5月 19

『「聞き書き」の力』(大修館書店)のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を掲載します。

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

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序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第1節 「聞き書き」とは何か

今ではオーラルヒストリーという言葉が広く世間に流布したようだが、以前は「聞き書き」と呼ばれていた。ではそもそも聞き書きとは何なのか。

それは別段、特別なものではない。人に取材、インタビューをし、その内容を文章にまとめたものでしかない。日々の新聞や雑誌の記事はほとんどがこの範疇に入るだろう。

その中でも、本人の語り口を生かしながら「ひとり語り」の文体で書かれたものの中には、自伝として有名なものが多い。
ロック界のスーパースター・矢沢永吉の『成りあがり』(角川文庫)は若き日の糸井重里が長時間のインタビューをまとめたものだ。矢沢の熱くシャウトとする語りは、彼のロックやブルースそのものだ。『マルカムX自伝』は、アメリカの黒人解放運動史に残る古典的作品になっている。後に『ルーツ』の著者として有名になる作家アレックス・ヘイリーが無名時代に編集したもの。同じ問題意識を共通する語り手と書き手のハートが熱くシンクロして、深い感動を与える読み物になっていると言えよう。これらは聞き書きが感動的な文学作品にまで昇華している例だろう。

近年では政治学者の御厨貴が、政治家への聞き書きを「現代史のための口述記録」と位置づけ、「オーラル・ヒストリー」という言葉を流行らせた。彼がまとめたものに『宮澤喜一回顧録』『武村正義回顧録』(岩波書店)などがある。
著名な人物の人生記録は、ただにその人物の自分史であるだけではなく、時代の証言であり、音楽業界や、黒人社会やその社会的解放運動の歴史的記録、政治や経済の裏面史などの記録としても重要だ。

しかし聞き書きの対象は必ずしも著名人である必要はない。もう少し一般的に生活者、労働者を対象とした聞き書きも広く存在している。柳田国男や宮本常一などの民俗学では「名もなき庶民」「村の古老」などの語りの文章が、基礎資料として多数編集されてきた。その中には、柳田の『遠野物語』、宮本の『忘れられた日本人』(特に「土佐源氏」や「梶田富五郎翁」)など、文学作品として高い評価を得ているものも多い。作家・塩野米松は、「一人語り」の文体を駆使して仕事をしてきた。『木のいのち木のこころ―天・地・人』は宮大工の棟梁・西岡常一の仕事の聞き書きだ。宮大工の西岡は著名だが、もっと「名もなき庶民」への聞き書きを多数、塩野は世に送り出している。

しかしこの「一人語り」の文体は聞き書きの1つの手法でしかないし、そもそも聞き書きという手法は文学作品を生みだすためにだけあるのではない。もっと一般に、事実やデータを記録するために、学術研究では広く使用されている。民俗学、民族学、文化人類学のフールドワークではもちろん、歴史学の「庶民の歴史」の編纂などでも基本的手法となっている。

そして冒頭に述べたように、この手法は、およそ取材をする場合のすべてで行われている基本中の基本でしかない。ジャーナリストにとって、取材・インタビューは必須の前提だ。本多勝一はこの手法をもっぱらたよりとして『中国の旅』を刊行し、大きな社会的問題提起をしたし、立花隆の『宇宙からの生還』は、宇宙飛行士たちが宇宙で体験した不思議な経験の詳細な口述筆記でしかない。そこには宇宙での経験だけでなく、その後の人生(宗教的伝道者になった人もいる)と絡めて、科学と宗教や人生の深遠な関係が感動的に語られている。
しかし、本来、この手法では、書き手、記録者は、そうした専門家に限定されることはない。普通の人による、普通の人の聞き書きも多数編集され刊行されてきた。戦後の戦争体験の聞き書き集、地域の生活史、会社の社史など、も多数出版されている。

