2月 25

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

田中さんは、鶏鳴学園の塾生の保護者でしたが、6年前から中井ゼミ(大学生、社会人のクラス)で、
ヘーゲル哲学を中心とした学習を積み重ねてきました。5年半前からは鶏鳴学園に中学生クラスを開設し、
担当してきました。

その田中さんのテーマは「家庭・子育て・自立」であり、満を持して、その学習会が始まったわけです。
今回は、この学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子
(1)家庭についての思想をつくる場
(2)オープンに学び合う場
(3)「自立」を考える場

※ここまでを本日に掲載。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

※ここまでを明日掲載。

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◇◆ 1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子 ◆◇

(1)家庭についての思想をつくる場
数年前から、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミに参加して、自分が築いた家庭について、
また、私が育った実家について振り返ってきた。
夫婦や子育ての問題について考え、また、両親の老後の問題にも取り組んでいく。
子育てが、社会で働く人間を送り出す仕事であるのに対して、
老後の問題は、それまで社会で働いてきた人が自力では生活できなくなったときに、
その生活をどう支えるのかという問題だ。
また、私自身はどう老いて、どう死ぬのか。
子どもを育てる中で、自分の子ども時代から思春期をある意味辿り直し、「復習」してきた。
そして、今後は親の介護や看取りに際して、
自分の今後のことを「予習」していく。それはどういうことなのだろう。

また、ゼミでは、私だけではなく、その多くが独身者であるゼミ生全員が、家庭、家族の問題を考えてきた。
直面する問題に対処しようとするとき、自分の生き方、考え方をつくっていこうというときに、
その問題は外せない。
私たちは誰もが、自分の人生を生きるために、一つの家庭で子どもとして育てられたことを
相対化する必要がある。

家庭、家族とは何か、自分はどう育てられたのか、また、子どもをどう育てるのか、
親の介護とは何かということについて、私たちそれぞれが自分の思想をつくっていこうということが、
学習会スタートの趣旨だ。まず、テキストを切り口として、私たちの生活の実感を率直に話し合い、
それぞれの生活を振り返ることができるようにしたい。また、その上で、問題解決のための方向性を、
テキストも手掛かりにして考えていけるような学習会を目指す。

(2)オープンに学び合う場
家庭の外での仕事については、たいてい同じ仕事をする仲間が周りにいて、学び合う場がある。
また、日々社会的な評価を受ける。
それに対して、家庭内の仕事、子育ては、各々の家庭という閉じた場で行われる孤独な仕事になりがちだ。
「家庭の恥」を外にさらしたくないという気持ちも働きがちだ。また、子育てへの評価は、親自身の価値観
の中に閉じたものになりやすい。
そして、子育てに関する自己教育の機会は乏しい。
私は、子どもの思春期に戸惑い、悩んだときに、本を読んだり、夫や友だちに愚痴をこぼしたりするだけで、
問題を根本的に考えて深められる場を持たなかった。
私たちの親の世代とは異なり、今は、一般教養的なことを学ぶカルチャーセンターや娯楽の場、また
ママランチなどの交流の機会には事欠かない。しかし、子育てなどの悩みについて本気で語り合い、
親自身の生き方について考えられる場は、今も乏しいのではないか。
PTAも、行事などのときに教師の手伝いをする役割しか担っていないのが現状だ。

しかし、本来子育てとは、子どもを社会に送り出すことを目的とする、正に社会的な仕事だ。
主婦の仕事と言えば、私はそれを家事だと考えがちだったが、それだけではない。むしろ、どう子育てするのか、
どういう家庭をつくるのか、そして、どう子別れするのかという思想をつくっていくことが中心にあるべきだった。
 そういう広い視点を持つことはなかなか難しく、いきおい、家事の完璧を追求することに偏ったり、
子どもの過保護や過干渉に陥りやすい。
 また、家庭の思想をつくることは、主婦に限らず、全ての母親、父親の仕事だ。
こういう大人の学習会の必要性を、中学生のための国語の授業に取り組む中でも感じてきた。
より広く言えば、どういう社会をつくっていくのかという思想が必要だ。
今現在の社会に合わせて子どもを育てようとするのではなく、こうありたいという理想の社会に向けて
働く子どもを育てようとするのが本来だ。そのために、現実社会にどれだけ向き合い闘えるのかが、
まず親自身に問われる。親の人生を切り拓くことが、子どもがその人生を切り拓くことの土台になる。
つまり、親の「自立」が問われるのではないか。
子育てから、また自分自身が「育てられた」ことから、社会を考え、また子育て、その他の問題を
社会的な視点をもって解決するために、オープンに語り合い、真剣に考えていける場をつくりたい。

