1月 22

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その4

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 (3)必然性の判断 (種と類)

 定言判断  金は金属である バラは植物である

 仮言判断  もしAが存在すれば、Bも存在する
       カントの例:太陽が石を照らすと、石は暖かくなる
       もし山田氏が未婚ならば、彼は妻を持たない
       もし下痢をすれば、身体が衰弱する
       もし横綱が負ければ、この首をやるよ

 選言判断  AはBであるかCであるかDであるかである
       AはBかつCかつDである
       詩は叙事詩か抒情詩か劇詩である

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 1)全体として

【1】[主語]が類(普遍)になる(選言判断)ことの意味。

 [主語]と[述語]関係の逆転。※これは、いわゆる「判断」の止揚である。
 類=普遍そのものが、意識の中心に置かれた。
 [全体]が意識されるに至った。→必然性の判断。
 その全体の内実が具体的に検討され、
 その中身の関係が、具体的に考察されるに至る。→選言判断

【2】本質論の「現実性」に対応する
 「必然性の判断」は、本質論の「現実性」をさらに一歩進めたもの。
 ここでは発展の論理、生物進化の原理までが問われている(特に選言判断)。
 cf)精神現象学の「自己意識」の「生命」では、食物連鎖から「類」を出す。

【3】 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断
 論理学の本質論の 実体性 → 因果関係 → 概念 へとの展開との対応

 2)定言判断

 「この金は」金属である
 「このバラは」植物である
 これが「金は」、「バラは」になる

 個別 )種 )類 )

【1】主語と述語は反省関係になっている
 自己と自己との同一性
 自己内反省=[肯定的統一]

【2】必然性は内的(実体関係)、偶然性、可能性の立場 → 必然性の外化、否定的統一(仮言判断)

【3】
 主語は述語である
 個別は普遍である → 種は類である(特殊は普遍である、という段階)

 ┏[主語](種)の内部の普遍性が引き出された
 ┗ 一方、[述語]の普遍性から、それを分割する形で、それ自体も普遍性の種を[主語]とする

 3)仮言判断 もしAが存在すれば、Bも存在する

 ※これは前段が個別、特殊(種)で、後段が普遍(類)なのか、
  それとも逆か。
  前だと、次の選言判断につながらないように思う

【1】他者との同一性の定立(定言判断は、自己と自己との同一性の定立)
 自己と他者との同一。同一の深化 →[否定的統一]

 同一だが、概念の同一ではなく、普遍、特殊、個別の3契機がない
 契機一般はある。主語と述語関係ではない。
 普遍→特殊までで、概念がまだない

【2】必然性の外化(因果関係)
 しかし、2つの存在は外的で偶然。その存在の必然性は定立できない。
 定立できたのは、2つの関係の必然性のみ。

【3】大論理学で、ここに 「可能性」という言葉が出てくるのは、
 「現実性」の可能性から必然性との流れがここで意識されているから。

【4】仮言判断は、すでに2つの主語(文)が出ており、
 自己と他者の両者が1つの文で直接示される(2つの文が内在している)
 初めての例。これは推理ではないのか。

 4)選言判断

【1】[否定的統一]の原理とは、概念の原理だが、つまり発展の原理のこと
 これが経験主義を超える可能性

【2】類=A,B,C,D 類の種別化、分類の原則、進化の原理 →「概念」

【3】普遍、特殊から個別(概念)が現れる。→ 概念の判断

【4】選言判断で、主語と述語の逆転が起こる

 主語は述語である
 個別は普遍である
  ↓
 特殊は普遍である
 が
 主語と述語が逆転する
 類が述語だったのが、主語が類になっている
 普遍は普遍である

 普遍は特殊の総体である
 コプラの両方が、普遍でまったく一致する
 この全くの一致に、コプラの充実(一応の一致)=潜在的な概念が現れている

【5】大論理学「主語は述語に対する自分の規定を失う」
 (『ヘーゲル大論理学 3』寺沢恒信訳注 以文社 195ページ,
  ズールカンプ社版全集6巻 407ページ)とある。

 寺沢はここで、コプラの充実と説明し(『ヘーゲル大論理学 3』432ページの注17)、
「必然判断」では性状が判断の根拠になっているとする
(『ヘーゲル大論理学 3』433ページの注18)。
私は、ただの「根拠」ではなく「概念」になっているのだと思う。