以上で、読者には聞き書きが何かを理解していただけただろう。社会的に大きな影響を与えたものもあり、すぐれた文学作品とされているものも多い。

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第2節 教育手法としての聞き書き

さて、これからが本番だ。私たちが本書で問題にしたいのは、聞き書き一般ではない。この聞き書きを、あくまでも、教育手法として取り上げたいのである。教育と言っても、学術界やジャーナリズムの世界で行っている専門家養成のためではない。ここでは、義務教育課程や高校や大学で行われるべき教育として、すべての人が人生を生きるための基礎的能力の養成としての聞き書きを問題にしているのである。

実は、この教育手法としての聞き書きにも、すでに長い歴史がある。民俗学者の宮本常一は小学校教師の時代にそうした試みをしている。戦前から生活綴り方運動の小学校教師たちも実践してきた。戦後は、父母の戦争体験の聞き書き、父母の仕事の聞き書きなどが広く全国の教育現場で行われてきた。近年では、立花隆が東大の教養学部の学生を指導した、70人近くの様々な分野のトップランナーたちへの聞き書き集『二十歳のころ』(新潮文庫)が有名だ。作家の塩野が高校生の「聞き書き甲子園」を組織して10年以上になる。高校生が森や海・川の名人を訪ねて「聞き書き」をして文集にまとめるものだ。

そして今、その聞き書きがまた注目をあびている。現代の若者たちについては、ニートやフリーターの急増、他者や社会問題への無関心、コミュニケーション能力の低さなどのさまざまな問題点が指摘されている。そうした彼らに、現実社会や仕事の話題を通して、大人たちの生き方に向き合わせ、自分の生き方を見つめる方法として脚光をあびているのだ。
新しい学習指導要領でも、この手法が大きく取り上げられている。事実、この方法で、子どもたちの学習の目的が明確になり、進路・進学の意識が高まり成績も大きく伸びた例が多数報告されている。また、この聞き書きは大学受験の志望理由書や小論文対策としても威力を発揮している。

なお本書では、特に高校生を対象として、この聞き書きの指導法を検討する。もちろん、本書の方法は、そのまま中学生や大学生にも使っていただけるし、小学生や一般社会にも応用していただけると思う。
しかし、だからといって、一般論を述べても仕方がない。私がよく知っている高校生に一応限定することで、諸課題を具体的に述べてみたい。それには高校生特有の問題も含むが、そこには聞き書きに本質的な問題が出ていると考えている。

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5月 18

(1)『「聞き書き」の力』(大修館書店)が、いよいよ刊行されます。

すっかり、お待たせしました。3年前からの作業過程をご存知の方は、待ちくたびれて忘れてしまったかも知れませんね。

この本は、高校作文教育研究会の共同研究の成果をまとめたものです。
研究会の共同代表である古宇田栄子さんと私の2人が執筆しました。

研究会では、テーマとして二〇〇五年には一年間集中的に「総合学習」における表現指導について、二〇〇九年からの二年半ほどは「聞き書き」(調査と取材)の研究を行ってきました。その討議を踏まえて、聞き書き指導の方法やその課題を明らかにしようとしたのが本書です。

「聞き書き」そのものの方法論だけではなく、たくさんの問題提起を行っています。

高校段階での表現の指導過程の問題も検討しました。自分史や生活体験文、調べて書く作文や聞き書き、意見文や論文(小論文も)、志望理由書などをどう関連付けて、指導していくべきなのか、という問題です。

本書のタイトルには「聞き書き」とありますが、広く一般的に、調査・取材したことをまとめた文章と理解してください。理科や社会科のレポートまでを範囲として考えています。対象は主として高校生を意識していますが、中学生や大学生、社会人の方々にも十分に有効だと考えています。
どうぞ、国語科や他教科での同志の方々との学習会などにご利用ください。

今、教育現場は「アクティブ・ラーニング」の取り組みで大騒ぎになっているようです。しかし、「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることが肝心だと思います。
「アクティブ・ラーニング」に真剣に取り組むならば、何よりも重要なことは、生徒たち一人一人が自分自身の問題意識、問いやテーマをしっかりと創っていけるように支援することでしょう。そのためには、「聞き書き」学習ほど適したものはないのではないでしょうか。

