11月 15

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。それから2年が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

2017年10月の学習会の報告を掲載します。

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乾 義輝著「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」学習会(2017年10月15日))報告
田中由美子

今回は、元県立法隆寺国際高等学校校長、乾 義輝氏の、思春期の親子関係についての論文を読みました。
子どもの思春期における、親自身の課題がテーマです。

学習会では、参加者の皆さんから、子どもの思春期やご自身の悩みが「問題のデパート」のように様々出されて、熱心に意見交換しました。
また、会の最後には、子どものことよりご自身のことを語る方が多かったのも、印象に残りました。

以下、学習会を終えての私の感想と、参加者の皆さんの感想を掲載します。

(1) 親の悩みと、変化
参加者から出された悩みは、たとえば、明るく活発だった子どもが、学校でのトラブル以降スマホ片手に勉強も手につかないといった悩み。
子どもとほとんど話ができない、また穏やかに話し合えないこと。
子どもの、友人や部活の顧問との関係。
大学入試を前にしての不安、大学生の息子の恋人や、将来の就職、結婚の不安等々だった。

また、親として、子離れが必要だとわかっていながら、子どもに手をかけ、心配してしまうという悩み。
ドラマ、『過保護のカホコ』で描かれた、母親の娘への過保護の様子が自分にそっくりとの反省。
また、その過保護や心配が、中学受験の「失敗」に親の責任を感じてしまったことから来ていると話した方もあった。

また、子どもの思春期を通して親自身の意識が変化したという経験も話していただいた。
明るく活発だった頃の娘に戻ってほしいという参加者の願いに対して、別の参加者から、彼女も以前は娘にキラキラした楽しいだけの世界にいてほしいと思っていたが、娘が二十歳過ぎてから「ママはきれいごとで育てようとしている」と言われたというエピソードが紹介された。
思春期の渦中にはその思いが言葉にもならず、人間関係のドロドロの中で「自分を守るだけで必死だった」とも。
その参加者は、娘は思春期にドクロの柄の服を着たりして、アタシに近付くんじゃないよと自分を守っていたのだろうと振り返った。
また、他の子どもについての見方も変化し、ああいう格好しているから悪い子どもだなどと決めつけるのではなく、思春期の不安を慮れるようになったとのことだった。

また、娘のミニスカートをとがめると、その理由を聞かれ、それに対して「『ご近所様』や『世間様』しか出せなかった、自分が無かった」と振り返った参加者もあった。

(2) 生き方の再構築
子どもの思春期には、子ども自身に課題があるだけでなく、親にも課題がある。
乾氏は、親自身の生き方や価値観、生い立ちや夫婦関係を問い直し、再構築する必要があると述べている。

また、その課題は「一人で誰の助けも借りずにやり遂げられる仕事ではない」、「同じ問題を抱える親同士の人間関係に支えられ」てこそできることであり、その中で「子どもとの関係」や「子どもへの願いや期待が組みかえられていく」と。

子育ては家庭内の孤独な仕事になりがちだが、本来は、子どもを社会に送り出すことを目的とする、社会的な「仕事」だ。
社会的な「仕事」は、社会的に、つまり他者と学び合い、相対化する中でこそ進めていけるものだと思う。
また、乾氏が、親自身の生き方や人間関係の再構築を「仕事」と表現しているのを読んで、それが「仕事」だと再認識した。
つまり、子どもの生活を支え、教育することだけが子育てではなく、親自身の生き方や考え方をつくり直していくことも、「仕事」だ。
子どもが思春期に自分自身をつくり直さなければならないときに、実は親にも同じ課題がある。
子育ての仕上げとしてその大事な「仕事」をすることが、子育てに重きを置いた生き方から子離れへ、子育て後の人生へと進むことになるのではないだろうか。