【6】2つの文が現れる必然性
 主語と述語が逆転することと関係するのでは

5)「反対概念」(AもBも が可能)と、「矛盾概念」(AかBか)

 (選言判断から)

 ┏同じ類の中で区別されるものが反対概念
 ┗相互に締め出す関係が矛盾概念

これはヘーゲル用語辞典に入れるべき。

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1月 21

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その3

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)

       バラ自身の判断の運動

 このバラは  赤である
        赤ではない
 あのバラは  青である
        青ではない →→→「色」を持つ
 そのバラは  黄色である
        黄色ではない
        紫である  
         ↓
         ↓ 悪無限(述語の運動)

 これは述語の運動。
そうして示されたのが、質の判断のレべル(存在論)。
しかし、それは同時に主語の運動でもある。
この側面を展開したのが反省の判断のレべル(本質論)。

 主語の運動とは、主語が他と関係し自己の本質を示していくこと。
 他者とは、他のバラ、他の種、類(バラ科、植物)、事柄(人間や病気→薬草)
 これを展開したのが反省の判断 → 「反省の判断」を「量の判断」としては
ならない理由がここにある。量も質の反省だが、自己内反省。

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(1)質の判断

 肯定判断 このバラは赤い     青である
 否定判断 このバラは赤ではない  青ではない
      色を持つ
 無限判断 

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【1】論理学の存在論の段階に対応する

【2】[述語]が感覚的規定
 すべての感覚や認識が、先ずは、この段階の判断として現れる

【3】この段階では「個別は普遍」
[主語]は個別。他の存在から切り離され、認識主体の感覚との関係だけで存在する
[述語]内容は特殊 色の中の赤とか、青とか

【4】[主語]の持つ多様な規定から1つが感覚でとらえられ、
 それが[述語]として引き出される
 [述語]から見れば、「赤い」対象は、「このバラ」以外に無数にある

【5】【3】と【4】から、[主語]と[述語]が、
 コプラで(同一)とされながら、わずか1点でしか接点をもたない
 この[矛盾]が、否定判断へと展開し、無限判断を生み出す。
 認識主体との関係も、感覚の1点(例えば視覚の中の色彩)
 でしかふれあわない(牧野より)

【6】無限判断の過程で、[述語]が、感覚から思考による規定へと移行する
 感覚の規定から、思考による規定に。
 このバラが赤い、 このバラは青い。
 といったバラの判断の運動(最初は個別のバラの運動)で、それが展開する。
 それによって、このバラは他のバラとも関係する。
 個々の色(特殊)から、色という普遍に。

【7】なぜ「定存在」の判断なのか、なぜ「定存在」から始まるのか

 ○(純粋)存在=自己関係、自己同一の意味だが、それはコプラに他ならない
 『ヘーゲル大論理学 3』(寺沢恒信訳注 以文社)、12ページ
 ズールカンプ社版全集6巻、14ページ
 das Sein als Kopula des Urteils 判断のコプラとしての存在

 ○定存在と存在の関係
 論理的な順番と歴史的な順番が反対になっている。

 ○牧野も『関口ドイツ語学の研究』(133ページ)で、
 独立存在が「?が存在する」、定存在が「?である」、
 この定存在の「?である」がさらに抽象化し、
 一切の規定なしになっているのが存在としている。
 これがコプラそのものなのだろう。

【8】「正しい」か否かが、問われる段階。 対象と表象の一致。
 「真理」が問われるのは、概念の判断以降。

【9】今日の言語学では、次のように考える。

 「このバラは赤い」は現実に話されることはない。不自然。
 文脈で、白いバラを注文した時に、赤いバラが来たときにのみ発言される。
 だから、こうした文例を使わない。

 これは、判断が対象の運動であるという側面を無視し切り捨て、
 認識の運動とのみとらえていることから生じる意見ではないか。

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(2)反省の判断

 単称判断 この植物は薬草である
 特称判断 いくつかの植物は薬草である
      ※単称判断に内在化されていたのを外化しただけ
 全称判断 すべての人間は死するものだ
      すべての金属は伝導体だ

