2月 14

◇◆ 11 「カタログ」文化 ◆◇

反文化の運動からは、たくさんの試みが生まれた。「カタログ」文化もその1つだ。例えば『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)は全世界の若者たちに支持された。
これは、若者が自分たちの生活、共同体、社会や精神世界を新たに作り、生き直すためのカタログであり、そこには全世界の知的遺産から、有効なものだけが選択され、新たに意味づけられ、並べられる。
東洋も西洋も、仏教もイスラム教もキリスト教もゾロアスター教も、禅や瞑想も心理学も精神分析学も文化人類学もマルクス主義もアナーキズムも、チェ・ゲバラも毛沢東も、体操も太極拳もベジタリアンも玄米食も、マリファナによる意識の拡大も、全てが横並びである。
思想も身体性の問題も男女の性関係も、様々な技術も、全てが対等で横並びである。
従来の伝統的学問の体系を無視し、自分たちに利用できるものなら、何でも自由に使う。もともとの意味付けを無視し、自分たちに生かせればよい。自分たちにとって有効か否かだけが問われる。
ゲーリー・スナイダーの「四易」Four Changesの全文がそこに掲載されていて、私は納得した。「四易」は「人口」「汚染」「消費」「人間の社会と個人」の変革の提言であり、生態学、文化人類学と仏教の教えを背景とし、生物学的かつ文化的多様性を荒廃させている権力機構と資源利用の格差を告発する。『全地球カタログ』とは、その「四易」をカタログの一つとして出している雑誌だったのである。
私が大好きだった ヘルマン・ヘッセが「反文化」の先駆者として、アメリカで一大ブームが生まれていたことにも驚いた。「荒野の狼」(ヘッセの問題作のタイトル)というロックバンドも生まれていた。ヘッセなどを取り上げた『アウトサイダー』という本が売れた。前後の文脈とは関係なく、「反文化」という視点から何でも引っ張ってくるのが反文化の反文化たるところなのである。
これにはアメリカのプラグマティズムの影響も強くあるだろう。「文化としての英語」ではなく、「道具としての英語」であり、現実に有効かどうかが問題であり、使えるものなら何でも使う。
こうしたあり方は、現在のネット文化の中での知識や技術の扱われ方の先駆けだったのだ、と今思う。これは「学問」や「教養」といった権威や階層性、その意識のこわばりを徹底的に解体しようとするもので、そこに覚悟と清々しさがあるのだが、人類の歴史、技術史、科学史、哲学史を踏まえた全体性や体系性を持たないという決定的な弱さをも持っている。
                         2022年8月4日  23年1月追補

2月 13

中井の短い文章を8つ、毎日掲載します。

すでに発表した文章群に続くもので、通し番号をつけておきます。

1つ1つが、みなさんへの問題提起のつもりです。みなさんの刺激になることを願っています。

本日から、毎日以下を掲載します。

10 「反文化(カウンター・カルチャー)」運動の3人  
11 「カタログ」文化
12 改めて、「公開の原則」
13 身体の声に耳傾ける方法
14 ヘンデルのメサイア
15 ジョブズと『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)
16 「iPS細胞」の姑息
17 再生医療の矛盾と倫理

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◇◆ 10 「反文化(カウンター:カルチャー)」運動の3人 ◆◇

 中井ゼミのメンバーに、うた、詩、音楽、舞踊・舞踏に、またその根源は何かに、強い関心を持っている人がいる。私もかつて20代には、そうしたことに強い関心を持っていた。