本書は、書店に並び、アマゾンなどで入手できるのは5月の20日過ぎごろになりそうです。

(2)本書の刊行を祝い、以下のような学習会(兼祝賀会)を開催します。

1 期 日 2016年6月19日(日) 10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園
3 参加費
  1,500円(参加のみ)      
  または3000円(会場で本をお渡しします)

みなで本書をさかなにしして、聞き書きについての疑問や悩みや、成果や主張などを出し合って、大いに盛り上がろうという趣旨です。

ここでは、共同研究の仲間からの問題提起や、コメントの紹介も予定しています。

参加される方は、本書をぜひ一読してから、ご参加ください。

なお、参加申し込みは1週間前までにいただけると幸いです。

(3)本書のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を、明日から掲載します。

4月 23

4月以降のゼミの日程についてはすでに連絡しました。

今回は、5月読書会のテキストをお知らせします。

ゼミの日程を再度以下に出しておきます。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.5月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
5月の集中ゼミ(5月7日、8日)

5月28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

                                        

2.5月の読書会テキスト

テキストは
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』です。
高橋健二訳(新潮文庫)で読みます。岩波文庫ではないので間違えないように。

20世紀始めの頃、ドイツの青年シンクレールが友人デミアンに導かれて魂の遍歴をする「成長物語」(ビルドゥングス・ロマン)です。
最後は第1次世界大戦の中、ヨーロッパが崩壊していき、デミアンもその中で死んでいきます。
シンクレールが、そこからの自分とヨーロッパの再生を確信するところで、物語は終わります。

この本は、私が思春期で苦しかった時、私を支えてくれた本です。
私は、10代の激しい反抗期の中、周囲になじめず孤立していました。
周囲や世間をバカにし嫌悪していましたが、何よりもそういう私自身を持てあましていました。
自分の毒で自家中毒を起こしていたと思います。

デミアンはそんな私をそのままに肯定してくれました。
いや、ただ肯定するだけではなく、その道をさらに先に進むこと、その果てまで突き進むように強く求めるのでした。

「私はただ、私自身の中から外へと現れ出ようとするものを、生きようとしたに過ぎない。
それがなぜあれほど困難だったのだろうか」
は当時の私の目標、救いでした。

それは今でも、私の根底をなしていると思います。
その後20代では反文化(カウンターカルチャー)の運動、共同体運動、エコロジー運動、身体性の運動、瞑想などの運動と関わりました。
その決定的な挫折があり、それらの運動の限界と自分への絶望を経て、30歳を前にしてヘーゲル哲学の学習を決意し、
その後ヘーゲルやマルクスを学ぶことで自分を作り直す作業を経て、今日に至っています。

今、この本を読みなおし、それを現在の立場から検討したいと思います。

また、昨年の秋から聖書の学習会を行ってきましたが、そうした関心の発端も、この本にあります。
それは旧約のカインとアベルの物語の新たな解釈で、カインの印の意味、カインの再評価です。
デミアンはこう語ります。
「カインとその一族は、才知と大胆さを持ち、周囲の人々はそこに不気味さを感じて恐れていた。
そして彼らが受けた恐怖への復讐として、カインとその一族に兄殺しという罪を着せ、『印がある』とした」。
それはシンクレールの魂という泉に投じられた一石となり、それが波紋を広げていきます。

当時、スタインベックの『エデンの東』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にものめり込みましたが、
すべては同じ関心でした。人間の「悪」をどうとらえるのか。

旧約と新約の読書会も終わるところで、それらも再考しておきたいのです。

4月 11

先に、5月と6月の読書会では
『アウグスティヌス講話』山田晶著 (講談社学術文庫)を
5月と6月の2回に分けて読むとお伝えしました。

すいませんが、変更させていただきます。

このテキストは取り上げますが、秋に回します。

5月から夏までは、
アダム・スミスの『国富論』中公文庫、
ヘーゲルの『法の哲学』(中公クラシックス)、
マルクスの唯物史観(『経済学批判』の序言)、
労働過程論(『資本論』の第1部第3編第5章の第1節)の読み直しと、
これらについてこのメルマガに発表してきた拙稿の検討をします。

