1月 12

シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第8回 
高校作文教育研究会2月例会

高校作文教育研究会は、一昨年秋から2年ほどの予定で、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。

この間、私たちの例会や全国大会に、各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をしました。聞き書きに関するさまざまな課題について、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えてきました。

その成果は、昨年6月から雑誌「月刊 国語教育」に連載中です。

2月の例会では、古宇田栄子さんが、40年近くの実践を振り返り、聞き書きについて報告します。
また、今回は新しい試みを用意しました。正則高校での宮尾美徳さんの実践は昨年の例会でも取り上げました。その時は、正則の学習旅行、その事前学習と事後学習の徹底ぶりに感嘆の声があがる一方で、その表現指導の不十分さを指摘する声もありました。今回はそれを踏まえて、具体的な代案を考えたいと思います。この企画では、この1年半にわたる会の研究がいかほどのものになっているかが試されることにもなるでしょう。乞うご期待。
 
どなたでも参加できる研究会です。どうぞお気軽にご参加ください。

1 期 日    2010年2月14日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容

(1) 聞き書きの世界
茨城 常総学院高校 古宇田栄子

聞き書きの魅力は、なんと言っても、聞き出した世界の豊かさにあると思う。それは、人の生き方の多様性であり、世の中の奥の深さであると思う。私が指導した生徒たちは何を学んでいたのだろうか。今、改めて、これまでに書かせてきた作品を読み返してみることで、生徒たちが学んだものはなんであったのかを考えてみたいと思っている。

(2)宮尾実践への代案
?再度の実践に向けて  東京 正則高校 宮尾美徳

三年前の「学習旅行」では、「聞き書き」に学んだ実践を試みた。生徒たちに「旅行」先で出会う方々のお話を、より確かに受けとめさせたかったからである。結果、課題も多く残された。数々の指摘も受けた。しかし、新たに見えたこともあった。いま三年経ち、再び「学習旅行」を目前にして、新たな表現指導の実践案を計画してみた。ご批判を請いたい。

?宮尾実践―私ならこう指導する(その1)茨城 常総学院高校 古宇田栄子

昨年の宮尾実践を聞いて、私には違和感があった。行事がいっぱい、感動がいっぱいの学習旅行を、生徒たちは、本当に書き切れたのだろうか。そもそも、宮尾さんは、何を、どう書かせたかったのか、見通しがあったのだろうか。宮尾さん自身、イメージができていなかったのではないか。それが、私の感想だった。
もうすぐ今年も学習旅行に行くそうなので、参考になればと思い、昔、学校行事や生徒会活動をリードしていた生徒たちに、総括として書かせていた作文をふまえて(あの時の強烈な反省もふまえて)、私ならこうする、という試案を発表してみたい。

?宮尾実践―私ならこう指導する(その2) 東京 鶏鳴学園中井浩一

聞き書きの検討を重ねてきて、結局、聞き書きの目的と構成と文体の三位一体の関係が問われていると考えるようになった。そして、こうした研究はこれまでほとんど行われてこなかったのだ。しかし、この三位一体の関係は聞き書きだけの問題ではなく、実はすべての表現活動に言えることだとも思うようになっている。
昨年の宮尾実践の不十分さとは、聞き書きの目的・ねらいがあいまいなことだと思う。今回は、学習旅行の事後学習としての表現はいかにあるべきか。また、そこで聞き書きの果たすべき役割は何か、そのための構成と文体はいかなるものであるべきか。それを提案してみたい。
 

4 参加費   1,500円(会員無料)

1月 09

1月7日、札幌で講演をしました。

北海道高等学校教育研究会(通称「高教研」)国語部会でのもので、昨年刊行した『日本語論理トレーニング』、3年前に刊行した『脱マニュアル小論文』の内容をもとにお話ししました。
新しい学習指導要領は、私のこれまで行った問題提起を、大いに有効な物とする好機です。

北海道高等学校教育研究会は50年近くの歴史があり、
校長などの管理職、教員(組合)、教育委員会の3者が協力して行っていて、
総会では約2千人が集まったそうです。
高校だけの研究会ですよ。

私も参加した「国語部会」の打ち上げでは、校長も教員も和気藹々と、また時には激しく本音で不満や悩みを話し合っていて、こうした場があることにホットしました。

全国では、管理職と組合、教育委員会の3者が激しく政治対立し、教員の学習会は衰退しているの所が多いからです。

私の「ファン」の校長や先生方と話せたのも、嬉しいことでした。

12月 12

10月11日(日)、高校作文教育研究会10月例会が行われた。

シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第6回 
報告は以下の2つ
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(1) 「聞き書き」を書かせて34年
                  茨城キリスト教学園高校 程塚英雄