1960年代から70年代にかけて、全世界に「反文化」の運動が展開された。人間の自然破壊を問題にし、資本主義、帝国主義への批判を根底に持ち、そうした諸問題への批判が、西洋文明そのもの、西洋の近代思想全般への批判に拡大した。そしてその解決のためには、すべての根源に迫り、根源を考え、根源から変えていこうとする運動になった。
それはマルクスの思想に大きな影響を受けている。疎外と根源性という観点である。マルクスの資本主義への批判の根拠は、それが人間を疎外するというものであった。その疎外の現実のあり方の研究から、剰余価値や搾取の構造を明らかにし、プロレタリアートがブルジョアジーの国家を打ち倒すことで疎外を解決しようとするものだった。
つまり問題は疎外であり、その解決のためには、すべての根源にさかのぼればよいことになった。
この疎外論は、始まりに原初の統一があり、そこからの疎外に問題があるから、始まりの始原、根源に戻れば良いとするものだったのだ。(本当はこれはフォイエルバッハの立場であり、マルクスは最初の始原に対立矛盾を考えようとする。この2人の根底にはヘーゲルの本来の発展観がある。)
社会、経済、政治への批判は、日々の生活やそこでの意識の改革、男女の性関係や性意識の改革まで拡大され、人間の体や心のこわばりの問題としてもとらえ直され、人間の無意識、そこでの欲求や衝動の抑圧の問題としてもとらえ直された。
こうした西洋文明への批判は、東洋への関心ともなり、西洋と東洋を総合しようとする志向ともなった。
この「反文化」の運動は、第2次大戦後のアメリカとヨーロッパの若者たちから生まれたもので、全世界に広がった。アメリカでは「ビート」がその中心で、そのビート運動の中心は詩人たちであった。アメリカには変革運動は詩人から生まれる伝統がある。その詩の内容は、社会と文明を批判するものだが、それは詩の形式をも生まれ変わらせようとする。詩は目で読むものではなく、朗読するもの。人間の呼吸、息、心臓、といったからだの運動やリズムにひきつけて詩をとらえ直す。
それは、人と人との直接的なコミュニケーションを生み出す媒体であり、そこには人間の共同性、共同体が現れる。
ビート運動の中心には2人の詩人がいた。アレン・ギンズバーグとゲーリー・スナイダーである。
ゲーリー・スナイダーは、東洋への関心が強く、若き日に日本の大徳寺で禅の修業をした。日本の若者たちと「部族」をたちあげ、共同体運動や環境保護活動を展開した。ここに日本のヒッピーたちの始まりがある。
こうしたアメリカの思想運動に総合的な奥行きを与えたのが、オルダス・ハクスリーである。彼はもともとはイギリス人であり、著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員。D・H・ロレンスの弟子であり小説家である。『すばらしい新世界』が有名だ。後にアメリカに移住して「反文化」運動と接点を持ち、大きな影響を与えた。
ハクスリーは子どものころから身体性の問題に強い関心を持ち、意識の拡張にも関心をもっており、神秘主義に親しみ、鈴木大拙とも親交があった。全世界の文化的な遺産を総合的にとらえなおし、東洋と西洋を1つにすることに主眼があった。マリファナ(大麻)が人間の精神活動において有効であることを発見した先駆けの一人。こうした立場の表現としては最晩年の小説『島』がある。

さて、この「反文化」の運動に、私自身は20代において出会い、大きな影響を受けた。しかし、その限界を意識し、その克服のために、ヘーゲルとマルクスを学ぶために牧野紀之のもとで修行することになった。それが私の30代だった。今、その限界とは「疎外」「根源」の理解の不十分さ、つまりそこには発展についての深い理解がなかった、と考えている。
そのヘーゲルとマルクスについての私見を本としてまとめた今、この「反文化」の運動についても、今後、総括していきたい。今回はそのための「導入部」である。

                             2022年8月4日

2月 09

今月2月19日の読書会のテキストを決めました。

私の『現代に生きるマルクス』から、今考えていることに関連する箇所を読んで、問題を確認します。

昨年は、ヘーゲルが『法の哲学』の序論で問題にする、「時代を超える」「超えない」の議論と、プラトンがその『国家』で古代ギリシャから近代にまで時代を超えたとの主張をどう理解するのかを考えました。

それをまとめるにあたって、中井の前著である『現代に生きるマルクス』の不十分だった点を考えています。その欠陥を埋めていくことをしっかりと考えたいのです。

『現代に生きるマルクス』の読む箇所

?章
2の(1)
3の(5)

