1月 16

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その5

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか

 (1)「精神現象学」派と「論理学」派

 竹田は、ヘーゲル哲学に、特に『精神現象学』に大きな影響を受けたと言う。
彼にはヘーゲル哲学を論じた多数の本があるし、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』という、すごいタイトルの本も出している。
その「はじめに」を読むと、竹田が論理学をほぼ全否定していることがわかり驚いた。

 「『大論理学』は哲学としてはもはやほぼ使い道が無く
  過去の遺物であり(中略)『精神現象学』の注釈くらいに考えていい」。
 

 ヘーゲル哲学に関心を持つ人は、「精神現象学」派と
「論理学」派にはっきりと分かれるようだ。「文学的な」人が、
精神現象学派には多いように思う。彼らの直感的で感性的な体質に
合っているのは、精神現象学であって、論理学ではないだろう。
論理学は論理そのものだが、精神現象学は具体的な叙述が多く、
内容を捉えやすいことも関係するだろう。

 竹田は、精神現象学派の典型と言って良い。
精神現象学を高く評価する一方で、論理学を否定する。
しかし、すでにここで大きな疑問が起こる。そもそもある人の思想内容と、
その論理展開を切り離すことができるのだろうか。ヘーゲルの思考内容を
評価するなら、その内容はどこから生まれたのだろうか。それは最終的には、
彼の思考能力、つまり論理的能力以外にはないのではないか。
まさか、ヘーゲルが「直観」だけで真理を把握したとは言うまい。
「直接知」の立場を徹底的に批判したヘーゲル自身が、
そうだったとでも言うのだろうか。

 「精神現象学」派と「論理学」派の対立を考えるとき、
牧野紀之の下で起きたある事件を思い出す。牧野は40年前から
ヘーゲルを指導する学習会を主催していたが、そこには精神現象学と
論理学のそれぞれの原書講読のクラスがあった。受講者はどちらかに分かれ、
両方を受講する人は少なかったようだ。精神現象学を読んでいた人たちは
吉本隆明好きで、ある時、吉本を批判した牧野に反旗を翻し、
ほとんどが辞めていった。論理学のクラスではそうした劇的な場面はなかった。

 牧野自身は論理学派だと思うが、その立場から精神現象学も
丁寧に読み込んでいる。その記録が、彼の『精神現象学』の翻訳と注解だ。
私も牧野と同じスタンスである。特に、その序言、序論は重要だと思う。

 (2)竹田による「自己意識論」の解釈

 竹田の読解は直感的だが、実際の生活経験を振り返り、
的確なヘーゲル理解に到達している部分がある。例えば、
『自分を生きるための思想入門』(芸文社)の25?29ページでは、
『精神現象学』の「自己意識論」を、身近な具体例からわかりやすく
説明している。

 ストア主義の例に、教室でわかっていても手を挙げない
反抗的な子どもを出し、懐疑論では、どのような意見や主張に対しても
シニカルにかまえて水を差す青年の例を出す。不幸な意識の例では、
マルクス主義やキリスト教への「信仰」を出す。そうした大きな物語に
自分を一体化して他人の上に立つことは、同時に大儀のための自己犠牲をも
要求されるという矛盾であることを示している。そこでは自己否定(忠誠心)の
度合いの競争になり、依存を深めて自立を妨げることになりやすい。
それを見抜き、この不幸な意識の例としているのは、さすがに卓見だと思う。

 竹田が読まれているのは、こうしたすべての人の生活経験から
論理を拾い上げる力が、一般のレベルと比較すれば抜きんでているからだろう。
これは、自身や周囲の経験を、繰り返し考え続けて、そこから
自分の思想を作ろうとする竹田の姿勢から生まれている。その正しさが、
ある深さに達しており、それが人々の共感を呼ぶのだろう。

 竹田が取り上げた3つの例は、竹田自身の経験の反省から
生まれたものだと思うし、私自身にも思い当たることが多い。
特に不幸な意識の矛盾は重要だ。これは政治、宗教、学問などで
無数の例を出せるだろう。共産党と知識人の関係などでも、
多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を
出してきた。