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【1】論理学の本質論(仮象と現象)の段階に対応する

【2】[述語]は思考でとらえられた(自己内反省した)規定

【3】[主語]が、他の対象(病気や病人、医者、医療)との関係で捉え直されている
 同じ植物でも他の植物とも関係させてとらえられている

[主語]が他と関係する中で現した本質規定を[述語]としている
[主語]の潜在的な本質規定が[述語]として出されている

【4】単称→特称→全称 への展開は
[主語]が、個別→特殊→普遍(類)へと進展
[述語]は普遍のまま

 個別は普遍 → 普遍は普遍 に

 「すべての人間」→「人間そのもの」→「人類」=類

【5】「特称」の意味

   このバラは植物である
     ↓
  ┏いくつかのバラはAである。
 ┏┫
 ┃┗いくつかのバラはAではない。   反省 → 悪無限
 ┃   ↓
 ┗すべてのバラは?である。
 (Aの自己内反省)。
    

 ┏いくつかのバラはAである。
 ┗いくつかのバラはAではない。
 後者は前者に内在されている。

 牧野のコメント、「認識に知られた限りでは?」の意味もある、は間違い。
認識主体がどうとらえたか、とらえられたか。
こういった認識の運動と、事実(対象)そのものの運動とを区別すべき。
判断論はまずは、対象の運動である。そして、それゆえに認識の運動でもある。

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1月 20

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その2

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 二.「判断論」全体の問題点

(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか

【1】主観性と客観性の対立(分裂)の関係は、本質論の現実性(労働)で
 すでに触れられ(『小論理学』148節)、概念論の概念でそれは止揚されている。

【2】「概念論」が主観性、客観性、理念との3分される以上、
 主観性の段階は、主客の対立の未分化の状態としてとらえられている。

【3】主観性と客観性が対立(分裂)するのは、
  客観性の目的論であって、ここではない。

【4】判断は存在世界の運動であり、それゆえにそれを反映する
 人間の認識の運動でもある。
 認識主体と対象(客観性)は、一体のものとして扱うのがこの主観性の段階。

 以上は、ヘーゲルの論理学の上での説明だが、これは現実には何を意味するのか?
 牧野もこれを問題にし、その答えは出していない。

(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。

【1】判断を発展させる原動力は、
 [コプラ](である)が主語と述語の「同一」を示すのに、
 実際の主語と述語が全面的に一致していないという[矛盾]にある。
 その一致をめざして運動がおこり、それが判断論の進展である。

【2】コプラは概念そのもの。
 概念の契機である、普遍、特殊、個別の3要素はコプラに内在する。

【3】コプラの充実とは、主語と述語の両者が全的に一致すること。

【4】関口は、コプラを軽視するが、
 これはそこに矛盾の運動を見られないことと関係する。

【5】普通の言語学では、コプラは「主語と述語を『つなぐ』」と言うが、
 「同一」だとはいわない。これは問題を矛盾にまで突き詰められない悟性の限界。

(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
   判断から推理への進展は何を意味するのか

【1】判断から推理へ 2項から3項へ。
 普遍、特殊、個別の区別が潜在的だったものから顕在化する。

【2】判断論では、個別は普遍、特殊は普遍、個別は特殊と進展する
 主語は、[個別]→ 特殊 →[普遍]と
 述語は、[普遍]→ 特殊 →[個別]と進展する。
 そして、これは最後(必然性の判断の選言判断)には
 主語と述語との位置が逆転することを意味する。

【3】判断の有限性。推理は無限。人類は男女から子どもを介して無限。

(4)文(命題)と判断とはどう違うのか

【1】論理学では、判断の述語となる言葉(概念)だけを対象としている。
 つまり、文(命題)一般が対象ではなく、
 判断の形になっているレベルを 問題にしている。
 判断とは、問いの形に意識されたものに答える形になったものだ。
 したがって、単なる描写は、最初から問題にならない。

【2】では、ヘーゲルでは文(命題)一般はどうとらえられ、分類され、
 それがどう発展したのが判断になると、理解されているのだろうか。
 それが書かれていない。

【3】判断が前提されるが、それはカントの影響も大きいだろう。

(5)仮言判断の問題

 ヘーゲルの判断論では、仮言判断は、必然性の判断の中に、
定言判断→仮言判断→選言判断として出てくる。

 しかし、仮言判断は、ヘーゲルにあっては、定言判断と選言判断の
媒介としての意味しか示されていないように思う。これでは仮言判断の持つ、
大きな意味のほんの一部しか明らかにされていないのではないか。