?章
3の(4)
4の(1)
5の(3)
8(3)

?
 2

以上です。

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ゼミの内容

2月19日日曜 オンラインで午後2時開始です。

参加費は2000円です。

参加希望者は早めに連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

2月 07

1月の読書会では牧野紀之「先生を選べ」を読んだ。

この「先生を選べ」を始まりとする牧野の師弟関係論を検討する作業をこの数年行ってきて、もう一度、「先生を選べ」から、今私が考えていることを確認したかったからだ。

■ 目次 ■

真理の中に、人類全体(知的遺産の発展)と自分(個人)を位置づける 
?牧野紀之「先生を選べ」を読み直す―   中井 浩一 

 1.人類全体(知的遺産の発展)と個人(学習と研究)
 2.先生と生徒と真理と
 3.今回考えたこと
(1)お勉強も創造的な行為
(2)正解主義 間違いの排除
(3)「先生」とは誰か
(4)創造的継承と惰性的継承
 
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◇◆ 真理の中に、人類全体(知的遺産の発展)と自分(個人)を位置づける 
?牧野紀之「先生を選べ」を読み直す―   中井 浩一  ◆◇

 人はいかに生きるべきか。それを考え続けているのだが、最近は「真理の契機として生きる」を答えと思い定めている。
それは牧野紀之の「先生を選べ」を始まりとする師弟関係論を吟味している中から思いついたもので、そうした観点は「先生を選べ」の中にすでに出ていることに気づいた。それを確認し、それを深めることを目的として「先生を選べ」の読書会を1月22日に行った。
 以下では「先生を選べ」のテキストが前提となっている。

1.人類全体(知的遺産の発展)と個人(学習と研究)

1章は、大学での学問・研究と、高校までの学習(お勉強)とは何か違うのかが示される。 
縦軸に人間の知的進歩を、横軸に時間を取るグラフを牧野は用意する。200万年前から始まった知的進歩のグラフを書き、そこに読者(大学教養課程の学生)一人一人が生まれてからの知的進歩のグラフを加える。
そこから何がわかるかと言えば、第一に学生までの進歩の速度の方が人類全体のそれよりも早い。第二に学生までの進歩の一歩一歩にはそれに対応する一歩一歩が人類の歴史にもある。もちろん個人の人生の中で200万年間のことを繰り返すのであるからそれは圧縮された方等で繰り返すことになる。そして学生の現段階はまだ人類の進歩のグラフに届いていない。そしていつか彼らの人生のある時点で人類の進歩に追いついたとすると、そこから個人の進歩と人類の進歩とは一致することになる。人類の進歩というのは直接的には人類の最高位に入る人が人類を代表して行なっていることになる。
このグラフから勉強と研究の違いを牧野は説明する。
勉強というのは人類の進歩のグラフ線の下の方での努力。必ず対応する点が人類の進歩の線上にある。勉強はすでに先人によって人類の知的財産となっている真理を知っている人から何らかの形で学んで自分のものにしていく行為である。
 研究は人類の進歩の線と一致している個人の活動。研究とは人類の誰にもまだ知られていない真理を人類で最初に発見して人類の知的財産に加えていく行為である。
こうした違いの一方で、両者はともに創造的行為である点で一致する。
勉強とは、勉強する当人から見れば、まだ知らないことを学んで自分のものにしていく、つまり未知のものを既知のものに変えていくこと。つまり、自分の努力を通して自分の頭または体の中に想像する創造的な行為であり、その点では、研究と変わらない。

以上の牧野の考えを踏まえて、私は次のようなことを考える。
 この牧野の考え方は、全体(人類の知的遺産の発展)の中に自分(個人)を位置づけるというものだ。それによって人は、自分の成長・発展を全体(人類の知的遺産の発展)の中に確認することができる。ここには主体(個人)に対する、絶対的な客観性(人類の知的遺産)からの保障がある。絶対からの自己の相対化が可能である。