その予定は決まり次第、連絡します。

5月の連休明けからはドイツ語でヘーゲルやマルクスを読むことも再開します。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加を可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

今回は、まず5月の集中ゼミの案内をします。

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5月の集中ゼミ

(1)日時と場所

5月8日 午前10時から正午、午後1時より午後5時まで。
東京の鶏鳴学園にて

午前だけ、
午後だけでも参加可能。

(2)料金
午前だけで2千円
通し参加で5千円

(3)テキスト

マルクス『経済学批判』の序言や
マルクスの唯物史観についてまとめた文献などを読みます。
また、私の2つの論考(鶏鳴会通信152号に掲載)
 1.ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか
   マルクスのヘーゲル哲学を観念論とする批判を批判しました。
 2.人はいかにして自立できるか ?マルクスの「思想的履歴書」─
も読みます。

詳しいことは問い合わせてください。

4月 08

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日掲載分の目次 ■

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情

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4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割

さて、今回牧野が、そして私が「現実性」の改訂案を出したということは、ヘーゲルの「本質論」
(特に第3編「現実性」)の初版が不十分なものであると両者が考えていることを意味する。
それはヘーゲルの意図や目的を十分に達成していないのではないか。

ヘーゲル論理学全体において「現実性」は核心部分であり、その理解はヘーゲル論理学全体の理解に大きく
影響する。私がヘーゲルの何に不満なのか、何がわからないのか、実際のヘーゲルの論理学(初版)の展開
に即して説明してみたい。

ヘーゲルの論理学は、客観的論理学(存在論、本質論)から主体的論理学(概念論)と展開されている。
存在論、本質論、概念論はそれぞれ3編からなる構成になっている。「現実性」は本質論の第3編に位置している。
その位置からわかることは、「現実性」は客観的論理学(存在論、本質論)の総括をし、そこから主体的
論理学(概念論)を導出する役割を持つということだ。
つまり、客観的論理学と主体的論理学は、概念の生成史と概念の展開史の関係だ。広い意味では客観的
論理学(存在論、本質論)全体、狭い意味では「現実性」が、概念の生成史であり、そこで生まれた概念が
自らその意味を展開するのが主体的論理学(概念論)なのである。
そしてこの生成史から展開史という順番は、ヘーゲルの発展の論理から生まれている。
ヘーゲルは、存在論は「移行」(外化)の論理、本質論は「反省」(内化)の論理、概念論は「発展の論理」だと言う。
それは存在論の「移行」の論理と本質論の「反省」(内化)の論理の統一が発展の論理だということだ。

概念の必然的な導出は、発展の論理の必然的な導出でもあるはずだ。つまり、「現実性」では概念の生成と同時に、
発展の論理の生成が示されねばならないのだ。ではその概念とは何か。
概念とは、地球の全歴史を貫いて、そこに実現していくもののことであり、その実現にはどうしても人間の主体的
な働きかけが必要である。だからこそ地球から人間は生まれてきたのだ。その意味では人間を概念と呼んでよい。
地球の歴史と人類の歴史を世界の始源(概念)が自己実現していく「発展的」過程としてとらえ、それを認識し
実現していく主体として人間(自我)を導出する。その導出が「現実性」で展開されなければならないはずだ。
そして、人間が実際にその使命を実現するために概念を理解し実現する過程は概念論で展開されるはずだ。

以上の意味で、概念(人間)を導出する本質論の「現実性」こそが、ヘーゲル論理学の核心であり、概念論は
ある意味では、その概念の実際上の展開でしかないと言える。
だからこそ、本質論が一番難しいという言明がされ(エンゲルスは「本質論が一番難しい」と言っていた。
ヘーゲル自身も『小論理学』の本質論冒頭の第114節の注釈で「論理学で最も困難なのは本質論だ」と言って
いる)、さらに「必然性から自由への、あるいは現実性から概念への移行が最も困難だ」と『小論理学』の
第159節の注釈で述べている。