 実は、同じ事は、牧野紀之の下でも起きていた。
「先生を選ぶ」ことが、依存を強め、先生の奴隷になってしまう。
そうした人も出たし、私にもある時期そうした段階があった。
「先生を選べ」の原則を作った、その牧野の足許で、同じ事が起こるのだ。

 (3)竹田の限界

 竹田のすぐれた面を指摘してきた。しかし、竹田が論理学を否定したことは、
竹田の論理力にそのまま跳ね返っている。彼の思考の荒さや弱さだ。

 牧野は訳注(358ページ 注1)で、すぐれた説明として竹田説を紹介、
長々と引用している。しかし、評価するだけで限界を言わない。
私がその問題点を指摘しておく。

【1】竹田が出した3つの経験と、そこにある論理は確かに重要な問題を提起している。
  ヘーゲルの論理との対応関係もある。
  しかし、3つの例はすべて、「3つの範型」として、バラバラに
  事例として出しているだけで、そこに論理必然性はない。
  自分が考えた3つの経験を、ここにただ当てはめただけだ。

【2】だから、ストア主義と懐疑論が対立、相互関係として捉えられていない。
  また、ストア主義と懐疑論に対して、不幸な意識は両者を止揚した
  上のレベルなのだが、それも無視されている。

【3】「自分が他人より優れている、上に立っている」。この表現が一面的だ。
  主と奴の関係が逆転したことを前提に、ヘーゲルはここで展開している。
  したがって、上下関係は相対的なものでしかないことは、すでに明らかになっている。

【4】ストア主義の例
  これを「他人の承認を求めていない」と竹田は言うが、そうだろうか。
  「バカにした他者からの承認」を否定し、その否定とは自己を自己が
  承認しているのだから、それも「他者からの承認」と言えるのではないか。

【5】懐疑論の例。「相対的に上位」、【6】不幸な意識。「他人より上位に立つ」
  これらも違うと思う。「他人の下位」でも、承認になるのは、いじめの論理が証明する。

 以上の批判に対して、私の代案は三.と四.に書いたとおりだ。

 竹田の論理的思考の弱さを指摘してきたが、これはただの揚げ足取りだろうか。
こうしたことは問題にならないだろうか。竹田は不幸な意識の矛盾を的確に指摘できた。
しかし、それだけでは、その問題を真に解決することはできないと思う。
事実、竹田によるこの問題の解決策は書かれていないと思うのだが、どうだろうか。

 一方で、論理的には竹田を圧倒する牧野紀之は「先生を選べ」の原則を出し、
この問題への解決策を示すことができた。それはまさに論理の力だろう。
しかし、その牧野の下で、「牧野信仰」が起きていたのも事実である。

 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。この『精神現象学』執筆の
時点では問題にならなかったろう。『精神現象学』の「不幸な意識」の平板さは、
こうした問題を考えていなかったことも関係するだろう。
しかし、ヘーゲルがベルリン大学の教授になり、多数の弟子に囲まれて
名士に成り上がってからは、どうだったのだろうか。おそらく多数の
「ヘーゲル信仰」の若者や学者たちが、その取り巻きの中にいたことだろう。
ヘーゲルはそれには何も語っていないように思う。
さて、今度は私の番である。私はこの問題を解決できるだろうか。

 なお、竹田は、『自分を生きるための思想入門』で出した例を、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』の自己意識論の箇所では出していない。
これはどうしてなのだろうか。

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1月 15

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その4

 四.自己意識の自由

 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」

 ┏主と奴は、事実(偶然)の承認関係。
 ┗ストア主義と懐疑論は、思考による承認関係。
  
  だから思考を出す。353ぺージ

 ┏主と奴 偶然性による上下関係。親子関係、親分子分関係。選択ができない。
 ┗ストア主義以降。思考の自由。上下関係の否定。しかし反抗であって自立ではない

 思考の自由は、上下関係そのものの否定にはならない。
 選択による上下関係がなくなるわけではない。「先生を選べ」、信仰など
   →これは「不幸な意識」以降で問題になる。

 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的

【1】ストア主義は抽象的正義のこと。外的反省
  若い時の表面的、一面的な正義感。
  内実がない。個別具体的なものはない → 若い時の特徴。

【2】懐疑論はこれへの反発
  否定の対象があるから、具体的ナカミがある。
  しかし一面的になりやすく、豊かな内容があるのではない
  否定はできても、肯定(代案)がない。若者の特長。