2.先生と生徒と真理と

 2章では、学問をする上で重要な2点を説明する。「学問の主体的性格」からは自分の問題意識を大切にすることが強調される。「学問の客観的性格」からは「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」が出てきて、ここから、3章で「先生を選ぶ」が確認される。
 そして4章では、「先生を選んだ」生徒と、選ばれた先生との間に師弟関係が成立する。この関係の牧野の説明で重要な点は、先生と生徒の2項ではなく。真理を3項目として出したことだ。
これによって、先生と生徒の上下関係は、真理によって相対化される。真理の前では、神の前でと同じく、人はみな平等・対等なのだ。そして、生徒は真理に対して、先生と自分を位置づけることができる。これによって絶対の真理の前で、すべてが相対化され、そこに自分や先生などのすべてを位置づけられる。そこで自分自身の成長・発展を客観的に確認できるのだ。もちろんここで先生と生徒の上下関係は否定されるのではない。その意味が明確になるだけだ。
1章と2章から4章は必然的につながっている。1章の人類と個人は、ともに真理を目指し、真理の実現を目的としているということである。それが4章で確認される。1章の2つのグラフは、先生と生徒に対応するもので、その全体は真理を目指して発展しているということである。こうした考えが、私たちが生きる上でどれほど大切かを、今かみしめる。

3.今回考えたこと

以上を確認した上で、今回考えたことを書く。

(1)お勉強も創造的な行為
高校までの学習(お勉強)では、生徒の進歩の一歩一歩にはそれに対応する一歩一歩が人類の歴史にもある。もちろん圧縮された方等で繰り返すことになる(1章)。
これは学校で「教科書」によって学習していることに対応する。それが本来は創造的な行為だという指摘は重い。わたしはここで「想起説」を思い出した。本来の教育・学習は、それが創造的な行為の経験でなければならないのだ。それまでの世界が、1つの学習過程で、新たな世界として生まれ変わるような発見、深い感動をともなった経験。それが実際の教育現場で行われているだろうか。
それがなされていないことを私はよく知っている。それは生徒たちがいつも「正解」にだけ関心を持ち、「正解」だけにしがみつくことによく出ている。彼らは、「間違い」はだめで「正解」だけが正しく、それをどれだけ効率よく最短の時間で得られるかにだけ関心を持つ。それが「教科書」や授業、教育一般に求められているのではないか。
実はそれは先生や大人たち自身がそう生きていることの反映ではないだろうか。

(2)正解主義 間違いの排除
牧野の2つのグラフだが、これを「正解」の点をつなぐものだと誤解している人が多いと思う。「間違い」はそこでは切り捨てられる。こうした考えでは、「間違える」ことを恐れ、「間違え」ないでいるか、いつも不安でたまらなくなる。疑問を持ったり、思い切った挑戦をすることができなくなる。これでは「正解」と「間違い」がどう関係しているかが分からないだろう。本当のことを言えば、「正解」などどこにもないのだ。全ては間違いである。すべては間違いの歴史なのである。間違いだから、その中から次の発展が生まれて来る。それを繰り返してきたにすぎない。間違えることができる人間こそ、前に進むことができる人なのだ。そうした理解が彼らの中にしっかりと育てられなければならない。