 この仮言判断で、初めて主語が2つ、したがって文が2つ現れるのだが、
その意味が十分にとらえられていないと思う。

 関口の「不定冠詞論」で第10章の「不定冠詞の仮構性の含み」では、
不定冠詞をつけた名詞が、一語で一文の意味(つまり「含み」)を
持つことを説明している。

 この「仮構性」で「約束話法」とは、仮言判断のことだろう。
また、「普遍妥当命題の主題目」の名詞に不定冠詞がつくのも、同じで、
例証的個別、架空的個別を出すと説明している。
1語の中に、条件文は「含み」として含まれるのだ。
「もし○○(名詞)が存在するならば」「もし○○が?ならば」。

 そもそも「否定」の文とは、「○○が?する」のを否定するのだが、
そのためには、先ず、○○を存在させ、その上で否定しなければならない。
この二重の手順なしに、否定はできない。
つまりある主語(名詞)の存在(または他の動詞)を否定するには、
まずはその存在(または他の動詞)が条件として含まれていると言える。
これは存在→否定とのヘーゲル論理学の展開とも関係するだろう。

 一般論を述べるにも、ある個別の主語(名詞)の存在
(または他の動詞)が前提とされる。
これらは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の二重性となっている。

 この「肯定と否定」の二重性は、ヘーゲルでは肯定判断と否定判断の
悪無限として質の判断ですでに説明されていた。
したがって、それは反省の判断でも、必然性の判断でも前提だ。
しかし、それまではその二重性が表に出て見えることはなかった。
こうした二重性が仮言判断では、はっきりと表に現れている。
仮言判断とは、潜在的な二重性が顕在化する段階なのではないか。
これが、文が2つ現れて来るという意味ではないか。

 その上で、主語が2つ現れるという、
仮言判断の特殊な側面が問われることになるのではないか。
ヘーゲルには、後者の説明はあっても、前者がない。
これはヘーゲルがカントに依存し、その範囲で考えていることから
生じているのではないか。

(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか

【1】[仮言判断]では、主語が2つ現れる。
 したがって、文も2つあることになる。

【2】複文 主文と従属文。条件文(副文)は、[概念の判断]で現れる。
 この意味が説明されなければならない。私見は(5)に書いた。
 また、仮言判断は、論理的には推理ではないか。
 概念の判断もそうではないか。

(7)概念のナカミはどこで問われるのか

 人間とは?(人間の概念)である という判断は、この判断論では現れない。
 先の規定で、[精神哲学]における内容だから。

(8)カントとの関係

【1】ヘーゲルが行ったのは、カントが示したカテゴリー表、判断の分類の意味を深めただけ
 カントが考えていたことの潜在的な意味を、顕在化させただけ
 逆に言えば、この「?しただけ」(深めた)が重要。それが継承(発展)させること。
 これが私たちができるベスト。

【2】二人の違い
 すぐにわかるのは、カントの量から質の順を、ヘーゲルは質(定存在)から始めて、
 反省(量ではないが、全称や特称を扱う)へと展開したこと。
 他も、全体にそれぞれの判断の意味を変えている。
 しかし、ヘーゲルがカントに引きずられている部分もあるのではないか。
 判断の4種類など。

【3】仮言判断におけるヘーゲルとカント
 ヘーゲルとカントでは、仮言判断と因果関係との関係が正反対。
 カントは、仮言判断の存在から原因結果の関係を導出する。
 ヘーゲルは、逆である。
 これはカントがカテゴリーを人間の悟性の行う判断の形式から導出しようとし、
 ヘーゲルにとっては、概念の運動から判断を導出しようとしているのだから当然。

 それよりも、仮言判断と原因結果の関係を結び、
 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断としているカントに、
 どれだけ強くヘーゲルが依存しているか、その側面こそが問題なのだ。

(9)アリストテレスとの関係

【1】アリストテレス以来の形式論理学の批判になっている

【2】アリストテレスでは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の対立が
 絶対的な基準になっているが、ヘーゲルはその相互転化を示すので、
 その対立は止揚される。