 私の聞き書き指導の始まりは1975年の正月の頃だったから、もう34年も前のことになる。それから私の作文指導の柱の一つはいつも聞き書きだった。それは、茨城県立太田第一高校の記念誌『益習の百年』を見ていただけば一目瞭然なので、当日そのコピーを持参する。また、私の聞き書き指導の出発点となった当時の教科書『現代国語1?3』(筑摩書房)、生徒の聞き書き作品の載った『読書のすすめ』6?29号(太田一高図書館)、学年全員文集『わたしたちの作文教室』昭和57?平6(太田一高)のうちの何点かをお日にかけたい。さらに昨年の文集『国語演習通信』もご覧いただいて、皆さんの感想をお聞かせいただけたらと考えている。
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(2)祖父母の叙事詩 ?祖父母の人生を作品として残す?
長野県立 諏訪清陵高等学校 石城 正志

 この実践を一言でいえば、生まれてから今日までの人生を祖父母から聞き出し、それを詩にするということだ。話を聞く相手は祖父母であって、父母でもそれ以外の誰かでもない。聞き取った内容は叙事詩(人生の物語詩)として作品化するのであり、散文の記録として残すのではない。これがこの実践の肝であり全てである。
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 程塚さんの報告は、「自分史」の報告だった。
 ?表現指導全体の中での、聞き書きの位置づけ
 ?聞き書き内部の問題(目的、方法、文体など)
 ?歴史。程塚さんが影響を受けた教科書教材、1974年に筑摩の『現代国語』で取り上げられた丸尾寿郎氏や小沢俊郎氏たちが都立豊多摩高校で行った実践

 ?では、「歴史から学ばない者はバカである」ことを思った。

 石城さんの実践では、叙事詩で書かせる意味について議論があった。
 なぜ、ルポやインタビューのように書かせず、文学的に創作的に詩で書くのか。他にも創作手法には、1人称の「一人語り」、3人称で「小説」のように書かせる方法がある。
 ここでは、2つの大きな論点がある。

 ?事実か想像か
  対象との一体化、相手への感情移入による理解が進む面があるが、
  事実の押さえが弱くなり、勝手な思いこみがはびこることはないか。

 ?相手の意見と、自分の意見の区別
  相手との一体化は、自他の区別を曖昧にし、相違や対立を曖昧にしないか。
  書き手の自分自身の思いや考えをどう表現するか

 これは聞き書きの教育目的をどう考えるかにも関係する。
 こうした論点について、茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」を読んで考えた。
 これは長くなったので、数回に分けて発表する。

12月 12

 「聞き書き」における文体の選択についての私見を述べます。この文体の選択は、聞き書きに限らず、文章一般における大きな問題です。取材したことをレポート、ルポ、小説などで表現するときに、文体をどう使い分けするのでしょうか。
 この問題は重要であるにもかかわらず、教育現場でも自覚的な指導はなされておらず、研究者の間でも、ほとんど研究されていないようです。みなさんは考えたことがありますか。
 なお、以下の私見は、現在『月刊 国語教育』誌に連載中の聞き書きの討議を踏まえて行った座談会での発言です。分かりにくい点は無視して、私見の骨子をとらえてください。

◇◆ 「聞き書き」における文体の選択について ◆◇

 聞き書きというのは、普通何を意味するかというと自伝だと思います。本人が語った人生を他者が文章化したもので、『マルコムX』や矢沢永吉の『成りあがり』が有名です。つまり、本人の人生経験が一人称でまとめられたものを指すのです。ただここでは、教育としての聞き書きを考えているので、文献調査したり、現場に行ったり、現場の経験者の話を聞いたりするようなことも含めて、広い意味で考えています。

 聞き書きの文体ですが、これはふたつに分けられます。書き手が残されるものと、書き手が完全に消えるものです。書き手を残すというのは、問いと答えをそのまま残すインタビューの形や、書き手の観点が最初から最後まで貫かれるルポのような形になると思います。書き手を消す時には、一人称が普通ですが、三人称で書く方法もあります。
次に、取材対象の面ですが、ここでも大きくは二つに分けられます。一つは問題そのもの、事柄そのものを聞くことが中心となるものです。事実やデータであったり、それを基にした意見や主張を聞くものです。もうひとつは、問題に関わった語り手自身の人生や経験を中心に聞くものです。
 
 ではこうした対象と文体を、一般にはどう結びつけているでしょうか。事柄や問題点を中心に書く場合には、書き手を残すのが普通です。社会科や理科のレポートや論文の書き方です。対象を客観的にとらえようとします。