5.ヘーゲルの意図について

(1)ヘーゲルの意図
ではそうした重要な役割を担う「現実性」をヘーゲルはどのように書いたのか。その意図は何だったか、
それは十分に実現できたのか。また、ヘーゲルの意図とは離れて、そもそも、論理必然性からして、
本来はどう展開すべきだったのだろうか。

ヘーゲルの大論理学の「現実性」(初版)の実際の内容は、以下のようになっている。
第1章はスピノザ哲学を紹介し、実体→属性→様態と展開される。
第2章は、可能性と現実性の関係を分析し、偶然性と必然性を論じる。
第3章は、実体性、因果関係、相互関係が展開されている。

この中で、ヘーゲル自身は第3章こそが核心で、それが概念の導出の役割をはたすと考えていたようだ。
小論理学の叙述(大論理学の第1章は省略、第2章「現実性」は序説扱い、第3章のみ本論)もそれを示す
だろうし、大論理学の概念論冒頭の「概念一般」では「実体性論(第3章)が概念の生成過程」と述べ、
その要約をしていることも、それを裏付けるだろう。なお「概念一般」では、その要約の直後にスピノザ哲学
とカント哲学への言及がある。ヘーゲルはスピノザ哲学を概念の直前の実体の立場として評価し、一方の概念
の立場(それはスピノザに欠落する個別の立場でもある)を切り開いた先駆者としてカント哲学を評価するのだ。

(2)代案の根拠
さて、ヘーゲルの意図は上記のようなのだが、それは確かなのだが、私には第3章が概念の導出となっている
ことが理解できない。この第2章と第3章の順番がわからないのである。第3章と第2章は入れ替えるべきではないか。
なぜなら、主体=人間=概念の導出を担っているのは、第3章ではなく第2章だと考えるからだ。
第3章の内容は、因果関係はもちろん、相互関係ですら、必然性全体の中では低いものだと私は考える。
動的な歴史的な発展過程を捉えるのは第2章である。第3章は、せいぜい第2章の内容を、分析的に捉え
直したものにしか見えない。

私の考えを支えると思う根拠をいくつか挙げておく。
この第2章と第3章は、それぞれ、カントの判断の4類型に対応する。関係性の判断(実体、因果、相互)が
第3章、様態の判断(偶然性、可能性、現実性、必然性)が第2章である。
 このカントの判断の4類型は、ヘーゲルが自らの論理学の体系を考える際の土台としているのだが、
質の判断と量の判断は、存在論の大枠をなし、関係性の判断と様態の判断を本質論の核心の「現実性」に
置いたのだ。ヘーゲルにはそれはすでに決まっていたことだろう。したがって、問題はその順番にあったはずだ。
ヘーゲルの概念論の主観的概念の判断論の展開を見てみる。これはカントの4つの判断を土台に、
その4つを発展的に位置づけたものになっている。それは質の判断、量の判断(反省の判断)と続くが、
最後に持ってくる概念の判断はカントの様態の判断であり、その前の必然性の判断がカントの関係の判断
に対応する。関係の判断では二つの項が全体の契機となり、ここに全体が類や種として示される。
そして様態の判断においてその全体(概念)との一致、不一致が問われる。つまり関係の判断よりも、
様態の判断の方が上であり、それを概念の判断としているのだ。

概念論の客観的概念が機械論と目的論の順番に展開されていることもそうだ。機械論は因果関係や相互関係
で把握される世界、つまり外的必然性の世界だし、目的論は内的必然性とそこから生まれる概念の段階に
対応するだろう。因果関係や相互関係は、ヘーゲル論理学の中では外的必然性という低い段階であり、
それを止揚したのが内的必然性だという理解が正しいと思う。

ヘーゲルがこの論理学の第2書「本質論」の第編全体のタイトルを「実体」とせず「現実性」としたことも、
現実性を直接扱う第2章(タイトルも「現実性」)こそが重要であることを示しているのではないか。
また、これまでヘーゲルの本質論研究でほぼ唯一の大きな成果である許万元著『ヘーゲルの現実性と概念的
把握の論理』が第2章の研究であり、第3章ではないことも考えたい。