【3】ヘーゲルの論理学では、肯定判断と否定判断の相互転化は質の判断で示される。
 反省の判断以降では、この肯定と否定は契機として止揚されているから、
 その後の判断において繰り返し出てくるが、表には肯定の形しか示さない。
 それは止揚しているので、一々示す必要がない。

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1月 19

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

=====================================

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として

(1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか

 「神(絶対者)は?である」。
 この「?」のところに述語として入る言葉を、1つ1つ取り上げている。

【1】人間の認識は、実際はすべて判断の形をとっている。
 それを悟性の能力とし、そこから基本カテゴリーを導出したのはカント。
 ヘーゲルもその考えを継承している。

【2】その上で、主語は名前でしかなく、実質上はその述語が認識の内実だから、
 その述語だけを取り上げて展開していったのが、ヘーゲルの論理学。
 実は、これは関口ドイツ語学の考えと一致する。
 関口も判断では「述語が達意の中心」だという。

【3】ただし、ヘーゲルは、思考と存在は一致すると考えるから、
 述語の展開は、認識だけではなく、存在の運動でもある。
 つまり、対象は自ら判断するのであり、人間はそれゆえに、
 その対象の認識の運動としてその判断が可能になるのだ。

【4】また、ヘーゲルの論理学では、存在論、本質論までは判断の形式だが、
 概念論の中では推理の形式に移行し、高まっている。
 ただし、論理学では最後まで形式としては判断の形で貫いている。

(2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか

【1】そこまでは、主語は名前でしかなく、その内実は述語だから。
 (潜在的には推理の論理があるが、表面には出てこない)

【2】それが概念論から変わる
 特に、判断論の必然性の判断(選言判断)で主語と述語関係が逆転する。
 主語が普遍になる(類)ところで、判断論として考えることは無理になっている。
 もはや主語は名前でしかないものではない。
 述語と完全に一致した名前とは概念である。
 判断が推理に止揚された段階で、判断の後ろに、常に推理があったことが示される。

(3)概念論の主観性の[判断論]

【1】これは存在論、本質論で展開してきた概念の全体を、
 それが判断の述語の展開であったことから、判断として捉え直し、
 判断としての価値、意義と限界を捉え直したものになっているのではないか。

 つまり、

 1)質の判断は、存在論の捉え直し
 2)反省の判断は、本質論の仮象論と現象論
 3)必然性の判断は、本質論の現実性論の捉え直し。
 4)概念の判断は、3つの判断を止揚して、概念論のレベルで現れたもの。

(存在論、本質論と、判断との対応については『小論理学』171節の付録に詳しい。
4つになる理由を、本質論では反省関係になって2つになると説明している。
しかし、これはカントに引きずられているのではないか。
最後の概念の判断が余計だと思う。その理由は後述。

 『ヘーゲル大論理学 概念論の研究』(大月書店)でも
70ページにそうした叙述がある。ただし、反省の判断と必然性の判断が、
本質論のどこに対応するかは書かれない。概念の判断については、

「現実の事物の真の発展とはどういうものか、それをとらえる真の判断、
真の認識とはどういうものか、をあきらかにします」とある。

これでは推理との違いがわからないだろう。
また、ヘーゲルの論理学が、判断の述語を展開したものであり、
そのこと自体の意味は何かといったところまでの深まりはない。)

(4)概念論の主観性の[推理論]

 推理は、(3)で説明した4つの判断を、
推理の立場から価値づけ、意義と限界を捉え直したもの。

 これは、判断を発展の論理(普遍、特殊、個別の関係)として
捉え直したものになっているのではないか?