 一方、人生ドラマを前面に出す場合は、書き手を消す文体が選択されるようです。藤本実践や小野田実践では、一人称や三人称で、小説や物語風に書かせています。これはいわゆる「文学」的手法で、書き手が対象と一体化することをうながします。
この場合は、前者のレポートやルポでは、要約が中心になり、後者では描写が中心になってきます。意見や主張が問われるところでは、要約しなければまとまらないですが、人間ドラマでは、要約すると大事な要素が消えてしまいます。

 さて、以上は、現在の教育現場での一般的な考えだと思います。事柄中心に書かせるのが社会や理科のレポートで、人間ドラマを書かせるのが国語科だと思われているのです。しかし、ここには大きな間違いがあると思うのです。第1に、人間ドラマと事実は切り離せません。人間ドラマを書かせる場合でも、事実や問題そのものもきちんと取り上げるべきだし、社会や理科のレポートでも、そこに関わった人の人生経験も書かせるべきです。

 第2に、人生ドラマは、書き手を消す文学的文体だけではなく、書き手が残されるルポやインタビュー形式でも十分に表現できます。そこでの違いとは、何を教育目標とするかの違いなのです。

 ここで忘れてならないのは、表現において、「対象理解」と「自己理解」は切り離せず、高校生にとっては常に「自己理解」を起点とし、また最終目的としなければならないということです。「対象理解」としては、事柄も人間ドラマも、しっかりととらえさせたいと思います。そして、その「対象理解」から、「自己理解」を一層深めなければなりません。つまり、自分は聞き書きを通してどういうふうに考えが変わったか、影響を受けたかをきちっと書かせることが重要です。そのために必要な文体と構成を考えなければならないとうことです。

 こうした考えから、僕は、書き手が残される文体を基本にするように、高校生には薦めています。教育の場で行われる調べ学習や聞き書きにおいて、自分が消えてしまっては困るからです。

 しかしこれは、書き手が消える文体を否定するものではありません。対象を深く理解するには、感情移入も必要です。その場合は、その前後に書き手を表せるような他の文体が必要になると思うのです。社会科のレポートでもそうですが、最初に、人物やテーマを選んだ動機を書かせたり、最後に聞き書きを通して考えたことを書かせることが非常に重要です。林実践ではそれを書かせています。藤本実践は一人語りの文体ですが、初めに語り手の略歴(事実)を説明の文体で入れ、最後に、「聞き書きを終えて」という書き手を語る作文を書かせている。要するに、三つの文体を使っています。このように構成と文体を意識して、しかも選択的に使わせるという指導をするのが国語科の役割ではないか。そんなことを考えてみたのですが、読者のみなさんは、どう考えますか。

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12月 01

 すでに40年以上前に、私が今考えているのと、ほとんど同じことを、いなそれ以上の視野と深さで、考えている人がいたことに感動しました。

 1960年代から70年代にかけて、都立豊多摩高校では、奈良などの地域産業の調査を高校生が共同で行いレポートをまとめたり、戦争体験の聞き書きを行ったりするなどの先行的な実践が行われていました。それは筑摩の国語教科書にも掲載され、全国に強いメッセージで発信されました。

 その当時の実践のリーダーだった丸尾寿郎氏(教科書編纂をした小沢俊郎氏の同僚)に、11月22日の例会で、報告していただきました。当時の状況、実践の話、同僚たちとの連携、教科書に掲載後の反響など。
 これは戦後の教育史における「聞き書き」の歴史の確認でもあり、先人の実践の継承にもなったと思います。
 
 丸尾氏の実践家としての直観と信念、それを後で理論化する小沢俊郎氏。二人の間に響き合う信頼と敬意の念。それは残念ながらとてもまれなことであり、私の心にしみました。
 また、丸尾氏の実践と、それに響いて小沢氏が行う生徒作品の分析、実践の意味づけ。わたしがうなってしまうものがありました。
 抽象的な正義を振りかざす空虚な文章と、父母が体験した事実の重さを受け止めた文章の違い。形容詞の多い空疎な作文と、年齢、地名など、事実だけを積み重ねていく文章と。
 受け止めた文章は「戦争は許せない」式の単純な結論を排除します。ぎくしゃくした複雑な陰影を持ったものになります。
 「締め切り」をすぎてから提出した生徒の作品にすぐれたものがある理由の考察。教師への反撥、それがある生徒には何か芯になるものがあること。できあがった仲間たちの聞き書きに後押しされて、そうした高校生も書くに到る。こうした仲間との相互関係に、教育の力があること。
 こうした小沢氏の分析に、本当に感心しました。

 すでに40年以上前に、私たち以上のレベルで実践し、考えていた人がいたのです。それに素直に感動しました。しかし、同時に、そうしたすぐれた遺産が継承されず、埋もれてしまっていることにも激しい怒りと悲しみと無念の気持ちもあります。

 私たちは、本当に、歴史と先達に学ばなければならないと思います。
 詳しいことは、後日、文章にまとめるつもりです。