◆参加者の感想より

中学生の母、Aさん
初めて学習会に参加させていただきました。テーマは思春期と親の関わりでしたが、他の保護者の方々のお話を聞けたのがよかったです。どなたのお話も少しずつ共感できる部分があり、教えていただくこともあり、テキストを読み進めながら先生からいただいたキーワードも心に残り、思春期の我が子に対してすこし、目線が変わりました。

テキストを前にして、思春期真っ只中の我が子が思い浮かび、カッカしてしまいましたが、感じていた自分の問題はそこではなかったことを、帰ってきてから思い出しました。
学習会でも学びましたが、思春期とは、子の課題であると同時に、親の課題でもあるということ。参加者からお話が出ましたが、親自身のトラウマであったり、この先の我が子に対してあるいは社会に対しての漠然とした不安であったり、そういったものを抱えながら、子どもの思春期をどう乗り越えてゆくか。テキストの「研究結果と考察」に書いてある、親の持つべき自信と責任とは、どのような自信と責任なのか。答えのないものかもしれないし、人それぞれなのかもしれませんが、それらをもう少し話し、知りたかったと後になって思いました。

このテーマに限らずまた、学習会に参加してみたいです。

中学生の母、Bさん
参加者の皆様のお話を伺っていますと、皆同じように悩みながら、一生懸命子育てをされてこられたのだと感じました。それなのに、何故親が思い描くように、子どもは育ってはいかないのでしょうか?
そんな疑問も会が進んで行く中で、絡まっていた糸がほどけて行くように答えがみえてきました。

振り返ってみれば、私は、子育てに一生懸命になるあまりに、いつも自分を責め、目に見えない何かに縛られていました。
そんな私自身が、解放され癒されなければ、子どものありのままの姿を受け入れる事ができなかったのだと気づかされました。

この学習会の参加を機に、子どもとの関係を今一度、見直していきたいと思います。

中学生の母、Cさん
「豊かな人間性を培う家庭教育の推進ー『思春期』家庭の支援の在り方ー」とのタイトルのテキストを事前に頂き、どんな講義を頂けるのか、という気持ちで臨みました。
が、意外にも、参加者全員のスピーチから始まりました。自己紹介、悩んでいること。。。何をお話したらよいのでしょう。。。困りました。が、皆さんの心から出るお言葉を聞くことで自分の悩みが整理され、これまで関わって来た子育てに関し抱いていた漠然とした思いが、形になったような気がします。我が子も思春期を迎え成人していく大事な時です。今日の日本の企業社会が求めているような「よい子」というアイデンティティーではなく、本当に必要なアイデンティティーとは何なのかを模索しつつお勉強を続けていきたいと思いました。

また、我が子には国語が好きになってほしく、最近鶏鳴学園に入園させましたが、テキストにそったお勉強だけでなく、自分の持つ悩みについて生徒全員で分かち合うというお勉強もしているとのこと。今日、私が体験したように、我が子も自分のことが整理でき、他の生徒さんのことを知ることにより感想・意見をもち、それが言葉にできる。とてもよい経験をさせて頂けていると思いました。

高校生の母、Dさん
今回は思春期がテーマだった。原稿を読みながら自分自身のことを振り返り、また他の参加者のお話を聞くことで、自分のことを相対化して考えてみる良い機会となった。

子どもは成長につれて、行動範囲が広がり、いろいろな人と接するようになり、親の影響範囲から次第に出て行く。子どもが小さい時期、親や先生は子どもを、建て前の綺麗事の世界に閉じ込めておこうとしがちだが、子どもが思春期に入ると、現実と建て前の矛盾に敏感に気がつき、大人たちに反発したくなる。やがて踏み出していかなくてはならない大人の世界に不安を感じる難しい時期が思春期なのだと、自分の遠い過去を振り返った。子どもたちには現実社会を過度に悲観的に見ることのなく、希望をもって自分の進む道を見つけ出して欲しいと思う。

また、「母親業はもう失業」という言葉も印象に残った。親と子の関係は終わることはないが、子どもを庇護する役割としての母親業は確かにもう終わりの時期で、子どもとの新しい関係、おそらくは、大人同士の対等の関係を気づいていかなければならない時期に来ているのだということに気がついた。