(3)「自立」を考える場
「自立」とは何か、何をして、どう生きることが「自立」なのかというところで、私は長年混乱し、
つまずいていた。
また、それは私だけの問題ではなく、世間一般に根深い混乱があるようだ。大学生・社会人ゼミの
女子大生が、母親を「専業主婦で、ダメだ」と断じ、一方で、女子高生が「男が女を養う」と何の
留保もなく言う。梅棹忠夫の、経済的基盤を持たない主婦批判に対して、女子中学生が同調したかと思えば、
一転、感情的に反発する。
本来、「自立」の基準は、女性が外で働いているか否かではない。
家庭の中でも外でも、社会的な展望のある自分のテーマを持って生きているのかどうかだけが、その基準である。
男性も同様だ。社会で働いていることが、即、どういう社会をつくり、どういう家庭をつくるのかという展望を持ち、
「自立」していることを意味する訳ではない。
家庭内の仕事は、ある意味最も「共依存」の問題が問われる場だ。それは、家庭が、人間の本性がむき出しになり、
第三者の入る余地に乏しい閉じた場であるという話に留まらない。
また、妻が夫に経済的に依存することが多いからでもない。むしろ、そのように必然的に依存し合って生活する中で、
同時に個々人の「自立」が求められ、子どもを「自立」させる必要があるからだ。
親の「自立」、自分の「自立」を問うていきたい。

※明日につづく。

2月 16

旧約聖書読書会の感想 その5

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 5.神を必要とし、人間になること 塚田 毬子(大学生) ◆◇

 旧約聖書は大学の授業で読んだことがあった。講読ではなく、旧約と新約の有名な個所を半期でざっと
味読する形の授業だった。その授業のねらいは西洋文化の根底を知ることであったので、聖書をあらゆる
文化の前提としてきたヨーロッパと、日本をはじめとする東アジアの文化のあまりの違いに異文化理解の
難しさを痛感した経験だった。鎌倉時代になってようやく宗教が民衆に根付き始めた日本と比べるとレベルが
違いすぎて、かなわないと思った。
今回改めて旧約聖書に接し、特に出エジプト記を興味深く読んだ。まず、モーセとアロンは一心同体であると
感じた。モーセはヤハウェの言葉を聞くが、民に語る言葉を持たないため、モーセの口の役割をアロンが担う。
モーセが抽象であり、アロンが具体である。正確には、モーセが思想であり、アロンはその表象であると言える。
その重要性が顕著に表れるのが28章の「金の子牛事件」であり、モーセがシナイ山に登り行方知れずになった途端、
民は分かりやすいイメージを求め、禁じられている偶像を作りそれを崇め奉るなど急に堕落し始める。
モーセが直接ヤハウェの声を聞くことができるため抽象のほうが優位なのだが、具体を伴わないとヤハウェと
民を繋ぐことができない。両者がバランスよく共にあることが必要とされていると思った。出エジプト記では何度も、
モーセが民に語っているかのように書かれているが、正しくはアロンが口の役割を担っているはずので、
アロンの記述の省略に違和感を覚えた。
また、4章16節にモーセがアロンの神となる、とヤハウェが明言しているのが気になった。出エジプト記中、
契約はヤハウェとイスラエル民族の間で成立するのだが、実際にヤハウェの言葉を聞くことができるのはほとんど
モーセのみであり、民はむしろ神の言葉を聞きたがらない。ましてやヤハウェ自身がアロンの神はモーセであると
言うのはどういうことなのか。23章のエテロの助言は、宗教を民を統治するための道具にしているように感じられた。
ここでの契約関係は人と神の一対一の関係ではなく、神と民の間に代表者を媒介とする。また、民がヤハウェを必要
としているとはほとんど思えない。民はヤハウェに連れられてエジプトから出てくるが、荒野での過酷さに
事あるごとにモーセに文句を垂らし、エジプトでの奴隷生活の方がましだと愚痴る。しかし重要なのは、
モーセとヤハウェの関係よりも、民がヤハウェを真に必要とすることであると思った。民族全体ではなく
民の一人一人と神との間に契約関係が結ばれれば、民を統治しようとする代表者は必要が無いので民によって
殺されてしかるべきだと思った。民は荒野での苦しい生活よりも快楽のあったエジプトでの奴隷生活を望むが
それは明らかに間違いで、どんなに過酷だろうと荒野に出て、神を必要としなければならないということだと思う。
イスラエル人を奴隷として痛めつけてきたパロは、蛙・虱・虻等々の嫌がらせをされてもイスラエル人に
暇を出すのを頑なに拒み、家臣に「いつまであいつにかきまわされるのですか」と冷静に忠告されるほど
何回も同じことを繰り返しているのだが、パロの心を強情にしているのはヤハウェであり、ついにパロに
出エジプトを許させたのもヤハウェであり、エジプト軍にイスラエル人を追って来させて海に沈めたのも
ヤハウェである。全ての黒幕はヤハウェであるので、人間の自由意志といっても神の自作自演のようではないか
と思った。あとは、金の子牛を作って大騒ぎしている民を見たヤハウェが怒りに任せて民を皆殺しにすると言う
のをモーセがなだめるが、山を下りて実際に騒ぎを目の当たりにしたモーセも怒りが燃えてしまい、
ヤハウェ直筆の石板を投げつけて粉砕する場面を個人的には最も面白く読んだ。