(3)ヘーゲルの側の事情
ではなぜ、「現実性」の内部の展開が、様態から関係性へとなったのだろうか。
牧野は「ヘーゲルは因果等の必然的関係をどうしたら証明できるかと考えた」からだと説明するのだが、
私は違うと思う。

以下は、推測でしかないが、ヘーゲルは自分の立場を実体の真理として示したかったのではないか。
ヘーゲル哲学をスピノザ哲学の真理として示したかったのだろう。
ヘーゲルにとって、哲学史上ではアリストテレスが別格であり、近代の哲学者では直接にはカントが、
ついでスピノザが先達なのだ。そこで自らがその2人の正当の継承者であることを示したかったのではないか。
だからスピノザ哲学自体の展開が、自ずからヘーゲル哲学が導出される形を示したかった。
つまり実体論の展開がそのまま主体の導出になるようにしたかった。

しかもカントの判断の4分類をそのままに取り込むことで、それを止揚したものとして概念の立場を導出
したかった。そこでラストにカントのカテゴリーから関係性の3カテゴリーをもってきた。
実体→因果関係→相互関係である。
また、第1章にスピノザ哲学を置くと決めた場合、それは実体→属性→様態と展開されるので、
第1章最後に置かれた「様態」を受けてカントの「様態の判断」を2章に置き、最後に「実体」から始まる
カントの関係性の判断を置いたのが初版の構成なのではないか。

 または、実体の生成史とその展開史として、第2章と第3章を置いたとも考えられる。
偶然性から必然性への展開が実体(必然性)の生成史の意味を持ち、その成果である現実性=必然性=実体
の展開過程をその後に置いたつもりなのだろう。第2章で必然性の発展を外的必然性(B 実在的必然性)
から内的必然性(C 絶対的必然性)へと展開していたが、それを再度、実体→因果関係→相互関係で捉え直し、
そうした必然性の展開の結果、すべての存在、現実が全体の契機となることを示した。必然性の運動の結果、
その姿を現したその全体を概念とし、その概念の働きとして必然性を止揚した自由を出す。
これがヘーゲルが実際に行なったことのようだ。
そのように考える限り、牧野のように第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に三分し、
最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くという考えは、
ヘーゲルの真意を分かりやすく整理したものと言えるだろう。

 しかし、それがヘーゲルの意図だったとしても、それは論理的には無理筋だと思う。
ヘーゲルが実際に因果関係を出すことで示したかったのは、「自己原因」(一つの全体が形成され、
すべてがその全体の契機となる)という考えだったと思う。そこから概念の導出をするためだろう。
 しかし、因果関係→相互関係は、必然性の段階としては高いものではない。日常で普通に使う考えであり、
それが厳密に操作されれば自然科学や社会科学の基礎をなすものにもなる。しかし、それは必然性の段階
としては外的必然性であり、悟性段階のものである。確かに、それも必然性の展開に従って高まれば
自己原因という段階になるが、それを一緒にくくることはできないのではないか。

 なお、私は相互関係一般を外的必然性の段階と考えるが、その重要性を否定するのではない。
内的必然性はそれを止揚したものとしてしか現れないし、内的必然性の必須の契機として外的必然性は
存在している。例えば概念論の客観性の核心である目的論で、人間が自然を完成させるという人間自身
の使命を自覚し、その使命の実現のために、人間自身の個人的社会的な変革を引き受けるようになる論理は、
作用と反作用、相互関係の論理である。労働によって自らに都合がよいように自然を変革しようとする人間は、
その欲求実現のために、逆に自らの変革に取り組み、自らの能力を高め、社会を変革しなければならなくなる。
その過程の中から人間の使命、つまり人間の概念が自覚されるはずだ。そこから理念が生まれるのだが、
そこでの論理が相互関係であることは重要だ。しかし、それが内的必然性より上なのではなく、
そうした外的必然性を止揚して内的必然性と概念が現れてくるという意味で重要なのである。

                  (2016年4月1日 3・11から5年目の春)