高校生の母、Eさん
「思春期は親子関係の作り直しをする時期」という田中先生のお話が一番印象深かったです。私達親も成長する事が必要だと思いました。

また、育児の先輩ママの話を伺って、悩みはその渦中にいると先がみえなく不安になるけど、解決策がわからないなりにも向き合い続けることが大切だと私なりに感じました。

子供の事を真剣に考え悩みもがいている同士とシェアできて、孤独から少し解放され、明日も頑張ろう!と思えました。

高校生の母、Fさん
今日は初参加させて頂きました。みなさん悩みや問題の大小はありますが やはり子育てや自分育てに向き合っている方々や 田中先生の温かい雰囲気にいい時間を持てたと思っています。
ともあれ やはり今の社会で生きて行く私達。今を受け入れて変わっていく勇気 変えてはいけない勇気をもらえました。

大学生の母、Gさん
今回のテキストに、『過酷な競走社会に脅され、見捨てられる不安に駆り立てられて生きる親が、わが子を脅して「よい子」競走に駆り立てる』、また、『自分の生き方や価値観をもう一度問い直しそれを再構築していくことを迫られる時期でもある。この時期を思春期に対して思秋期と呼ばれている』とあった。どちらもまさに私のことである。子供たちは既に高校を卒業しているので、一応子育ては卒業したが、現役の時は、「よい子」を目指した子育てであった。私にとっての「よい子」とは、どのような子供であったのであろうか。また、思秋期をどのように生きていけば良いのであろうか。

私の場合、「よい子」とは一般的によく言われるような、親のいうことを聞く子供のことではない。その考え方は、自身の幼少期の経験からきている。私の母は厳しい躾をする人で、口答えや言い訳はもちろんのこと、説明をすることさえ許されなかった。母の言うことが絶対であり、自分の意思に関係なく親の言うことを聞く、私自身が「よい子」であったのである。自分が子供を育てる時には、まずは子供の意見を聞いてから物事を判断しようと決め、そして、子供にも他人の意見を聞くように伝えた。それが相手への優しさであると信じていたからである。相手の意見を聞き、誰にでも優しく接していれば、いじめなどの過酷な問題にも立ち向かえる強さが身につくと真剣に思っていたのだから、我ながら単純過ぎた。思っていた以上に幼少期の経験が大きく影響していた。私は優しさであったので子供に求めることは違ったが、結局、母と同様に「よい子」を強制してしまった。

今、思秋期になって自身の生い立ちや子育てを振り返り、やっと自分探しをしている。母の裏返しではなく、自分はどのように思うのか、ハッキリと自分の意見を持てるようになるためにこれからも学習会を続けたい。

11月 14

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。それから2年が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

来月12月3日(日曜)の学習会の案内を掲載します。

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12月の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)の案内
                                   田中由美子

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
年に数回開催し、親子関係や、その他現代の子どもを取り巻く様々な問題に関する悩みを話し合い、ご一緒に考えています。

前回、10月の学習会に続いて、12月も子どもたちの「思春期」について考えます。
10月は思春期の親子関係に焦点を当てましたが、12月は、思春期の子どもたち自身にいったい何が起こっているのかをテーマとします。

テキストは、現代の中学生を描いた小説、重松清著『エイジ』(新潮文庫)です。
中学生ともなると何を考えているのやらわかりにくいものですが、小説ですから、彼らの家庭や学校での思いが見事に表現されています。

小説の舞台装置としての「通り魔事件」をきっかけに、子どもたちが世間に「嘘くささ」を感じ、また自分自身にも戸惑います。
「思春期」とは何かがよく描かれていると思いますが、お子様のことや、ご自身の思春期に思い当たるようなところはあるでしょうか。