 読書会に参加し、大学の授業での聖書の読み方は一般教養としての知識に過ぎなかったと感じた。
それに対し中井さんの読み方は、中井さんの立場から聖書を考えるもので新しい発見があった。それまで私は、
神と人間は親子のような関係であり、神は自らが創造した人間がどれほど愚劣な行いをしても、それを見捨てず
愛を持って接するという印象を持っていた。しかし旧約の神は妬む神であるということ、そもそも契約は
対等でないと結べないこと、契約関係は双方向の関係であるので神も人間を必要としているということを学んだ。
神も人間を必要としているというのは、神は人間のことを忘れたり思い出したりするので初めはそんなことが
あるのかと思ったが、確かに人間を必要としていなければ妬むこともないだろう。30章14節で他の神を崇拝する
ことを禁じていることからも、旧約の時点では拝一神教であり、数多く存在する神からヤハウェだけを神に
「選ぶ」ことが求められていると思った。また、新約聖書での「愛」は、隣人愛など慈悲深いイメージだが、
旧約の段階で「愛」と呼べそうなものはほとんど執着であると感じた。
 旧約聖書との関連で読んだヘーゲルの『小論理学』の一部分も面白かった。ヤハウェが、善悪の木の実を
食べたアダムとエバのことを「われらの一人のように」なったと言うのは、認識は神的なものであるからだ
ということ。生命の木の実を人間から遠ざけたため人間の命は有限であるが、認識は無限であるということ。
中井さんの「原罪のただ中に救済がある」という言葉はまだ完全に理解できていないが、善悪を知ったことに
よって人間は動物とは異なる存在になり、自己内二分があるから精神を再び統一へ復帰させることができるのだと
把握した。それこそが最も人間的な営みであると感じた。
 イザヤ書については、中井さんが「イザヤ書こそが旧約の核心である」と仰っていたが全くついていけなかった。
自分で読んでいても途中で飽きて投げ出してしまっていたが、時間をかけて全体を掴みたいと思う。