 そうすると、

 1)質の推理が、質の判断の捉え直し
 2)反省の推理が、反省の判断
 3)必然性の推理が、必然性の判断の捉え直し

 となる。

 しかし、こうだとすると概念の判断に対応する推理が
出ていないことになる。必然性の推理が、概念の判断の捉え直しなら、
選言推理がそれにならないとおかしい。

※もともと、概念の判断がおかしい。
 これは推理論で出すべきではなかったのか。
 これはカントに引きずられたのではないか。

※この傍証として、『ヘーゲル大論理学 3』
 (寺沢恒信訳注 以文社)、195ページを指摘できる。

 「客観性」の2つの意味を「主観性」の2重の意味から説明するが、
主観性論の推理からではなく、「判断の完成としての必然判断」から出している。

(5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という大きな括りの中で示される。

【1】[本質論]の現実性、必然性、実体で、すでに発展の論理の芽は出ているが、
 表面的には内化と外化の統一とされているだけだ。

【2】[主観性]では
 まず[概念そのもの]の段階で、
 普遍、特殊、個別の3契機としてとらえ、後の推理で発展の論理を示せるようにする。

【3】[判断論]で、コプラ(概念そのもの)を媒介として、
 この3契機の内の2つが媒介されるとし

【4】それを受けて、[推理論]で、普遍、特殊、個別の3契機を
 発展の論理としてとらえた。
 ここに、普遍、特殊、個別の3契機による発展の論理は示された。
 これは発展の論理が自覚された段階になる。

【5】次の[客観性]では、この世界は発展の論理を内在化して持っている存在である。

【6】[理念]は主観性と客観性の統一だから、
 世界の発展(客観性)が、その概念(主観性)に一致する。

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1月 16

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その5

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか

 (1)「精神現象学」派と「論理学」派

 竹田は、ヘーゲル哲学に、特に『精神現象学』に大きな影響を受けたと言う。
彼にはヘーゲル哲学を論じた多数の本があるし、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』という、すごいタイトルの本も出している。
その「はじめに」を読むと、竹田が論理学をほぼ全否定していることがわかり驚いた。

 「『大論理学』は哲学としてはもはやほぼ使い道が無く
  過去の遺物であり(中略)『精神現象学』の注釈くらいに考えていい」。
 

 ヘーゲル哲学に関心を持つ人は、「精神現象学」派と
「論理学」派にはっきりと分かれるようだ。「文学的な」人が、
精神現象学派には多いように思う。彼らの直感的で感性的な体質に
合っているのは、精神現象学であって、論理学ではないだろう。
論理学は論理そのものだが、精神現象学は具体的な叙述が多く、
内容を捉えやすいことも関係するだろう。

 竹田は、精神現象学派の典型と言って良い。
精神現象学を高く評価する一方で、論理学を否定する。
しかし、すでにここで大きな疑問が起こる。そもそもある人の思想内容と、
その論理展開を切り離すことができるのだろうか。ヘーゲルの思考内容を
評価するなら、その内容はどこから生まれたのだろうか。それは最終的には、
彼の思考能力、つまり論理的能力以外にはないのではないか。
まさか、ヘーゲルが「直観」だけで真理を把握したとは言うまい。
「直接知」の立場を徹底的に批判したヘーゲル自身が、
そうだったとでも言うのだろうか。

 「精神現象学」派と「論理学」派の対立を考えるとき、
牧野紀之の下で起きたある事件を思い出す。牧野は40年前から
ヘーゲルを指導する学習会を主催していたが、そこには精神現象学と
論理学のそれぞれの原書講読のクラスがあった。受講者はどちらかに分かれ、
両方を受講する人は少なかったようだ。精神現象学を読んでいた人たちは
吉本隆明好きで、ある時、吉本を批判した牧野に反旗を翻し、
ほとんどが辞めていった。論理学のクラスではそうした劇的な場面はなかった。

 牧野自身は論理学派だと思うが、その立場から精神現象学も
丁寧に読み込んでいる。その記録が、彼の『精神現象学』の翻訳と注解だ。
私も牧野と同じスタンスである。特に、その序言、序論は重要だと思う。

 (2)竹田による「自己意識論」の解釈

 竹田の読解は直感的だが、実際の生活経験を振り返り、
的確なヘーゲル理解に到達している部分がある。例えば、
『自分を生きるための思想入門』(芸文社)の25?29ページでは、
『精神現象学』の「自己意識論」を、身近な具体例からわかりやすく
説明している。

 ストア主義の例に、教室でわかっていても手を挙げない
反抗的な子どもを出し、懐疑論では、どのような意見や主張に対しても
シニカルにかまえて水を差す青年の例を出す。不幸な意識の例では、
マルクス主義やキリスト教への「信仰」を出す。そうした大きな物語に
自分を一体化して他人の上に立つことは、同時に大儀のための自己犠牲をも
要求されるという矛盾であることを示している。そこでは自己否定(忠誠心)の
度合いの競争になり、依存を深めて自立を妨げることになりやすい。
それを見抜き、この不幸な意識の例としているのは、さすがに卓見だと思う。