(3)「先生」とは誰か
(2)と関係するが、「先生」の理解にも問題が起こる。
「先生」とは「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果」であり、その先生を選ぶ(3章)のだが、それは一人の先生、1つの思想を学ぶことではない。もしそうとらえたら、その先生を追い越すことは不可能になるだろう。自分の低さと先生の高さをつなぐものがなくなってしまうからだ。それは間違いの蓄積、間違いの歴史の中から、真理を生み出してきた歴史であり、トップといっても、それまでの間違いを止揚しただけであり、そのトップもまた次には間違いとして止揚される運命なのだ。それを理解し、そのトップまでの間違いの発展を理解しようとすれば、その過程の中に、自分を位置づけることができ、自分の成長・発展の可能性がわかるができるのだ。
 ここで、先生にも2段階あることを言っておこう。
1つは自分の学問・研究の専門分野のトップである。この人は確かにトップなのだから、それまでの成果を止揚している。しかし、その学問の発展過程、人間の成長過程を一般的な形では理解していない人は多い。その人には、適切な指導は難しいだろう。
それに対して、一般的な形で、学問の発展過程、人間の成長過程を理解しているひとはいる。それが哲学者である。その人は、学問や科学の発展を一般的な形で理解し、そこから具体的な学問においても、その現状の意味をとらえることができる。
先生にも、直接的な先生と、間接的な先生がいる。哲学者こそが真の先生だと私は考えている。事実、「先生を選べ」のようなとらえ方は、牧野が哲学者だから可能になっている。学問論について、他の研究者が書いた物と比較すればすぐにわかることである。
この2つのレベルは全く別のものではない。大きな仕事を成し遂げた研究者は、直接的な面だけではなく、かならず間接的に、つまり哲学的に研究の意味や課題の意味、間違いの意味を深く理解しているはずである。逆に、哲学者が具体的な分野の具体的な課題で成果を上げていることも普通である。
また、先生といっても、生きた先生と死んだ先生の2種類がある。前者には直接の指導を求められるが、後者では本や文献などから学ぶことになる。

(4)創造的継承と惰性的継承
さて最後に創造的継承と創造的でない継承、つまり惰性的継承について述べておく。
牧野はこの2つを分けるのだが、私は実際はその区別には意味がないと思う。継承はすべて創造である。創造でない継承は存在しない。創造的でない継承があるなら、それは継承ではないだけだ。あるのは継承か、そうでないかの区別だけだ
遺産をもらうことや、会社をもらうこと。それは惰性的では済まない。そのすべては創造的でなければ自分や周囲を破壊し、金も会社も壊すことになる。大金をもらうことが本人を幸せにする保証はない。場合によっては本人をとことんダメにする。
他方の精神的遺産についてだが、本来は創造的継承でなければならないものが、実際は惰性的継承つまり継承になっていないということは、あまりにもありふれたことである。要するに、惰性的継承など存在しないのだ。

  2023年1月25日

1月 13

1月22日のゼミ読書会のテキストが決まりました。

牧野紀之著「先生を選べ」を読みます。
テキストのない人にはお渡しします。

本気で学問をしたい人はどうやっていったらよいのでしょうか。
学問の本来のあり方、知識の過去の蓄積とどう向き合ったらよいのか。今の大学の師弟関係に疑問や批判のある人は、ぜひ参加してください。

この「先生を選べ」の師弟関係の原則こそ、人類史を踏まえ、ヘーゲルの概念を踏まえたものです。人間は真理、理念を実現してきたのであり、その実現過程が人類の歴史であり、哲学の歴史です。その真理と理想と正義の実現を目指す以上、その運動自体がその真理の実現過程における継承、発展を純化したものでなければならないことになります。それが牧野さん(牧野は中井の先生なので「さん」づけにします)が明らかにした師弟関係論であると私は考えています。

 この「先生を選べ」の原則では、人間に先生を選ぶという強い主体性とその責任を要求します。ここには選び、選ばれた関係から生まれる信頼関係があります。選ばれた先生は強い指導力を発揮して、生徒を成長させることが可能です。もちろんそれには強い責任が求められます。

これは現在の大学制度の根幹の批判であり、それを超えるものです。そのことは牧野さんがこの原則を示した1970年代から今に至るまで変わらないと思います。現行の大学制度内には、この真の師弟関係はありません。そこで教え研究する教授たちは、みながサラリーマンであり、その生き方の限界を持っているからです。

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ゼミの詳細

1月22日日曜 オンラインで午後2時開始です。

参加費は2000円です。

参加希望者は早めに連絡ください。
ただし、参加には条件があります。