2月 15

旧約聖書読書会の感想 その4

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 4.旧約聖書を読んで 高橋 朋子(社会人) ◆◇

今回、初めて旧約を通して読んだ。私はカトリックのクリスチャンなので、教会では聖書を読む機会が多く、
少しは分かっているつもりでいたが、通して読むのは初めてだった。
読む姿勢も、今回はいつもと違った。教会で聖書を読む際は、神父様の指導の元、一部分をピックアップして読み、
「ここで言われている事は、つまりはこういう事です。」という解説が付いており、ストレートに読む事は
決してない。私の尊敬している神父様は、「聖書を一人で読むのは危険なので、必ず指導者の元で読むように。」
と言っていた。なので、ありがたいお言葉としてではなく、読み物として読むのは初めての事だった。
私は、いつも、真実だけしか見ようとしない所があり、過程にはあまり意味が無いと思っており、
日常生活を楽しめず、人に対しても、相手の真実にしか興味が無く、真実を見極めようとし、
相手をジャッジする事が習慣になっている。
なので、旧約を読んでも全く楽しくなく、吐き気がする程不愉快だった。正しい人間が救われず、
良い人がバカをみたり、ズルや裏切りが横行し、私の信じているような、神が正しい人を救う気配も全く無かった。
結論は、人は救いを求めて約束し、破り、の繰り返しで、人間は罪をおかし続けるものなのだろうか?
罪から逃れる事は出来ないのか?それなら、生きる意味などどこにも無い、今の苦しみは永遠に続くのだろうか・・
と、私の信じている神は、何なのだろう?と。
自分の生き方に置き換え、正直に、罪を犯さず、人を傷つけず、誠実に、一生懸命生きていいるのに、
なぜ、神さまはいつまでたっても救ってくれないのだろう、幸せになれないのだろう、
苦しい状態がいつまで続くのか、不満でいっぱいな気持ちになった。
しかし、偶然、読み進めている途中で、私生活で大きな絶望を味わい、深く傷つく出来事があった。
私は、なぜまた、正しく一生懸命生きているのに、どうしていつまでたっても幸せになれないのだろう・・
という思いで、苦しい日々が続いた。もう、生きるのは疲れた、という気持ちを抑え、自分を奮い立たせ、
今、中井さんについて行かなかったらおしまいだ。と、何とか課題に取り組んだ。心身共に疲弊していたので、
とても困難だったが、もうこれしかない・・という思いで、もう一度旧約を読みなおしてみた。
すると、初めに読んだ際と全く違う感情が湧いてきた。旧約に登場する民をいとおしく、あきらめのような感情を
持ち、許せると思った。(自分の事に当てはめて、疲れ果て、もういいや、許そう・・と思った。
という方が正しいかもしれない)この、許せる、という感情を持てた事は、私にとっては大きな収穫だった。
私は、長い間、人を許せずに苦しんできた。特に、私を傷つけた相手は、どれ程努力しても許す事が出来なかった。
教会では、許すという事は、人が出来る事では無い程とても難しい。と言われていて、
許せない感情に支配されない為に、(と私は解釈している。)
「裁きは神が下すものだから、あなたは相手を裁いてはいけない。」「許す事は簡単にはできないから、
『許せるようにお導きください。』と祈りなさい。」と言われていた。しかし、それを実行し続けても、
私は私を傷つけた相手を許す事が出来ずにいた。
しかし、再度旧約を読みなおしたとき、突然、視界が開けたように、人間なんてこんな物だ。
今まで、正義感を振りかざし、泣きわめき、人を裁いていた自分は間違っていた。と思った。
自分はどれ程の物なのか、何様なのか、偽善者とは私の事だ、と恥ずかしくなった。
更に、もうひとつの収穫(発見?)は、そのような自分を後悔したり、責めたりする気持ちにならず、
許して受け入れよう。と思えた事だ。自分は悪くない、という立場を必死になって守り続けていた私は、
そこに立っていたのでは、何も見えず、何も聞こえなかったのだろう。人の罪深さを認め、許し、
謙虚な気持ちを持つことができた今、(正確には、そういう事ができるかもしれない入口に立てたという方が
正しいだろう。本当に許せたのか自分でも分からない。)これからどう生きるか、勝負はこれからだ、
と身の引き締まる思いでいる。

【中井さんの旧約聖書の読み方への感想】
旧約に対する中井さんの感想の中で、「何というリアルさ」「これこそ人間という物の真実」という言葉に、
初め、私は絶望した。これが人間の真実なの?冗談でしょう?という思いだった。しかし、今は、中井さんの
言葉を少し理解できたような気がしている。私は、以前、中井さんが言った言葉の「原罪のただなかに救済がある。」
という事を完全に理解し、消化したいと思っているが、その事に、また、一歩、近付けた気がしている。

2月 14

旧約聖書読書会の感想 その3

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 3.人と神が、自分と世界をつくっていく 田中 由美子(鶏鳴学園講師) ◆◇

「創世記」と「出エジプト記」を読んだ。
初めの部分を除いて、具体的で生々しい物語だった。
これまで私が「出エジプト記」だと思っていたものは、英雄が奇跡を起こす物語であり、
何かの折に聞きかじって聖書だと思っていたものは、新約聖書の中の教訓を込めたような逸話やたとえ話だった。
しかし、実際は、そういう英雄談でも説教めいた話でもなく、生活や歴史の中の出来事をリアルに描いた物語だ。
楽しい出来事、きれいな話はない。困ったことが次々に起こり、殺しや盗み、裏切りが行われ、
憎しみや嫉妬のあふれる、どろどろの現実が描かれる。そういう物語が、長い間キリスト教とユダヤ教の聖典とされ、
多くの信仰者を擁する宗教を支えてきたという事実がおもしろい。
考えてみれば、きれいな話では人間が生きることを支えられない。失敗だらけで不幸に満ちた物語が、
失敗だらけで不幸に満ちた人生をしぶとく生きる人間を支えてきた。現在、キリスト教が、聖書をきれいな話、
ありがたい話として前面に出しているのであれば、それはむしろ人を現実から遠ざけ、余計に苦しめる面が
あるのではないだろうか。