 ┏ nicht ?
 ┗ sondern ? ← これを出せるかどうかが自立の核心

 この懐疑論への反発から、ストア主義に戻ることもある。

 (3)不幸な意識 

【1】「不幸な意識」には、牧野紀之の注解がほとんどない。
  このムラの大きさが牧野らしい。
  例として「先生を選べ」を出すべきだし、弟子相互の関係、
  集団としての側面を出すべきだった。
 牧野の定式化した「先生を選べ」は、ここ以下の問題の解決策なのではないか。

【2】「先生を選べ」の矛盾
  「ストア主義」と「懐疑論」は一応自分に自信がある段階。
  不幸な意識とは、自分への自信を失った段階。ここで再度、主と奴の上下関係の問題が出る。

 自分の低さに気づいた時にだけ、次のステップへ進む可能性が生まれる。
それは「先生を選ぶ」(先生=ある思想、立場、宗教、政治などの組織)ことになる。
ここで再度、上下関係が出てくるが、これは主と奴のような偶然的なものではなく、
客観的で社会的な基準で選択されたものになっている。

 しかし、「先生を選べ」には矛盾する両面がある。自立(自己肯定)のために、
徹底的に自己否定することが求められるからだ。

 そこで先生や組織に依存したり、自己否定を競い合うようなことがおこる。
この問題を、ヘーゲルは論理的に解き明かそうとしているのだと思う。
この問題については、竹田青嗣が実に鮮やかに説明している。
それは五.で取り上げる。

 (4)不幸な意識の展開

 その1.ユダヤ的
 自己への絶望。より上の他者。

  ↓

 その2.キリスト教

【1】上を上としてあこがれ従うが、自分がそうなろうとはしない。
   分裂がある
  「先生の言うことをおとなしく聴く」
 

【2】欲望と労働。これは何か。ここに主と奴の関係の逆転の契機があったはず。
  感激と自己放棄による統一
  しかし、それがエゴがあるので完全にはできない。

  ↓

 その3.ここで教団が媒介する。

 あまりにも叙述が抽象的で、平面的。
 ツッコミがなく、平板。
 媒介としての教団の矛盾。意義と限界もキチンと出すべき

 教団は神と個人の1対1の関係に立ち入れない。
 それを互いに支えようとするだけ

 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 「他者本位」から「自己本位」(私が真理)へ
 夏目漱石の『私の個人主義』で言えば、それまでの「他者本位」を克服し
「自己本位」の立場に立った段階であり、それが「主体性」=「理性」の段階だろう。
これは、いかに高い大変な段階かがわかる。ほとんどの人はこの段階まで進めないだろう。

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1月 14

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その3

三.主と奴

 (1)冒頭

[欲望]※自己意識と対象意識の統一の一番原始的な形態
    他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、自己形成。他者は否定されるべき
  ↓

[食欲]生きる時間、起きている時間のすべてを食べる時間にしている生物がほとんど。
    小鳥など。
    食欲が生物にとって、いかに根源的か。
  ↓

 食欲の対象は[生命]
 ※ここで、対象意識から、その対象へと話を転し、
  対象としての生物発展の運動から人間の発生を説明する※

 人間の雑食性。食物連鎖のトップに人間が立つ。
 食物連鎖の中に類の発展。
 地球から生物発展の全過程が、この食物連鎖の背景にある。
 このトップとして人類があること。
 それが、人間のみが「思考する」(他のすべてを止揚できる)ことの意味でもある。

  ↓

 生命の運動 ※対象としての人間から[自己意識]を説明する
 [類]類内の個と個。[自己意識と自己意識]。
 類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開される
 精神(社会的意識)。

 (2)承認

 承認を「人間」としての根源的な欲求として、とらえることの本当の意味は何か。
人間が事実として社会関係の中でしか、人間になれないと言うことを述べている。

【1】他者からの承認は、自己確認であり、ほめてもらう、上位に立つことに限定されず、
  その反対も多い。
  嫌われること、叱られることで自己確認、自分に注目してもらうことも多い
 (男の子が好きな女の子をいじめたりして泣かせる)