また、20年近く前に書かれた本書は、すでに生活、文化的には少々古いですが、テーマの一つである「シカト(=無視)」は現代版のいじめを象徴するものだと思います。

鶏鳴学園の中学生クラスの授業でも教材にしている小説なので、学習会では子どもたちの声も紹介します。

1. 日時:12月3日(日曜)14:00?16:00
2. 場所:鶏鳴学園
3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
4. テキスト:重松 清著『エイジ』(新潮文庫)
※ 時間が許す範囲で、またご興味に応じてお読みください。
小説について話し合うのではなく、目の前の子どもへの理解を深めるために、話し合う材料の一つとしましょう。

参加をご希望の方は、「家庭・子育て・自立」学習会ブログ内の、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 連絡先 〒113-0034
  東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
       鶏鳴学園 家庭論学習会事務局
  TEL 03?3818?7405
  FAX 03?3818?7958
 

11月 02

みなさん、お元気ですか。
台風が毎週のように来て、雨が多い10月でしたが、
この数日は、気持ちの良い秋晴れが広がっていますね。

11月と12月の読書会テキストが決まりましたから、連絡します。

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◇◆ 11月、12月の読書会テキスト ◆◇

許 萬元 (著)
『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』 (大月書店1968年)
を読みます。

9月の読書会で取り上げたのですが、
内容がありすぎて、1回では終えられませんでした。

そこで、11月と12月の2回をかけて、丁寧に読んでみることにします。

11月は2章から5章まで
12月は6章と7章

『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』は刊行が古いですが
アマゾンで中古品で簡単に入手できます。

本書はヘーゲル哲学の発展観を深い理解で提示してくれます。
発展とは何か
その「始まり」「途中」「終わり」とは何か
認識と実践とはどう関係するか
など

最重要なテーマが取り上げられています。

◇◆ 2017年11月以降のゼミの日程 ◆◇

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

11月
 5日(日)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 19日(日)読書会+「現実と闘う時間」

12月
 2日(土)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 16日(土)読書会+「現実と闘う時間」

                                        
                                       
◇◆ ヘーゲルゼミ ◆◇

毎週月曜日

原書購読と日本語テキストで読む時間があり、
原書購読は午後5時から、小論理学の24節を読んでいます。
日本語テキストの時間は午後7時過ぎからで、
原書購読に関連する日本語文献を読んでいます。
 
                                       

10月 11

10月の読書会の追加テキストの案内をします。

10月22日(日)読書会テキストは

『アンティゴネー』 (岩波文庫) ? 2014/5/17
ソポクレース (著), 中務 哲郎 (翻訳) 

です。

ギリシャ悲劇の古典を読むのが目的ですが、

中井ゼミのメンバーが来春にこのテキストを上演することになったので
それを側面支援する目的もあります。

今、今回の読書会のための準備をしているのですが、
読書会テキストを追加することにします。

『演劇とは何か』 (岩波新書 赤版32)
鈴木 忠志 (著)
です。

アマゾンで
中古で安く、簡単に入手できます。

これは文字通りのテキストですが、
演劇の本質論を展開し、
現代のわれわれがギリシャ悲劇を上演し、それを観ることの意味も検討しています。
今回の読書会では、ギリシャ悲劇の古典を読むだけではなく、それを観ることの意味までを検討したいと思います。

9月 28

2017年の夏合宿の報告です。
感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

6人の参加者の感想を掲載します。一部仮名です。
昨日に続いて
残りの3人です。

■ 目次 ■

4.人は自らの中に否定=限界を持つ  田中 由美子
5.自分の心の動きを意識する  黒籔 香織
6.存在論の中にある発展の論理  松永 奏吾

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◇◆ 4.人は自らの中に否定=限界を持つ  田中 由美子 ◆◇

 合宿では、ヘーゲルの発展の論理を、論理学のはじめの存在論などから学び、
人はどのようにして成長することができるのかを考えた。

 まず、自分が何者なのかということは、自分はこれこれの人間ではないということでもある。
どういう人間であって、どういう人間ではないのかというその限界が、その人が何者であるのかという規定である。
つまり、存在することのなかに否定や他者が含まれている。否定がなければ何も存在し得ないと言える。