また、女性の描き方もリアルだと思った。
女性が登場すれば、何か裏工作をしたり、ワガママだったりする。男も悪事を重ねるのだが、その趣が違う。
それは何を意味するのか。
太古から社会で表舞台に立つのは男であり、女は決定権を持たなかった。
しかし、女あっての家族、人間社会であるから、男もそれを無視はできない。
神も、女のワガママを受け入れる。例えば、アブラハムの妻、サラが、夫に、女奴隷との子をもうけさせたのに、
実現してみれば、あれこれと駄々をこねる。神は、結局、そのワガママを聞き入れてあげなさいと、アブラハムに言う。
女は決定権を持たないから、責任も免除される。
しかし、それは、男社会の裏の面を、女に投影しているに過ぎないのではないか。
「無責任担当者」を用意しておいて、都合のいいときに利用しているように思われ、そこがリアルだ。
イサクの妻、リベカが、マッチョな長男よりも賢い次男、ヤコブをよい目に合わせるが、やはり裏工作だ。
そして、それを夫も神も追認する。エジプトの王がイスラエル人に男の子が生まれたら殺せと命じたとき、
こっそりモーセを隠したのも、モーセを拾ったのも、女だ。

 一番の衝撃は、神の人間臭さだった。例えば、神が「わたしはおまえと契約を結ぶ」とノアに言う。
そして、ノアを箱舟に乗せて全てを全滅させた後、なんと神は後悔する。
モーセも平凡な人だ。神にエジプトの民を救い出せと言われたとき、「とても、わたくしのようなものが…」
と引き下がろうとする。身につまされて、可笑しい。
神がモーセのお尻をたたき、また人間に対して怒り狂ったり、また逆に、人間が神に何とかしてくれと
せっついたりしながら、人間も神も自分と世界をつくっていく。 
また、奴隷も神から、「おまえはどこから来て、どこへ行くつもりだ」と問われる。
モーセが十戒を授かるときにも、奴隷の解放が問題になっている。
人間と神が対等であり、それがキリスト教の人格の平等という思想の基にあるという中井さんの話が、
聖書の内容から実感された。

聖書を読む最初の読書会に参加して以来、聖書を読むのがおもしろくなった。人間の欲望全開の話であり、
資本主義や平等概念につながるものだという中井さんの読み方、また、ユダヤ民族が砂漠をさすらう圧倒的
弱小民族であるから、彼らが生き抜くために唯一絶対神との契約が必要だったという見方を学んだためだったと思う。
特にモーセの物語、モーセとパロとのどたばた劇など、十分に楽しんだ。難しい理屈だけでは民衆を支えられない。
多くの人に語られて、みんなで聞いておもしろい、聞いたら忘れられないようなストーリーが、人を支えたのだろう。
ただし、中井さんが旧約聖書の肝だとする「イザヤ書」は、歯が立たなかった。

最後に、人間には原罪があるから救済されなければならないのではなく、原罪のただなかにこそ救済がある
という中井さんの言葉が心に残った。私は長い間、自分が何か自分とは違う、別の人間にならなければ
ならないような気がして、しかし、そのちぐはぐさに希望を感じなかった。
目を背けたいような自分自身にどこまでも迫っていくところにだけ、道が拓けるのではないか。