【2】集団のいじめ、そこでの「受け」も、承認論で考えるべきだ。
  子供の世界の上下関係は、力で決まる。親分・子分関係。

【3】親からの承認(関心、注意)を得られるかどうかは、子供にとって生死の境目。
  親子関係、友人関係で自分を考えるとき、自分と他者の両者を超える視点が必要。
  類の自覚の必要

【4】ヘーゲルの承認論。他者として誰でもいいわけではない。選択していく。
  偶然の友人 → ライバル、ある特定の人 → 先生 → 人類の歴史に名を残した人 → 神
  この辺を具体的に展開すべき。それがない。

 (3)主と奴、逆転(346)。危機感と労働
    能力の問題がある

 2つの例

【1】個人の内では精神と肉体の。思考と感性
  いわゆる「精神分裂病」(統合失調症)は、悟性に抑圧された感情が、
  自分を死守するために引き起こしている症状なのではないか。

【2】社会では、資本家とプロレタリアートが例にされる。※これは正しいか

1月 13

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)

  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その2

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか

 自己意識は類の自覚から生まれた。
 それをヘーゲルは自己意識論の冒頭で説明している。

 この冒頭は、欲望、食欲から始まり、その対象として生命を出している。
ここは、わかりにくい個所なので、議論があるところである。
ヘーゲルはここで何をしようとしているのか。

 これは、人間(自己意識)の成立を、発生史的にたどったのではないか。
意識一般から自己意識が生まれる過程とは、動物から人間が進化してきた
過程に他ならない。しかし、それがなぜこのような欲望、
食欲から生命という展開になるのだろうか。

 ヘーゲルは2つのことをここで明らかにしようとしている。
一つは、類の自覚と自己意識とは一体のものであり、類の自覚から
自己意識が生まれたということ。しかし、ヘーゲルはその類を
対象意識の対象として、導出しようとする。つまり、その類の導出を欲望、
食欲から始めようとしているのだ。ヘーゲルはここで自己意識の持つ
欲望の根源性を示したかったのだ。それを後に展開するための伏線として、
また後に思考を出すための伏線としてである。
これがヘーゲルが示そうとした2つ目である。

 欲望、食欲とは、自己意識と対象意識の分裂以前の意識の
一番原始的な形態であり、すべての動物にある。食欲を満たすとは、
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)とすることだ。
そこにはすでに、他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、
自己形成の論理がある。他者は否定されるべきなのだ。

 この動物一般から人間を導出する方法が、ヘーゲルの独自のものだ。
意識の話が、急に意識の対象の話に転換する。食欲という対象意識から、
対象の側に話を転じ、動物と生物一般の客観世界における食物連鎖の世界を
ヘーゲルは、たどろうとする。そして食物連鎖の世界でのトップとして
人間が位置づけられる事を示す。対象としての生物発展の運動から
人間の発生を説明するのだ。そこから類の自覚を出すためだ。

 ヘーゲルは人間の雑食性、他の生物を食べる事実を
示すことによって、食物連鎖のトップに人間が立つことを
示しているのではないか。地球から生物発展の全過程が、
この食物連鎖の背景にあり、食物連鎖の中に類の発展がある。
そのトップとして人類がある。

 こうして食物連鎖の中に類が現れ、その頂点に存在する人類において、
その類の自覚が可能になる。ここで、類も対象として、対象意識から
現れてくるのだ。これが対象意識から自己意識が生まれることを意味する。

 しかし、どうして類の自覚が自己意識とつながるのか。類の自覚とは、
その類の一人として自分を意識することだから、類の一人として
自分を意識することは、他の人をも自分と同じ人類の一人として
見ることであり、自分と同じ人類の一員が無数に存在することになる。
自己意識には自己意識が、同じ権利で向かい合っているのだ。

 逆に言えば、自分と並ぶ無数の他者を意識するのが、自己意識でもある。
これが「対象意識→無限の止揚→自己意識」という論理の意味なのではないか。
対象意識から類の自覚=自己意識が生まれたが、自己意識論ではここから、
類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開されることになる。
しかし、それは直接的には、欲望・食欲の延長であり、自己への
「承認」欲求として現れてくる。
これが人間としての根源的な要求であることになる。

