                         
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること

まず、以下の6つの文例をあげておく。

(1)Die Blume ist rot.
(2)Die Blume ist klein.
(3)Die Blume ist schön.
(4)Die Blume ist eine Rose.
(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(1)この花は赤い(赤くある、赤である)。
(2)この花はきれいだ(きれいである)。
(3)この花は小さい(小さくある)。
(4)この花はバラだ(バラである)。
(5)この花は(が) ある。
(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける。 

このうちの(1)から(4)までが、いわゆる判断と言える。これらに現れるseinは判断の「ある」である。(5)のseinは存在の「ある」で、(6)と(7)は普通の動詞による文だ。

(1)から(4)の判断だが、普通の理解では、これらの判断を、主語の「この花」と述語部を人間という認識主観が外から結びつけたものととらえる。しかし、ヘーゲルは「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別と普遍に分裂したのだと考える。そして、それを認識主観内に反映させたのが、いわゆる判断文だと言うのである。(ヘーゲルの論理学の判断論から)。
「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。これは対象世界の「この花」の分裂であり、したがって、認識世界の判断文でも「この花」とされる名詞が主語と述語部に分裂し、また統合されてもいる。
このヘーゲルの考えを前提にして、以下を考えていく。

                                       
3.存在の「ある」

さて、では(5)「この花は(が)ある」をどう考えたらよいのか。
私は、これも先の判断文と同じで、「この花」の分裂の1つだと考える。「ある」も「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。
しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。
なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」とは「この花はある」ということなのだ。(以上は、ヘーゲルの論理学冒頭の「存在」「無」の展開と同じだと思う)
以上のことを逆に言えば、「この花」と提示することには「ある」も前提されており、その上での「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」なのだ。しかし「ある」には実は、具体的な内実はない。それは「ある」というだけで、その具体的な諸性質は、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて表されるのだ。

5月 15

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方 →本日5月15日

                                     
10.関口の生き方

私は、関口の本当の凄さがよく出ているのが、「第三章 温存定冠詞(概論)」の以下の文章だと思っている。ただ一人で人跡未踏の新大陸にいどむ、そんな男の姿がここにある。

 「意味形態はもちろん決して万能ではなく,辞典の隅から隅までを”空理“で割り切ることはどうせ不可能かもしれない。いわんや一個人が限りある時間を以て無限の言語現象に画するに於てをやである。けれども,たとえどんなジャングルであるにしても,主な方向にむかってせめて数本の大道を拓き,問題を提起し,研究慾を刺戟し,メトーデとしての意味形態論のために将来を開くことはできないものか?
 次章以下の温存定冠詞各論は,そうした意味から企てられた二三の試みであると思って頂きたい。(中略)此の温存定冠詞というものに限って,全部を意味形態論で割り切ろうなどとは夢にも考えていないことを謙遜に附記しておく。いわんや筆者一人の研究を以てするにおいてをやである。筆者は温存定冠詞という現象が存在することを指摘しただけであって,その充分な研究は将来に俟つべきものと思っている次第である」(784ページ)。

 関口は、ただ一人で人跡未踏の最高峰へといどんだ。自分が倒れた後を、後世の人々に託して。託されたのは、私たちである。(2013年4月25日)