 そうして人は自らの中に否定を持ち、そこに矛盾があるから、他のあらゆるものと同様、必然的に運動し、
変化する。自分ではないものへと変化し、しかし、それは元々自分の中にあった否定的な存在、
まだ外化していなかった自分が引き出されたのでもある。

ただし、その変化がたんに偶然的で、納得づくのものではない場合は、人は同じレベル内を虚しくさまように留まり、
自分をつくり上げるような成長にはならない。

しかし、人はその虚しい悪無限という限界も超えていくことができる。自分の限界を自らに対してはっきりさせ、
つまり限界を納得づくで、自覚的につくり出していくことで、人は人として成長する。自分の中の自らそのもの
である限界を探り当て、引き出し、明らかにすることが可能だ。そうして自分の中から自らつくり出した限界だから、
人はそれを超えていくことができる。その矛盾の運動を、自分のゴールに向けて何回でも繰り返し、深めることができるのだ。

 具体的には、何を目的やテーマとして生きて、そのために誰とどのように関係していくのかを、自分自身から引き出し、
その他者に現れた自分を超えていける。そうして自分自身、すなわち自分のテーマをどこまでも深めていける。
 今回の学習から、そう理解した。

 そのことをもとに、塾の仕事での現在の課題の一つを考えてみた。
生徒がおかしなことをしていたら批判をするが、腰が引けてしまうことがある。特に、生徒が自分の経験を
ていねいに作文に書いてきたときに、その内容、本人の言動に問題があっても、精一杯正直に書いたこと自体を
受けとめるところに偏りがちである。

世間には子どもをほめるべきだ、そのありのままを肯定すべきだという主張があふれているが、どう考えるべきなのか。
中井さんは、否定や批判がダメだという考えは、その否定が人間の外からのものだという誤解に基づいていると話した。

はじめに書いたように、否定や限界は人間の中にある。つまり、子ども自身の中に、今のままの自分では嫌だ
という思いがある。たとえば、子どもがいじめを正当防衛だと主張すれば、そのことに気をとられがちだが、
表面に表れていることの奥に、子ども自身の自らの否定、限界が生まれてきている。正に子どものその思いを
感じるからこそ、その上に強い批判は必要ないだろうと考えがちだ。しかし、その思いの意味をどれだけ深い
レベルで認めて光をあてることができるのかが問われるのだと思う。

◇◆ 5.自分の心の動きを意識する  黒籔 香織 ◆◇

1.合宿全体

2014年夏以来、3年ぶりに合宿の4日間すべてに参加ができた。予習をする余裕はなかったが、原書講読から
参加できて良かった。自分自身に対しても「合宿に4日間参加する」と意志を貫けて良かった。自分の中に
出てきた欲求、意志を周りに流されずに、捉えて自覚し、行動することを積み重ねていきたい。

合宿は、自分の中で竹の節のように区切り、制限(Shranke)を作る場で、自分の今の状況を確認する場として
とらえている。逃げ場がなく、自分自身を追い込める場との認識があった。自己確認の場として今回の合宿を
振り返ると、おおむね仕事としては順調であることが分かった。

一方課題としては、相手に分かるように的確に話をまとめられないことと、矛盾を捉えて、その矛盾を全面的に
押し出して展開した文章を書くこと。そもそもこの矛盾を捉えることがまだまだできない。矛盾を捉えられないから、
話を的確にまとめられない面もあると思う。今回中井さんから「『心が動く』ということには、そこに矛盾がある」
とのアドバイスを受けた。仕事や文章を書く上で心の動きを意識していきたい。

2.Shranke(制限)は乗り越えた後にはっきりする

中井さんが合宿で説明した「個々のGrenzeが1つのGrenzeとして捉えて理解が深まった時、絶望となり、Shrankeとなる」
という説明が分かりやすく、心が動いた。