2月 13

旧約聖書読書会の感想 その2

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 2.人と向き合う旧約聖書 K.N(社会人) ◆◇

(1)人間の本性
旧約聖書の第2回(10月24日)に参加した。私が聖書に触れるのは、高校を卒業して以来だ。
中学高校と毎日礼拝があり、聖書の箇所を繰っていたのに、つまらない本だ、
礼拝での睡眠中の枕として役に立つなという以外、特に何の感想もなかった。
そして、5年ぶりに読書会に参加した。まず第一に、旧約聖書に書いてある出来事の残酷さと人間の
リアルさに衝撃を受けた。私は、自分たち人間がとても汚い、ドロドロした感情を常に備えていることに
目をそむけがちだ。殺人のニュースをもっても、犯人はどこか自分と違う生き物のような気がして、
そんな人間と私は違うんだ、と自分に言い聞かせる。汚い部分は現実世界では極力他人に隠そうとする。
しかし、旧約聖書の世界はちがう。何千年前の本なのに、そのような人間の醜い部分に、
真正面から向き合う力強さがあった。神がノア一族と一部の生物以外を滅ぼしたことを後悔するシーンで、
神は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」と結論づけた。
聖書に出てくる人間は、感情や欲望に忠実だ。憎ければ殺すし、欲しければ奪う。強盗、殺人、近親相姦、
同性愛など、とにかく野蛮な人間像。神に選ばれた者も例外ではない。私が実にエグイなと思ったシーンがある。
アブラハムの妻サラが、不妊のため、奴隷の女に子どもを身ごもらせるようアブラハムに勧めた。
しかし、実際女奴隷に子どもが出来ると、彼女は奴隷とその子どもにつらくあたるようになった、というシーン。
どこの昼メロドラマだよ、と思ったが、同じ立場になったら、現代の多くの女性もサラと同じ様にふるまうだろう。
女の嫉妬心は、今も昔も変わらない。
旧約の読書会には1回しか参加できなかったのか、私の理解不足か、旧約聖書における神がなんなのかについては、
全然理解が及んでいない。読んでみて、旧約の神の行動が意味不明だった。新約聖書のキリストが話す神様は
ものすごい包容力と慈愛に満ちていて優しいイメージなのだが、旧約の神様はどこか人間的だ。
バベルの塔では、繁栄する人間を恐れて人間の居住地と言語をバラバラにする(=混乱を与える)。
ノアの方舟の箇所では、人間を作ったこと自体後悔して、ノアとわずかな生物以外を皆殺しにして、また後悔する。
なぜ失敗して、後悔するような不完全な神を描いたのか。また、神はソドムを滅ぼそうとする時、
アブラハムに「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」というすごい正論を言われ、
一時譲歩する。人間ごときに譲歩する神、なんて信者は許容できるんだろうか。そのあたりがいまいち腑に落ちなかった。

(2)聖書の読み方から浮上する、自分の問題
読書会に参加して、中井さんの聖書の読みを聞いて、登場人物が、リアルな人間だったんだということに
初めて気付いた。なんとドロドロしていて、生き生きとしていて、こんなにドラマチックで面白い本だったのか、
朝の礼拝で聞き流していたときより、断然ワクワクしていた。登場人物をゴロツキと言い表したり、
一部の登場人物に祝福を与えることを神のえこひいきと指摘したり、本と格闘している感じだ。
この本を、骨の髄まで感じ取って理解してやろうというパワーに気圧される感じだった。
そのパワーに触れて、無味乾燥だと思っていた聖書の世界観が、リアルさをもって感じる経験が出来た。
私は中高をキリスト教系の学校で過ごしたので、聖書に触れる機会そのものは多かった。
だが、聖書を読んでも全く感銘を受けることも面白いと思うこともなく、何故キリスト教が
世界三大宗教になるまで信じられているのか、なぜ学年が上がるにつれて同級生が次々に聖書やキリストを
信じ洗礼を受けていくのか、全く理解ができなかった。今回読書会に参加し、それは私の読み方の問題、
読み方が非常に表面的だったことによるのだと考える。聖書は一見淡々とした文体で、神や人間の行動
(「言った。」「現れた。」など)と、セリフと、ちょっとの心理描写(「後悔した。」など)で構成される。
聖書の一句、その行間を読み取る想像力と、本と向き合おうという意識が決定的に欠けていた
読書会後に再読した際、ふと「聖書は六法に似ているな」という感想を持った。以前、文ゼミで私は
「心理学は人間の心を解き明かそうとするから好きで、法律は無味乾燥がから嫌い」といった内容を提出した。
六法も、淡々とした条文が並ぶだけで、全く人間味を感じられず、つまらない本だと決めつけていた。
そこで、中井さんに、「本質をみていない。法律は、ドロドロで、ほんとにどうしようもない人間を、
どうにかして押さえるために作って、試行錯誤してなんとか整備してきた、最も人間の本質が現れたものだ。」
と指摘され、裁判所に勤めているのにそんなこともわからなかったんだと恥ずかしくなった。聖書も同じだった。
一見無味乾燥に見えるが、こんなにも人間のほんとうのことが書いてある本だったのに、
私は本質を見る事ができないし、見ようともしないから、そんなことにも気付かないでずっとスル─していたのだ。