 竹田が読まれているのは、こうしたすべての人の生活経験から
論理を拾い上げる力が、一般のレベルと比較すれば抜きんでているからだろう。
これは、自身や周囲の経験を、繰り返し考え続けて、そこから
自分の思想を作ろうとする竹田の姿勢から生まれている。その正しさが、
ある深さに達しており、それが人々の共感を呼ぶのだろう。

 竹田が取り上げた3つの例は、竹田自身の経験の反省から
生まれたものだと思うし、私自身にも思い当たることが多い。
特に不幸な意識の矛盾は重要だ。これは政治、宗教、学問などで
無数の例を出せるだろう。共産党と知識人の関係などでも、
多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を
出してきた。

 実は、同じ事は、牧野紀之の下でも起きていた。
「先生を選ぶ」ことが、依存を強め、先生の奴隷になってしまう。
そうした人も出たし、私にもある時期そうした段階があった。
「先生を選べ」の原則を作った、その牧野の足許で、同じ事が起こるのだ。

 (3)竹田の限界

 竹田のすぐれた面を指摘してきた。しかし、竹田が論理学を否定したことは、
竹田の論理力にそのまま跳ね返っている。彼の思考の荒さや弱さだ。

 牧野は訳注(358ページ 注1)で、すぐれた説明として竹田説を紹介、
長々と引用している。しかし、評価するだけで限界を言わない。
私がその問題点を指摘しておく。

【1】竹田が出した3つの経験と、そこにある論理は確かに重要な問題を提起している。
  ヘーゲルの論理との対応関係もある。
  しかし、3つの例はすべて、「3つの範型」として、バラバラに
  事例として出しているだけで、そこに論理必然性はない。
  自分が考えた3つの経験を、ここにただ当てはめただけだ。

【2】だから、ストア主義と懐疑論が対立、相互関係として捉えられていない。
  また、ストア主義と懐疑論に対して、不幸な意識は両者を止揚した
  上のレベルなのだが、それも無視されている。

【3】「自分が他人より優れている、上に立っている」。この表現が一面的だ。
  主と奴の関係が逆転したことを前提に、ヘーゲルはここで展開している。
  したがって、上下関係は相対的なものでしかないことは、すでに明らかになっている。

【4】ストア主義の例
  これを「他人の承認を求めていない」と竹田は言うが、そうだろうか。
  「バカにした他者からの承認」を否定し、その否定とは自己を自己が
  承認しているのだから、それも「他者からの承認」と言えるのではないか。

【5】懐疑論の例。「相対的に上位」、【6】不幸な意識。「他人より上位に立つ」
  これらも違うと思う。「他人の下位」でも、承認になるのは、いじめの論理が証明する。

 以上の批判に対して、私の代案は三.と四.に書いたとおりだ。

 竹田の論理的思考の弱さを指摘してきたが、これはただの揚げ足取りだろうか。
こうしたことは問題にならないだろうか。竹田は不幸な意識の矛盾を的確に指摘できた。
しかし、それだけでは、その問題を真に解決することはできないと思う。
事実、竹田によるこの問題の解決策は書かれていないと思うのだが、どうだろうか。

 一方で、論理的には竹田を圧倒する牧野紀之は「先生を選べ」の原則を出し、
この問題への解決策を示すことができた。それはまさに論理の力だろう。
しかし、その牧野の下で、「牧野信仰」が起きていたのも事実である。

 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。この『精神現象学』執筆の
時点では問題にならなかったろう。『精神現象学』の「不幸な意識」の平板さは、
こうした問題を考えていなかったことも関係するだろう。
しかし、ヘーゲルがベルリン大学の教授になり、多数の弟子に囲まれて
名士に成り上がってからは、どうだったのだろうか。おそらく多数の
「ヘーゲル信仰」の若者や学者たちが、その取り巻きの中にいたことだろう。
ヘーゲルはそれには何も語っていないように思う。
さて、今度は私の番である。私はこの問題を解決できるだろうか。

 なお、竹田は、『自分を生きるための思想入門』で出した例を、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』の自己意識論の箇所では出していない。
これはどうしてなのだろうか。

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