 他方で、対象意識の方は次の理性で、ふたたび新たな対象を
ともなって現れてくるが、それは「思考」としてである。
この思考も、自己意識ですでに生まれていたのだ。自己意識が生まれるとき、
意識内では個別と普遍の分裂が起こっている。それが「思考」の発生である。
思考は他のすべてを止揚して、観念的な契機として、自己内に
取り込むことができるのだが、それは食欲で、食べることが
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)としたことに対応する。
つまり、自己意識=思考は、欲望、食欲の発展した形態であり、
欲望の論理を持っている。
この思考そのものの働きは、理性の段階で対象とされる。

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 4)人間の羞恥心と狼少年

 さて今は、類と自己意識の問題であり、その考察がこの「自己意識」論である。

 サルトルは『存在と無』で、この自己意識の例として、
人間の羞恥心を出している。ここに注目しているのはさすがだと思う。
私も高校生や大学生相手に「自己相対化」を説明する際に、
いつも羞恥心を例にしてきた。

 羞恥心には、確かに自分と他者の一体の構造がある。例えば、
駅で電車に間に合うように走り寄って、目の前でドアが閉まったとき、
目の前で私を見ている車内の人々に、笑われているように感じて恥ずかしい。
しかし、実際に笑われているというよりも、そう感じて恥ずかしく
思っているのではないか。こっけいな自分をこっけいと感じる自分が自己内にいる。
それゆえに、強い羞恥を感じる。

 ここには見られる自分と見る自分の分裂があり、その分裂によって
「自己相対化」が起こっている。これが、意識の内的二分であり、
自己意識の特色だ。他者に見られて恥ずかしいのは、自己内の
内的二分によって、自己が自己に見られているからだ。
自己内の「見ている」自己が「他者」の代表なのだ。この内的二分がないと、
他者は原理的には自己内に存在しない。このように自己と他者は結びついている。
そして、こうした他者と自己との一体化の関係から、人間だけに、
羞恥心といった感情が生まれてくる。

 つまり、自己意識、意識の内的二分、人間の感情。
これらは人間が人間社会の中で育てられないと、
獲得できない能力である。それを考えるには、
狼少年の例がわかりやすい。

 動物は、ほっといても大人に育つ。イヌはイヌになり、
猫は猫になる。しかし人間はそうではない。

 人間には人間になる可能性はあるが、人間になれない場合もある。
オオカミに育てられるとオオカミになってしまうことがその証拠だ。
人間でないというのは、言葉が話せないといった高級なレベルだけではない。
もっと根源的な喜怒哀楽などの感情が育たないことであり、
羞恥心が無いということだ。

 人間の自己意識、意識の内的二分、そこから発生した羞恥心や感情。
これは人間社会の中で育てられないと、獲得できない能力なのである。

 では、こうした意識や、羞恥心などの人間特有の感情は、
どのようにして育まれるのだろうか。実際に、その育つ過程の中で、
自己と他者が結びついた関係から生まれるのだ。だから、人間は
他の人間(母親や父親など)との緊密な関わりの中で、学習していく
過程が必要なのだ。それがないと、内的二分は起こらず、人間になれない。
これが「承認」の欲求とつながる。

 この自己意識論では、こうした根源的な人間の本質を
明らかにしているのではないか。

 以上で、形式的な(1)から(3)の3つの課題の私の回答を終える。
残りの(4)と内容上の課題については、以下に、
テキストの展開にしたがって、レジュメの形で示す。

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1月 12

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その1

 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 まず、「自己意識」論を読む上での大きな問題を確認しておくと、
形式面では次の4点(特に最初の3点)があげられる。

(1)対象意識から自己意識が生まれるとはどういうことか
(2)対象意識と自己意識の統一から理性が生まれるとはどういうことか
(3)自己意識をなぜ、欲求や生命から始めたのか
(4)第3節の第1段落の主人と召使のレベル、第2段落と第3段落、
   さらに第4段落の展開の意味。それが実際に意味するものは何か