私は一時期繰り返し自分がGrenzeに直面しているとの文章を書いていた。すなわち、周りからの評価ばかりを
気にする生き方では、私はやっていけないということを自覚し、それに代わる生き方をつかもうとしていた。
洋食屋のマスターに週1回話して、食やサービス業の一つ一つから、マスターの人や物事の見方を学んでいた。
日々の生活に大事なものがあることを伝えられる文章を書いていきたいと思っていた。当時書いていた文章は、
感覚的に心が動いたと思って書いたものでも、具体的にどの部分で私の心が動いたかを私自身、はっきりと
とらえきれていなかったのではないかと思う。コツコツと日常に大切なことを書こうとしてきて成果を出せた
今だからこそ、当時の自分を振り返られるのだと思う。

3.根本的な矛盾を捉える

存在論を丁寧によみ、ヘーゲルが「存在」(sein)と「否定」(nicht)から一貫してシンプルに論理学を展開
している点にヘーゲルの凄味を感じた。「存在」と「否定」という根源的な矛盾を捉えて言葉にしているからこそ、
その言葉が心に残り、自分の生き方や経験を振り返って考える行動を促す力があるのだと感じた。まだ矛盾を捉える
とはどういうことなのか、がわからない。心が動くということは、私の中で運動が起きているため、
何かしらの矛盾がそこにあるということだ。心の動きを手掛かりに、矛盾を捉えるとはどういうことかを
はっきりさせていきたい。そしてヘーゲルのように人の心に届く根源的な矛盾を伝えられる文章を書けるようになりたい。

◇◆ 6.存在論の中にある発展の論理  松永 奏吾 ◆◇

 ヘーゲル哲学の体系の中で、「制限と当為」が、存在論の中にあること自体に驚いた。普通の意味で、
「制限」とは、人間の意識が捉える限界のことであり、「当為」とは、制限を捉えた人間がそれを乗り超える
活動のことである。かたや、存在論は、論理学の第一部であり、後に本質論から概念論へと発展していく、
そのはじまりの部分であり、論理の基礎のような位置付けである。制限と当為は、動物や植物には関係のない、
人間の主体的な活動レベルの話であると思っていた私は、論理のはじまりのところにそれが出て来るということに驚いた。

 しかし、存在がただ変化し、移行するだけだったら、そこには発展がない。発展がないということは、
「進化」もない。中井さんの解説を聞きながら、私は昆虫の「進化」のことを思い浮かべて聞いていた。

トンボは、幼生期はヤゴとして、水中で生活している。ヤゴは、水中で脱皮を繰り返しては成長し、
羽化直前の終齢になると、羽らしきものを背負った姿になる。二つの複眼の間隔が狭まったトンボらしい顔つきになり、
餌を食べなくなり、水面から顔を出し、エラ呼吸が不要になりつつあることが分かる。これらはまさに「変化」であるが、
それは、トンボ類が水中生活から空中生活へと「進化」を遂げた歴史が、個体において繰り返されたものでもある。
水中生活の限界から空中生活へ、あるいは空中生活の限界から水中生活へと、生活を変えるべき諸問題が
そこにあったはずである。トンボにとっての諸問題は、トンボの外的環境の側にあったとも言えるが、
トンボの内的環境がそれを「制限」としたからこそ、トンボは変態を遂げ、「当為」を実現した。

人間はそれを意識を媒介にして行う、という点が異なるだけであり、植物、動物、昆虫の変化は、
制限と当為の論理そのものの実現である。存在論の中に、すでに生命のもつ論理が潜在的にある。
そしておそらくは、生命誕生の前、地球の活動の中にも制限と当為の論理はある。そこから生命が誕生し、
人間が誕生し、私が生きていることの意味もすべてこの論理の中にある。すべての存在の中に発展の論理がある。
合宿中にこういうことを考えた。