 内容面では以下のような論点があると思う。

(1)類の意識とはどのように生まれるか  
(2)労働、仕事は、どういう意味があるのか。
(3)他人に承認してほしいという欲望をどう考えるか
(4)第3節の第1段落「生命をかけた闘争」をどう理解するか?その経験は?
(5)第3節の第1段落、第2段落と第3段落、第4段落に対応する経験を出してみよう
(6)神とか絶対者をどう考えるか、どう考えてきたか 
(7)キリスト教から教団の話が出てくる
(8)「先生を選べ」と、教団の話はどう関係するか

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 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている

 形式上の(1)(2)が大きな問題だろうが、今回読んでみて、
ヘーゲルは「逆算」して書いているし、そう読むべきではないのか、
と強く思った。

 第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、第3部の5章「理性」と
6章「精神」を前提として、その伏線、準備として考える必要があるのではないか。

 ヘーゲルの精神現象学では、人間の社会を展開したのが第3部の6章「精神」であり、
その前提である、個人としての人間を扱っているのが第3部の5章「理性」である。
この「個人」の理性の実体から、分析的に抽象化された2側面が
第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論なのではないか。

 第3部の5章「理性」から、主体的人間と客観的世界の対立が現れてくる
(第1節が「認識」、第2節が「実践」)。その第3部の前の第1部
「対象意識」と第2部「自己意識」論は、その「理性」の前提として、
「対象意識」と「自己意識」が必要だから、前に置かれているのではないか。

 逆に言えば、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、5章「理性」の中で
より具体的に再度取り上げられていて、それらを止揚した6章「精神」で
さらに上の具体的なレベルで現れてくるのではないか。
つまり、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論だけで考えても、
抽象的でよくわからないのではないか。

 例えば、第2部「自己意識」論では「類」や「自己意識」が
でてくるのだが、自己意識論では、それが事実として存在することの
中にある論理を示している。つまり実体の段階であり、「理性」段階からが、
それを自覚する主体性の段階なのではないか。

 ヘーゲルの主体性は、自己意識では潜在的で、顕在化するのは理性、
精神の段階なのであろう。

 参加者から「自己意識論」は受動的で面白くないとの意見があった。
特に「不幸な意識」が抽象的だと思う。主体性は「理性」以降の
段階だからしかたがない面があるのではないか。

 こうしたことは金子も言っている(岩波版全集第4巻。662、663ページ)が、
本当にわかっているかどうかは別だ。2009年の夏に読んだ「対象意識」では、
感性的確信や知覚の章が、私にはよくわからなかった。
それも当然だったのではないかと思う。牧野紀之はそれをどこまで意識していたのか。
マルクスやサルトル、ハイデガーはどうだったのかが気になった。

 そこでマルクスの『経済学・哲学草稿』とサルトルの『存在と無』の
関連箇所を読んでみた。マルクスはさすがに読めていると思った。
サルトルは立体的な読み方はできていないと思った。

 2)対象意識と自己意識の順番と関係

 では、対象意識と自己意識の順番と関係はどうなのか。

 動物一般には意識があるだけで、対象意識と自己意識の分裂はない。
人間も最初は同じである。人間が他の動物からわかれたのは、自己意識が生まれ、
それによって、意識内部に対象意識と自己意識の分裂が生まれたことだ。

 人間の発生過程でも、人間個人のそれでも、最初は分裂以前の意識から始まり、
それが自己意識発生後、つまり自我のめざめ以降の意識の分裂とその止揚が
繰り返されている状態がおこっている。これが大人の人間の常態である。

 ヘーゲルは「対象意識」として、分裂以前の意識の状態(感性)と、
分裂後の自己意識と区別された意識(知覚と悟性)を扱っている。
一方「自己意識」は、もちろん自我のめざめ以降の自己意識を扱っている。

 それが、どうして精神現象学の「対象意識→無限の止揚→自己意識」といった
展開になるのか。自己意識とは、それ自体で存在できず、対象意識に媒介され、
それを止揚して自己内に含みもつ過程で生まれてくる。それは対象の
「無限の止揚」に他ならない。自己意識とは対象や他者を止揚した意識であり、
自己内に他者を含むのだ。しかし、この論理は正しいが、それは
歴史的な順番として悟性から自己意識が生まれたことを意味しない。